投擲の余韻
誰かに認めてもらうことが、私にとっていちばんのやりがいだった。目に見える結果を残したい。それを見て褒めてもらいたい。友達が落ち込んでるときには「でもここまで頑張ってきたの知ってるよ」と声をかけるのに、自分自身に対しては過程よりもはるかに結果主義なのだと、ここ数年でようやく自覚をした。
けれど私は、努力をしている姿というのをあまり人に見られたくない。ひっそりと頑張って、大丈夫だと思って挑み、ちゃんと結果を出してそこで初めて人の目に触れたい。小さなときからそうだった。隠れて努力をすることはすごいことなのだと、いつのまにか身に擦り込まれていた。
きたないところは見ないでほしい。泣いてる姿にも気づかないでほしい。そう思っているのに、うまく隠しすぎて相手に「頑張っていない」と否定されてしまうと、途端にそれらに気づいてほしくなってしまう。信頼が欲しい。襖は開けないまま、私が襖の向こうで丁寧に機織りしていると信じて、私が出てくるまで待っていてほしい。それから私が出てきてから、手放しに褒めてほしい。
それを望むのは贅沢なのだろう。
そういった相反した気持ちというのは、インターネットにも言えること。たとえばここに書いている私の文章は、誰かに届いてなぐさめてほしいという気持ち(ここに共感してほしいという気持ちが入っていないのは、私だけの苦しみや悲しみだと思っていたものが誰かと共有していたものだということに気づきたくないから。傲慢。)から投稿しているのだが、同時に誰にも届かなければいいのに、とも思っている。放っておいてほしい。さらりとした承認欲求とぽろぽろと出てきた心の垢をボトルメッセージのように流している。じゃあ誰でも見れるところに投稿するなという話なのだが、基本的にはなぐさめを求めていたり私の文章を読んで誰かの心を支えられたらいいな、との思いがあるので投稿している。
だから私の記事にひとつでも反応が来ると驚く。
あ、反応しないでほしいということではなくて、この記事を流した海の向こう側にちゃんと人がいたこと、その人に私の文章を読んだことによる何かしらの心の動き(私にとって誰かの記事に「スキ」をつけるということはそういうことなので)があったことなどを実感するから驚くだけ。
でもやっぱりnoteを書くいちばんの理由はただ自分の心の動きを記しておきたいから、というものなので、反応を目当てにしてしまうようになってしまったらどうしよう、と常々思っている。
波みたいに、承認欲求がやってきては急速にひいて、また大きな波となって打ち寄せてくるから。いつか私が飲み込まれてしまうことを恐れている。
でも私の書く記事(記事と言うほど大層なものではない)が、何かしらの形で読んだあなたの心を潰さないようにする緩衝材になれたらうれしいという気持ちもまた本物である。こいつ馬鹿じゃねえの、底辺なゴミ人間だな、でもいいし、こいつよりは惨めではない、よかった、でもいい。とにかくあなたの心がぺしゃんこにならなければ、それで。こんなことを思っているのも傲慢でしょうか。
まあ結局最近は隠れた努力すらできていないんだけどね。
惨めな人間だなって、思った?
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