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心から尊敬する大先輩からのメール(銀河鉄道の夜 感想文)

#キナリ読書フェス

「あなたにはこれを勧めます。銀河鉄道の夜。」

と始まる、私が心から尊敬する大先輩からのメールを受け取ったのは、ゴールデンウィークの始まる今年の5月3日。この言葉に続き、大先輩の感想が述べられていた。

「彼(著者)は、仏教徒であり、キリスト教にも深い興味を持っていました。彼は人々への愛が最も重要なことと考え、そのための善とは何か、正しい行いとは何かを追及していたのだと思います。もう一つ彼が大切にしていたのは、宇宙や地球の美しさに感動する事ですね。(途中省略)

エンディングは衝撃的です。カンパネルラの行為は、釈迦が、腹を空かせて飢えている虎たちの群れに己の身を投げて虎を救おうとしたという説話に基づいているのではないかと勝手に考えています。
ストーリーもさることながら、銀河鉄道の列車の中から見る銀河や星座の美しさがこの本の大きな魅力ですね。」

(もう、私の感想を書く必要がない。)

これだけ壮大な感想をいただき、あつく勧められた銀河鉄道の夜。もちろんこの本は知っていた、が、小学校の教科書に載っていた、という程度しか記憶になく、著者の宮沢賢治についてはほとんど記憶に残っていなかった。

そんなに感動する話だっけ?宮沢賢治が仏教徒?いただいたメールに返信する前に、読まなければ。そうなると、仏教徒とか、内容の背景因子までは探れないから、「銀河鉄道の車窓の美しさ」を味わおう、と心を決めすぐに読んだ。

が、出だしで躓いた。出発点の銀河ステーションから理解できなかった。

「また、ダイヤモンド会社でねだんがやすくならないために、わざと穫れないふりをして、かくして置いた金剛石を、誰かがいきなりひっくりかえして、ばら撒いたというふうに、眼の前がさあっと明るくなって・・・」

銀河ステーションは美しいんでしょ?ダイヤモンドがばら撒かれているのだから。きらきらとまばゆいばかりの明るさが目の前に広がっているはずだ。なのに、その修飾語が、「わざと穫れないふりをして」とか、「誰かがいきなりひっくりかえして」とか、ダイヤモンドの輝きをくすませる表現になっている。心がざわっとした。

心がざわっとした表現は枚挙にいとまがない。

「水素よりすきとおった水」、「水晶細工のように見える銀杏の木」、「鳥捕りは、黄色な雁の足を、軽く引っ張りました。するとそれは、チョコレートででもできているように、すっときれいにはなれました。」、「貝ボタンのように見える森」

水の透明感を表す比喩が水素?当然、鳥を絞めたことがあるであろう著者が、鳥の足が引っ張っただけで、簡単に離れるといい、さらに、チョコレートの様と表現している。あっちも、こっちも引っかかった。

私が心から尊敬する大先輩が絶賛する、「銀河鉄道の列車の中から見る銀河や星座の美しさ」。一ミリもわからなかった。1回読んであまりにわからなかったので、恥を忍んで正直にメールした。

「読んでみましたが、1度では味わいつくせませんでした。不思議な表現が多くて、それが気になってしまいました。これから、再度読んで宮沢賢治の世界を味わいます。」と。

しかし、その後の大先輩とのメールのやり取りの中でこの話題が消えたのをいいことに、この本を再び手に取ることはなかった。でも、気になっていた。あの大先輩が心の底から感銘を受けた本を私は全く味わえていない。胸の中にもやもやとした肌触りの悪い塊となって残っていた。

そんな時、キナリ読書フェスに出会った。

そうだ、もう一度「銀河鉄道の夜」にチャレンジしてみよう!と意気揚々と早めに取り掛かった。が、やはり同じだった。銀河の美しさすら味わえなかった。

なんども読めるように、好きな字体の本を改めて購入し再読した。さらに、本の解説、宮沢賢治の生い立ちを読み、「宮沢賢治の父」のあらすじを読んだ。でも、銀河の美しさは味わえなかった。

