ラララの空|ちひろ

自分を生きる冒険家♪ 『人一倍自分を生きたかったくせに、人一倍自分を生きてこなかった』…

ラララの空|ちひろ

自分を生きる冒険家♪ 『人一倍自分を生きたかったくせに、人一倍自分を生きてこなかった』 そんな数十年を経て、やっと今、自分を生きる に着地。 そんな私の「"自分を生きる"のすゝめ」

最近の記事

感情ってやつは

波風立てないようにしよう 穏やかな状態を保とう、、 だから 感情を出ささないように 怒らないにように、、 そうやって 追い払ったつもりの”怒り”が 思い出すと蘇ってくる 昔の腹立たしいあんなことやこんなことも まだ沸々とマグマが残ってるのが分かる。。。 そんなことないですか? そう 感情って、 いつまでも残ってることがある その感情が残っているから、 過去のことなのに まだ終わってない。。 それは、知らず知らず その過去を引きずって または、その過去に振り回されて

    • 私が『自分軸に戻る』まで〜その2〜

      超他人軸だった私の自分軸に戻るまで。 幼少期〜20代前半まではこちら↓ 今回は、その続き〜20代前半から現在に至るまで〜を書いてみようと思う。 拒食症を機に 体の声を聞く、を意識するようになり、 “したい”って体が反応したことに動く、をし始めた。 24歳くらいからは 「したいことは実現する」を実感するようになり、、 その体感を積んだところで 26歳で 東京→地元 福山に帰り、 その経緯はこちら↓ そこからは 福山の人が元気になったら、、と ”地域活性化”を軸に動く

      • 自然と共にワークをする意味

        幼少期から、よく自然の中にいました そして、 大学時代から始めた旅 東京時代から始めた畑 子育て中にしていた米づくり なにげない日々 それぞれの中でも 自然の美しさに じーんと感動したり 自然の優しさに ほわんと助けられたり 数えきれないほどそんな体験をしました 自然の中では、 なにも持たない なにも飾らない ただただ そのままの私が姿を現し、 その私が受け容れられ、私も私を受け容れる のびやかな私を自然も歓迎し、共に過ごすその時間の心地いいこと そんな体感を何度も重ね

        • 私が『自分軸に戻る』まで〜その1〜

          ⁡我ながら、とてもいい子だったと思う。 ⁡ 3姉妹の長女として生まれ、 共働きで忙しい両親と祖母(父の母)の6人家族で育った。 ⁡ 勉強もよくし、先生にも従順、友達とも比較的仲良くし、 大人の言うことにも比較的従う、、。 ほんとにいい子だったと思う。 ⁡ 逆に 「あんたは特になんの問題もなかったから、どんな子だったかの記憶がない」 と、母に大人になってから言われるほど 特徴のない子だったとも言う。 ⁡ 𓂅 ⁡ そんな幼少期から「いい子の私」ができあがったのは、 私の中に自分に

          自分軸で生きることの大切さ

          今 この地球で生きている それは たまたま や 運命 なんかじゃなく 「その人が 地球でしたいことがあって その人の意思でここに生まれた」 からだと 私は思っています この考えは、 いろんな人から書籍や直接の言葉を通じて聞いたからと言うのもあるけれど、 私自身がそれを実感しているから、と言うのが大きい そう みんな この命でしたいことがあるから、ここにいるんだよーーー でも、 生まれた瞬間にそれは忘れてしまって(それが人間のおもしろいところ)、 でも、 頭は忘れて

          自分軸で生きることの大切さ

          そもそもみんな自分軸だった!

          生まれた時から一人一人にその人固有の感性・感覚 が備わっている。 この世界で、いろんなものを見たり、体験したりする度、その感性や感覚を元に、"気持ち"が湧き上がる 例えば 嬉しい・悲しい・ドキドキ・ワクワク・恐れ・怒り etcといった感情や こうしたい・こっちにしよう・あれは嫌だ・つまらないな etcといった想いや。 本来備わっている かけがえのない その人固有の 感覚やほんとうの気持ち 「私はこう感じる」「私はこう思う」「私はこうしたい」 ”自分軸”はそういうものだ

          そもそもみんな自分軸だった!

          戻る気なんて1mmもなかった私が、今 故郷 福山でしていること②

          前回からの続き 福山に戻るきっかけになったのは、 帰省の度に 通っていた鞆の浦での出会いだった。 鞆の浦は福山の南にある港町で 昔から潮待ちの町として海外を含め多くの船・人が訪れていた場所。 今もその当時からの風情・街並みが残る。 私はここが好きで、帰省するとふらりとここにきてはブラブラしていた。 そんな時に出会った鞆の人たちの繋がりで、 鞆を起点に瀬戸内を活性化するための事業の立ち上げに参加することになる。 まさに私がしたかった、地域活性! しかも鞆から! これだーー

          戻る気なんて1mmもなかった私が、今 故郷 福山でしていること②

          戻る気なんて1mmもなかった私が、今 故郷 福山にいるわけ①

          ”とにかく遠くへ行きたい” 大学もそうやって遠くの大学から順に調べて選んだような私は、 高校卒業時には、新しい地へのワクワクでいっぱいで、 「行ってきまーす」と意気揚々と故郷の福山を離れた。 その時にまつわるエピソードはこちら そうして、茨城の大学で4年、 その後はピースボードに乗ろうと東京に移り、 結局 東京での暮らしが楽しくなり、そのまま就職して、、と 気ままな日々を送っていた。 そんな時、友が「おもしろいとこに行ってきたよ」と、とあるセミナーを教えてくれる。 そ

          戻る気なんて1mmもなかった私が、今 故郷 福山にいるわけ①

          この世界は変えられる!

          ずいぶん前に参加したお話会で 参加者の一人が 「もうこの世界には絶望しか感じません」 と感想を言うのを聞いて びっくりしたことがある。 この話でこんな感想持つんだ!、って。 そう、 この世界がどんなふうに見えてるか この世界をどんなふうに感じてるか は みーんな違う そして、 それは自分の内側によって決まっている 「この世界には絶望しかない」が内側にある人は、 どんな時も そういうところに目がいくし そんな話が聞こえてくるし そんな体験をする そして、 「ほらやっぱこ

          この世界は変えられる!

          父が泣いた日

          「あの時、駅に向かうバスの中でお父さん泣いとったんよ。 それ見て、お母さんもつられてね、、、」 その話を聞いたのは、暫くたってからだった。 すごくびっくりした。 あの時の私は、 新しい世界がはじまることのドキドキとワクワクで前しか見ていなくて、 両親のそんな様子なんてちっとも気づかなかった。 生まれ育った広島の地を離れ、茨城の大学に行くことにした私は、 はじめての一人暮らし、はじめての地、はじめての大学という場、という はじめてづくしにすっかり夢中になって、そのことで頭

          自己紹介|はじめてのnote

          "運命の出会い"があるなら、私はまっさきにこの出会いを挙げる それは、私の生まれた目的を確認させてくれた出会い そして、そこへの大きな後押しをしてくれた出会い それは、ある樹との出会いでした 吉野の山奥に生きる一本の樹 私は映画を通じてその樹を知りました 圧倒的な存在感 そしてなにかをこっちに訴えているようなその姿。。 「会いたい、、」 すっかり魅了された私は 翌日インターネットでその樹に繋がる情報が無いかを探しました そしたら、、、見つけたのです そして、その2ヶ

          自己紹介|はじめてのnote