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改めて批評することを考える

 私は、最近の批評を信頼していない。それは、実質、悪口大会となっているからだ。見ればだいたい、なにかの批判。それに、その批判は、下品で、高尚に見せたものばかりなのである。
 私は、それが不快で不快で仕方がない。

 お前ら、簡単に人を傷つける言葉発しすぎではないか? 学術的に見せたらいいことなのだろうか? 外野から見たらかっこ悪いし、性格の悪さが、普通の性格の悪さより極まっている。これは、自己批判でもある。言葉は、人を傷つける。悪口を言うことや批判は、本来の批評ではない。あなたたちはダサい。
 
 小林多喜二がかっこよかったのは、権力という大きなものを批判して見せたからだ。それは、命掛けだった。実際に権力に殺された。伊藤整だって、チャタレイ夫人の恋人を訳したときは、国に発禁処分されることを考えていたと思う。
 しかし、現代の批判というと、ただの下品な悪口だ。命もかけていない軽薄そのものの批判である。一言いう。現代の批評は、軽薄である。批判の言葉に命をかけていない。その言葉は、無責任。まるで、赤ちゃんの戯言だ。

 あなたの言葉は、人を傷つけているかもしれない。弱者を批判してみせることは、かっこよくない。むしろ、ださい。強者を批判することはありだと思う。

 しかし、人格攻撃や偽の情報の発信などの詭弁だけはやってはいけない。政治家だとしたら、その人の政策についての批判、これは正当な批判だと思う。しかし、最近では、政策についての理解もない、はっきりいって、頭の悪い人が批判している気がする。そして、その言葉は、国から弾圧されることを前提に言えているだろうか。


 民衆までもが政治に興味を持ち始めるような政治はよくない。事実、素人が、批評を覚えると、基本的に、詭弁ばかりとなってしまう。とりあえず、岸田文雄政権の政治を理解してもいないのに、とりあえず、詭弁で、悪口を書いてみたり。馬鹿は、なにが行われているかわからないのに、とりあえず、ゴシップを書いて、悪口という名の批判をしてみせる。こういう人間ほど、自分のことを賢いと思っていそうなのが害悪そのものだ。要するに、正しい批判に触れずらくなったのだ。どこを見ても、馬鹿丸出しの批判ばかりで。

 ゴシップが売れるのは、それが大衆には適しているからだ。ニュースというのも、客観的に現状を報道するはずが、詭弁ばかりで、出る有識者も奇をてらったまったく学術的ではない素人の意見か、えらく常識的な紋切り型の意見しか言えていない。それに、明らかに専門外の人が言い過ぎなのである。メディアは、壊死しているのだ。本当に、必要なのは、現状を知る、勉強だ。自分は頭が悪いと自覚したうえでの勉強だ。だが、最近では、出版界隈も壊死している。酷い言論の状況だ。虫唾が走る。
 勉強もできない素人は黙っていろ。毒を吐くな。

 作品についての批評を書こう。近年流行りの悪口批評は、実に簡単な誰でもできるものだ。悪口なんていくらでも思いつく。悪口や批判は、誰にでもできる芸当だ。だが、ここが面白かったよかったなんて簡単に言えない。

 本物の批評家とは、その作品の面白さを勧められる人のことなのだ。
 好例として、あげるべきなのは、淀川長治さんだ。淀川さんの批評は、それを読んだり聞いたりするだけで元気が出る。これをみたいとなる。その眼は、実に素晴らしい。引用しようとしたが、手元に資料がないので、難しい。


 youtuberのすするさんは、良き批評家である。私は、彼の紹介で、かなり、その紹介されたラーメン屋に通っている。彼のラーメン評を聞くと、食べたくなる。

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