自由と創作

 私はなにも持っていない。悲しい話、書くしか能がない男だ。だが、小説も、なにもかも、うまく書けない。ただ、その悲しさがあるから、私は、思った。作りたいものがあるなら、出てくるなら、作り続けるしか、もうあとが残っていないのではないかと。うまくいかなくても、作り続けることしかできないと。鬱で、体も動かない。

 私は、能無しだ。彼女にも、中身のなさがバレ、別れられた男だ。つまらない男だ。創作も下手だ。なにもない男だ。なにもできないくやしさ、傷は、人生で、味わいつくしたと思う。なにをこの20歳のガキが人生のなにがわかるんだ? そう思う人もいるかもしれない。その通りだ。私は、東京から、大阪までの新幹線でいったら、近畿も行けていない男だ。だが、大阪にはついていない。
 だが、私は、大阪で、降りようとは思っていない。私は、自分の降りたいところで、降りたいのだ。そこが、どこだっていい。これが自由だ。日本は、大阪を目指す人間ばかりなのだから。

 静岡の三島で、降りることにした。私には、パソコンと、できることは、書くことだけ。だが、パソコンのなかには、それ以外の表現手段も学べるツールがあった。アイデアは書く表現以外のものも出てくる。だから、私は、パソコンという自動車を使って、もっと、たくさんの場所へ行けるようになるようだ。
 そうだ、自分がやりたいことに沿って、それに必要なものを学んでいけばいいだけの話だ。自分にとって、必要でないと思うものは、使わなくていい。その時、その時の状況に応じて、必要なものをうまく使えるようになっていればいいんだ。それだけなのだ。うまく使う道具の使い方は、図書館と、キンドル、アマゾンで学べばいいのだ。
 下手で結構。だから、私は走り続ける。


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