「宮沢賢治の父」のあらすじ読んで、少し作者に対する印象が変わった。生真面目で、まじめ一筋の堅物かと感じていたが、いやいやどうして、結構好き勝手をしたりもしており、ちょっと人間味を感じた。だからと言って、表現されている銀河の美しさ、いろいろな解説で語られている、本当の幸せを求める心、はわからなかった。

心の底から悔しかった。

日本人として、こんなことでいいのか、とまで思った。でも、何度読んでみても、銀河の美しさを味わうことはできなかった。宮沢賢治の作風に慣れていないから味わえないのかと思い、別の短編も読んでみたが、別の物語には別のふしぎな表現を見つけてしまった。「銀河鉄道の夜」を深く味わうことができない、これは、ひとえに大先輩と自分の教養の差であろう。それは、間違いない。

しかし、日本の名作と言われる作品が、深い教養なしに味わえないはずがない、と思い直し、再度読んでみた。でも、美しさはわからなかった。本の中の表現が、いちいち頭の中で映像になってくるけれど、美しさにはつながらなかった。

次に気になったのは、ジョバンニとカムパネルラのご機嫌具合。

実に、ころころ変化する。寂しかったり、跳ね上がりたいほどご機嫌になったかと思えば、お菓子のような鳥の足をくれた鳥捕りを馬鹿にしたり、カムパネルラが隣の女の子と楽しそうに話をしていると涙が出そうになったり。

機嫌の変化が激しいなあ、と思っていたら、岸田奈美さんが「銀河鉄道の夜は子供向けの童話なので、子供の気持ちの変わり方のスピードに合わせてころころ変化させていると聞いた。」と解説してくださっていた。なるほど、思った。

が、この本、子供向けなんだ、子供向けの本が理解できないんだ私、と愕然とした。

ネットには、たくさんの解説や感想文があった。どれもみな、宮沢賢治の生い立ち、家族構成、時代背景が詳しく調べられ、物語の各箇所と背景の複雑に絡み合った関係、さらには、ほかの物語との関係性までが述べられていた。

だめだ、私には複雑すぎて理解しきれない。

物語の背景因子を含めた理解はあきらめた。そうだ、この本は子供向けの童話なんだ、と思いなおし、複雑な背景を断ち切り、再度物語に集中してみた。

え、これミステリーじゃん。

ぬれたような真っ黒な上着をきて現れ、随分走ったけどザネリに追いつけなかったと言うカムパネルラ。これは、最後の場面の伏線?

命を終えることを予感させるようにつぶやくカムパネルラ。母親を思う気持ちと、許されるかどうかを心配する気持ちに揺れている。許されるには、ほんとうのさいわいのために行動する必要がある。そして、ほんとうの幸いとは、と考えていく。カムパネルラの心の動きに、ジョバンニは振り回されつつ、最後は「ほんとうにみんなの幸せのためなら僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」と言い出した。でも、カムパネルラとは離れてしまう。

難しく考えていいたいろいろな表現が、みな、最後の場面につながっていた。そうだったんだ。銀河の美しさを気にせず、本当の幸いについて深く考えることもせず、ミステリーとして読んだら楽しかった。

結局、これが私の味わい方だった。

今回、キナリ読書フェスに参加する目的で、マーカーをひきながら何度も読んだ。最終的にミステリーとして味わうことで、私は「銀河鉄道の夜」を楽しんだ。私のコチコチの心では、文学として楽しむところまでは到達できなかった。思い起こせば、これまでの人生、文学にほとんど触れていない。でも、解説、関連資料、ネット上の他の人の感想文などまで読むことで、文学をより深く味わうことができるということを知ることができた。この先、一冊の本を味わうために、ここまで周辺情報を学ぶという行為をするかどうかはわからないが。

キナリ読書フェスに参加して、本当に楽しかった。

ありがとうございました。

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