すべて「道具」である【あした死ぬ幸福の王子②】

こんにちは、らるです。

先日に引き続き
こちらの本を紹介していきたいと思います。

今日は、

すべては「道具」である

という話です。


ハイデガーはこう言ったそうです。

ハイデガーは人間にとって人間以外は『道具』だと述べている。

飲茶. あした死ぬ幸福の王子――ストーリーで学ぶ「ハイデガー哲学」 (p.59). ダイヤモンド社. Kindle 版.

この話はどうでしょうか?

生き物とかも道具なの?
…なんて疑問が出てくるかもしれませんが

道具を『目的達成の手段』と位置付ければ
まあ、そうかな? 
という気はしますよね。

例えば、身の回りの生き物…
ペットであっても
「自分のさみしさを紛らわすため」とか
何らかの目的があって買ってくるわけですから
そういう意味では『道具』の一種だと言えます。

自分自身にとって
周りのものはすべて道具
 なわけです。


じゃあ、周りの「人間」は?

これは、周りの「人間」相手にも
成り立ってしまうでしょう。

周りの人間も『道具』なんです。

会社だったらわかりやすいですね。

上司は、自分に指導をしたり
責任を取ってくれるために存在しているし

同僚は、一緒に会社の
仕事を進めてくれるために存在しているわけです。

(仮にしてくれないとしたら
きっと不満が出るでしょう。

それは、思い通りになっていない
=『道具』が思ったように働かない からこそ
出てくる不満なわけです

結局、道具扱いなことにかわりはありません)


ただ、一つだけ例外があります。

それは『自分自身』です。

世界のあらゆるモノは、『自分』という究極の目的のために道具として現れているのだ。

飲茶. あした死ぬ幸福の王子――ストーリーで学ぶ「ハイデガー哲学」 (p.72). ダイヤモンド社. Kindle 版.

ただ、一方で
「他人」にとっては、「自分」も道具にすぎないわけです。

ここから、一つの大きな問題が起こってきます。

人間は、相手から道具だと思われながら日常生活を営むうちに、ついには自分から『自分自身を道具だと思い込む』ようになる」

飲茶. あした死ぬ幸福の王子――ストーリーで学ぶ「ハイデガー哲学」 (p.72). ダイヤモンド社. Kindle 版.

この点は、私がこの本を読んでいて
とてもハッとさせられたところです。

例えば、会社から、一人の社員だと扱われているうちに

会社にとっての社員が私である

…と、思うようになってしまう
ということです。


これ自体は別に間違いじゃないですよね。

ただ、道具というのは
交換可能なものなんです。

社員なんて、たくさんいて
自分が居なくなってもいくらでも変わりが居ます。


先ほど言った通り
自分にとっての自分自身は
代わりの効かない「道具ではない」
唯一無二のもののはず
 なのに

他人から『道具』として見られているうちに
『道具としての自分』=交換可能な存在 として
自分を見るようになっていく

というわけです。

確かに、私も、私自身を
他者視点からの『道具』として
みなしていたなぁ…と、気が付きました。

自分は、息子であり、孫であり、兄であり
部下であり、先輩であるわけですが
そのいずれも代替は可能なものなわけです。


これ自体は、普段は何も問題をおこしません。

ですが『死』に直面したときには

①「死によって私が消えた世界」を思い浮かべてみた。
②すると、何事もなく世界が続いていくことが想像でき、いかに私が「交換可能な存在」であったかが思い知らされてしまった。
③「交換可能な存在」ということは、いくらでも代わりはいるのだから、私は本質的に「この世にいなくても良い存在」であり、無価値で無意味な存在にすぎない。

飲茶. あした死ぬ幸福の王子――ストーリーで学ぶ「ハイデガー哲学」 (p.77). ダイヤモンド社. Kindle 版.

こんな「自分の無価値性」という
残酷なことに気が付く
わけです。

他者の「道具」としての自分に価値はないわけです。

ですが、普段は忘れているだけで
本当は、自分自身は他者の道具ではない
かけがえのないものなわけです。

死を実感すると
他人の視点がどうでもよくなる…というのは
「他者の道具」ではない「かけがえのない自分」だった
ということに気が付くから、というわけですね。

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