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象徴

本番の一週間前、我々がお芝居の稽古をしていると、何者かが稽古場に入って来ました。その者は、黒いキャップに黒いマスクをしており、不審者のようにも見えました。

「誰だ、あれは?」
「知り合い?」
「いや、ちょっとわからないな」

その者は、稽古場の隅に申し訳なさそうに正座し、我々の稽古の様子をじっと観察し始めました。その時、トイレから戻って来た文目くんが言いました。

「あれ、ひょっとして太田カツキなんじゃないか?」

我々は、その何者かを見ました。太田カツキと言われれば、たしかに太田カツキに見えなくもありません。みんなから見られて居心地が悪いのか、その何者かはもじもじしているように見えました。しかし黒いキャップと黒いマスクのせいで、よくわかりません。

「あんな、よくわからない者を気にしている場合じゃない。我々には時間がないんだ。稽古をするぞ」
「はい」

演出のみずきくんが檄を飛ばし、稽古が再開されました。
黒っぽい何者かは、足が痺れたのか、ものの五分で正座をあぐらに変更しました。

物語の中盤、まっつんが油性ペンでおなかに顔を描き、腹踊りをするシーンに差し掛かった時、黒っぽい何者かが「ふふっ」とかすかに笑いました。

「あ、笑った」
「黒っぽい何者かが笑った」
「あれ、やっぱり太田カツキなんじゃないか?」

腹踊りをしながら、まっつんが言いました。まっつんの腹踊りで笑うのは、全国を探しても太田カツキくらいしかいません。みんなが、その何者かの方を見ました。居心地が悪いのか、黒っぽい何者かはもじもじし始めました。

「けれど、太田カツキが稽古に来るわけがないよ、あいつの出現率はツチノコより低いんだ」
「たしかに、稽古場で太田カツキは見たことがない」
「ゴドーより来ないって聞いたぜ」
「それはもう絶対来ないやつだろ」
「でも、まっつんの腹踊りで笑ったよ」
「それは、まっつんの腹踊りが上達したのさ」
「なるほど」

どうやら、まっつんの腹踊りは東京ドームで披露できる程度に上達したようです。調子に乗ったまっつんが、腹踊りを2時間踊っていると、他の出演者は休憩に入り、黒っぽい何者は、寝転んでスナック菓子を食べ始めました。

物語の終盤、高木さんが残像拳を習得して6人に増えるシーンの稽古をしていると、高木さんの携帯電話がけたたましく鳴りました。着信音は「夜明けのスキャット」でした。

「ちょっと、高木さん」
「ごめん、ごめん」

すると、黒っぽい何者かが急に立ち上がり、「夜明けのスキャット」を歌い始めました。

 ♪ル ル ルルル
  ル ル ルルル
  ル ル ルルル
  ルルル ル
  ラ ラ ラララ
  ラ ラ ラララ
  ラ ラ ラララ
  ラララ ラ
  パ パ パ パ パパ パ
  パ パ パ パ パパ パ
  ア アアア ア
  ア アアア ア
  ル ル ルルル
  ル ル ルルル
  ル ル ルルル
  ルルル ル ル

「あれはもう、太田カツキだろう」

太田カツキには、夜明けのスキャットを聞くと歌い出す習性があるのです。みんなが、その黒っぽい何者かが太田カツキだろうと確信めいた視線で見ていると、居心地が悪くなったのか、黒っぽい何者かは「じゃあ、俺は、これで……」と言い、稽古場から出て行きました。

この日はお昼からの稽古だったのです。夜に稽古をしても、太田カツキは稽古場に来られません。吸血鬼が太陽光を浴びることで身体を焼いてしまうように、太田カツキは月光で身体を焼くのか、と言わればそんなことはなく、夜は仕事をしているため、稽古場に来ている場合ではないのです。
あの黒っぽい何者かが、実際に太田カツキだったのか、太田カツキではなかったのか。本当のところは誰にもわかりません。けれど黒っぽい何者かがかすかに笑い、夜明けのスキャットを歌った時、我々はたしかに、あの稽古場で、太田カツキを見たのです。太田カツキは、太田カツキではないけれど、太田カツキなのです。

何が言いたいのかというと、大体2mm 10周年記念公演「水曜日の男」は、今週末本番です。
劇場でお待ちしています。


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