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「欲しいもの」があるなら、まず他人にあげなさい【寝ながら学べる構造主義】
こんにちは、らるです。
欲しいものを手に入れたい
そう思ったとき、どうすればいいでしょう。
自分で手に入れる…ということは
できるのでしょうか?
実は…そのカギは「贈与」にあったんです。
贈与と返礼のシステム
以前に『野生の思考』で
紹介した文化人類学者レヴィ・ストロース
彼は、いわゆる「未開」の地に住む人たちを
研究する中で、
近代的な社会でも
未開と呼ばれる社会でも
共通している機能があることを示しました。
それは
「人間社会は同じ状態にあり続けることができない」と
「私たちが欲するものは、まず他者に与えなければならない」という
二つのルールです。
今回のタイトル
「欲しいもの」を手に入れる
…のポイントは2つ目のルールの
「私たちが欲するものは、まず他者に与えなければならない」
の方です。
贈与と返礼は社会にどのような効果をもたらすか
(中略)
それは、「人間は自分が欲しいものは他人から与えられるという仕方でしか手に入れることができない」という真理を人間に繰り返し刷り込むことです。
何かを手に入れたいと思ったら、他人から贈られる他ない。そして、この贈与と返礼の運動を起動させようとしたら、まず自分がそれと同じものを他人に与えることから始めなければならない。それが贈与についての基本ルールです。
まず自分が与える
これをしなければ、
欲しいものは手に入らない
…というわけです。
ホントかな? と
一瞬思ってしまいますね。
「自分のほしいものを
手に入れる時、普段は
どうしていたっけ…?」
と、考えてみると…
大抵は、お金を出して買っていますよね。
これも一つの贈与と返礼に類する
コミュニケーションということなんでしょう。
レヴィ=ストロースによれば、人間は三つの水準でコミュニケーションを展開します。財貨サーヴィスの交換(経済活動)、メッセージの交換(言語活動)、そして女の交換(親族制度)です。どのコミュニケーションも、最初に誰かが贈与を行い、それによって「与えたもの」が何かを失い、「受け取ったもの」がそれについて反対給付の責務を負うという仕方で構造化されています。
お金を出して買う…というのは
『財貨サーヴィスの交換』に
あたっていそうですね。
なるほど確かに…と、思います。
ただ、ここで、他の2つ
・メッセージの交換(言語活動)
・女の交換(親族制度)
これらは、お金のやりとりとちがって
渡したら、必ずその相手から返ってくる…
というものではありませんよね。
(娘を嫁に出したからと言って
別の家族を交換でもらえる
…などということは、ないですよね)
ココについても、ちゃんと説明があります。
贈与と返礼のプロセスは
単に2者間の交換にはならないんです。
婚姻規則に典型的に見られるように、反対給付は、二者のあいだでピンポンのように行き来するのではなく、絶えず「ずれてゆく」からです。ある男Aが別の男Bから「その娘」を妻として贈られた場合、その男Aは「自分の娘」を男Bに返礼として贈るのではありません。別の男Cに贈るのです。
「パートナーたちは、自分が贈った相手からは返礼を受け取らず、自分が贈られた相手には返礼をしない。あるパートナーに贈り、別のパートナーから受け取るのである。これは相互性のサイクルであるが、一つの方向に流れている。」(『構造人類学』)
AからBに贈与しても
BからAに返礼があるのではなく
Bは別のCに返す
Cもまた、Bに返すのではなく
別のDに返す…
社会はこういうサイクルシステムになっている
というわけです。
日本のことわざで言えば
『情(なさ)けは人(ひと)の為(ため)ならず 』
(=人に親切にすれば、
めぐりめぐってよい報いとなって
自分にもどってくる
だから、情けをかけるのは、
人のためではなく、自分のためである)
に近いイメージかと思います。
「欲しいものを手に入れるための結論」としては…
まず、自分から欲しいもの与える
与えた相手からすぐに返ってくる…
というわけではないので
巡り巡ってくるのを待つ
ということになるでしょう。
この話は、モノで試すのは
中々難しそうですが
分かりやすく簡単なのは「言葉」でしょう。
優しい言葉が欲しい人は
まず他人に優しい言葉をかけるところから
ということです!