奈落の底(と思わしき場所)
思うに、奈落の底などない。
奈落の底だと思わしきその底は、ある日突然、パカッと開く。そして、私はさらにその下に落ちてしまう。
その底もまた、奈落の底ではない。そして、私はまた落ちる。
落ちて落ちて、落ちていく…
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目の前を快速電車が通過する。
ここは駅のホームだったと、我に返った。
月曜日の朝7時。私は今日も職場に向かうため、各駅停車の電車を待っている。
ーー快速電車が止まる駅を選べば良かったな
上京して10年。当時、右も左も分からなかった私は、この町に住むことを選んだ。
特に大きな理由はない。快速電車が止まらないから、家賃も安かったし、なんとなく故郷の雰囲気に似ていたから、とりあえず住むことにした。そして、そのまま10年が経った。
お店も少ないし、都心からも結構離れているので、どちらかと言えば不便な町だと思う。なのに10年間、特に好きでもないこの町に、私は惰性で住み続けている。
大学卒業後、私は故郷を離れて東京で働くことを決めた。なんとなく都会への憧れがあったからだったように思う。一人娘だったので、両親は心配したけれど、最終的には笑顔で見送ってくれた。そして、私は都内の人材紹介会社に就職した。
たしか、就職という人生の節目に携わりたかったからだったように思う。今では初心も忘れてしまったが、働き始めはやりがいにあふれる毎日だった。とにかく目の前のことを一生懸命頑張っていたと思う。
が、それがいつからだろうか。
やはり営業職である。数字がものをいうので、成約数をあげるための仕事をするようになっていった。人材紹介業は、求職者と求人者のマッチング。違和感を覚えながらも、多少強引な成約もするようになった。そして、いつしか違和感もなくなっていった。
評価もされ、それなりに昇進もしたが、入職したころのやりがいは感じられなくなっていた。
求職者には、やりがいのある仕事だと職場を紹介しつつ、やりがいってなんだろう、とか、はたらくってなんだろうと、ここの所ずっと考えてしまっている。
「高橋さん、ちょっと」
会社に着いて、デスクでそんなことを考えていたら、部長に呼ばれた。
「ここ、1ヶ月で3人立て続けに退職してるし、フォロー行ってきたら?」
職場への謝罪対応。
多少強引なマッチングを進めていた自覚もあり、最近は入職後、短期間で求職者が退職してしまうケースが増えていた。
人と職場を結びつける以上、扱うのは人。他者は自分の思う通りにはいかないし、人の心なんて分からない。ただ数字はあげないといけない。それがこの仕事の難しいところだと思う。
私は会社を出て、その職場へ向かうことにした。
ーー底だなぁ。
そう感じられずにはいられなかった。
ここの所、仕事もプライベートも上手くいかない。最近楽しいことってあっただろうか。ただなんとなく日々を過ごしている気がする。
「この時間だと、JRと地下鉄のどっちが早いだろう」
ぼーっと歩きながら、私はスマートフォンを取り出し調べ始めた。
と、視界の右側に自転車が入る。気がついた時には、私は転んでいた。
幸い徐行だったので大事にはいたらなそうだが、足を痛めたようで、動けない。
ふと、足元がパカっと開くイメージが思い浮かぶ。
ーーまた落ちた
「大丈夫ですか!?」
自転車を運転していたのは、高校生だった。すぐさまタクシーを拾ってくれて、行き先を運転手に告げる。
「さくら病院までお願いします!」
ーー皮肉なものだ。謝りにいく病院にこういう形で向かうなんて
私が務める人材紹介会社は、看護師に特化している。私はさくら病院に向かっているところだったのだ。
病院に着くと、その高校生が肩を貸してくれてロビーまで付き添ってくれた。
今思えば、私がぼーっとしていて、交差点に飛び出したのだ。この高校生は悪くない。
大した怪我でもなさそうなのに、タクシーの中で、彼は気遣いの言葉をたくさんかけてくれた。
目の前の人に一生懸命に真摯に向き合うって、こういうことなのだろう。少し懐かしい感じがした。
「もしかして、高橋さんですか?」
向こうからやってきた看護師さんが、そう言った。
「あ、佐々木さん!」
その看護師さんは、かつて私が担当した求職者の佐々木さんだった。
そういえば、就職して一番最初に成約できたのが佐々木さんで、職場はさくら病院だったことを思い出した。
佐々木さんは、話してくれた。
あれから10年間、さくら病院で働き続けていること。さくら病院に転職して、本当に良かったと思っているということ。ずっと、私に感謝してくれているということ。毎日一生懸命頑張っているということ。
かつての私も、あの高校生のように、目の前の佐々木さんに真摯に向き合っていたのだと思う。
過去の私が真摯に向き合ったからこそ、佐々木さんは今、幸せでいてくれているのだ
そしてこの佐々木さんは、このさくら病院で、たくさんの患者さんを幸せにしてきた。
きっと、はたらくというのは、目の前の人を仕事を通じて幸せにすることなのだろう。
自分が幸せにできた人が、仕事を通じて他の人を幸せにしていく。幸せは連鎖する。その幸せの連鎖の中に自分がいるなら、それはとても光栄なことだ。
なんとなく分かった気がした。
レントゲンを撮り終わって、椅子にかけていると佐々木さんがやってきた。
「良かったですね、骨は折れてないみたいです。少しすれば、痛みも引いてくると思いますよ。入院も必要なさそうです」
佐々木さんの笑顔は素敵だ。笑顔を向けられたこちらまで、笑顔になる。きっとこの笑顔でたくさんの患者さんを幸せにしてきたのだろう。私もこの先、たくさんの人を幸せにしよう。私は静かに決意した。
「ありがとう。まずは、引っ越してみようかな。快速電車が止まる駅に」
「え、何のことですか?」
佐々木さんは不思議そうに私を見ていた。
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思うに、奈落の底などない。
奈落の底だと思わしきその底は、実はまだ高いところにあったりする。そして、見渡してみると地上に向かって梯子がかかってたりする。
その梯子を登るか、底に留まって落ちるのを待つか。それは自分次第。
私は登ろう。この先、何度でも。
奈落の底だと思わしき場所に、落ちてしまったとしても。
※この物語はフィクションです