「何でもは知らないわよ。知ってることだけ。」はあらゆる事象に言えるんじゃないか。

雨が強くてやーやー言いながら帰っていたが、靴が浸水して気がついたらやだーやだーになっていた。予想よりずっと冷え込んで、なぜもっと厚いコートを着てこなかったのかと思ったが、朝の時点では暑かったので、結局は朝か夜か犠牲にする必要があったのだ。

朝に(悪い方の)衝撃的なことを聞き、頭を抱え、もはや一周回って笑ってしまった。久々にやばくて「やってくれたな」な気持ち。今回は諦めるとしても、せめて今後に生かせればいいな……


「何でもは知らないわよ。知ってることだけ。」という台詞だけ知っていて、出所がどこだか知らなかったんだが、『化物語』シリーズらしい。この台詞は「色々なことを知っているからこそ、まだ知らないことがたくさんあるということを理解している」という意味であって、言葉の意味そのまま「知っていることしか知らない」と解釈すると読み間違える。

これは知識に関してだけではなくて、技術でもそうだし、運動でもそうだし、優しさなどの性格も同じようなことが言えるんじゃないかと思う。例えば、実際に絵を描いてみるとブラシや絵の具の使い方をその時になって初めて分かる。すると、他の人の巧さが分かる。自分の知っていることが増えることで、他人の理解が深まる。

私は刺繍をするのだが、やるたびに上達しているとはいえ、やはりずっと続けているような上手い人には全然届かないなと思う。上手くなっても、ずっと上手い人が世の中にゴロゴロいる。何をやっても上には上がいるんで、私はずっと「上の中か上の下にはいけても、上の上にはなれない」と思っている。

この仕組みが「優しさ」に適用されるならば、他人に優しくしたことのない人は、他人からの優しさに気がつけないんじゃないかと思って。人のさりげない優しさに気が付いて感動できる人は、その人自身もそのようにしたことがあるから気が付けるんじゃないか、と。


以前、私は「やらなければやる意味を理解出来ない」という話をここではない場所でしたことがある。やる前に意味を理解しようとしても、それはちゃんと理解したことにはならず、というより理解することは出来ず、実感を伴った理解をするにはやる意味が分からなくてもやるしかない。理解不能なことを実行するのは気が進まないものだけど、それでもやらなきゃいけない。酷なことよ。


愛することについて、ここでも考えてみる。前に、愛することは愛を受け取る力も関係があるんじゃないかという話をした。そこで、「私の愛情表現が相手に伝わりにくかったのかも」と言ったが、もしかしたらそうではなくて「私の愛情表現と同じやり方を相手がやったことがなくて理解ができなかった」のかもしれない。その人の「愛情表現」の中に、そのバリエーションが無かった。という意味。その可能性はありそう。

となると、「愛すること」とは何ですかと聞くよりも「愛されること」とは何ですかと聞く方が、その人の「愛すること観」が分かるかもしれないな。そうでもないか?眠くて何を言いたいんだか分からなくなってきた。うーん、でも自分がやることよりも自分が他人にやってほしいことの方が期待が大きいだろうし、あながち間違ってもないのか?自分の能力の限界は見える(気がする)けど、他人の限界は自分の期待の中では無限にも出来るわけで。

ちょっと考えたけど、私にとって「愛されること」は、今のところ「分からない部分があることを理解し、受け入れること」かなあ。思い通りにいかないのも納得できる的な。

私は、物事の微妙な差で好きかそうではないかを分けている部分があって、好きな柄だとしても色味が違ったらそうではない側になるし、そうではない柄でも色味が良かったら好き側になることもある。ストライクゾーンが案外狭い。だから、「これ好きでしょ」と渡されると、うーん?となってしまうことがややある。そうなるということを「理解し、受け入れる」が出来る人って少ないんじゃないかなあと思っている。「諦める」に振る人が多そう。という理由ですね。


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斯波らく
めでたし、めでたし。と書いておけば何でもめでたく完結します。