ニセ科学雑考
「ニセ科学」というフレーズが気に入らない。
このことは数年前からツイッターで何度か述べてきた。
この問題について、とあるフォロワーの方と議論をすることができたので、自分の考えを整理しておきたいと思う。
私が「ニセ科学」というフレーズに感じる問題は、大きく分けて2つある。
ざっくりいうと、ニセ科学の「科学」部分と、「ニセ」部分である。(全部じゃん)
「科学」部分について ー「科学」で分ける合理性はないー
世の中に数多存在するトンデモを分類するにあたって、ニセ「科学」として、科学を特別に括ることに、実益はない。
例えば、被害の性質で分類することには合理性がある。それが健康被害(代替医療)なのか、金銭的被害(悪徳商法)なのかによって、その被害に対して対応しなければならない緊急性や、対応の必要性は大きく変わってくる。プロ野球選手がマイナスイオンを発生させるネックレスを付けていたとしてもせいぜい数万円の害しかないが、ガン患者が代替医療にハマって標準医療を拒否するようになったら、それは命に関わる。
原因・動機による分析も可能であろう。倫理的にいいことだから嘘でもオッケーというのは、水伝、江戸しぐさあたりに共通の動機であるといえる。動機に共通性が認められる場合、それが流行る場所(学校など)も共通してくる場合が多いため、これらのトンデモは同種の対応が可能である可能性も高い。
もちろん、学問分野による分類も可能である。そのデマ、トンデモに反論するために、どの分野の知識が必要なのか、化学なのか、物理学なのか、歴史学なのか、法学なのか、そのトンデモのジャンルによって、反論の担い手も変わってくるだろう。
しかし、「ニセ科学」という分類法によると、「水素水」「がんのトンデモ療法」「量子力学の用語を適当に使ったスピ本」はすべて同じ箱に入れられる一方で、「教育現場で教えられる学術的根拠のないデタラメ」であるところの水伝はニセ科学だが、江戸しぐさはそうではないということになる。
そもそも、「科学とはなにか」という問いに対する答えは、そう簡単に定まるものではない。ニセ物理学、ニセ化学、ニセ医学、ニセ法学、ニセ歴史学という区分ではなく、「科学」と「それ以外」という分類をするからには、「うちの学問(例えば心理学)は科学なの?そうじゃないの?」という疑問が出てくるのは、当然である。
では、このような境界設定にどのような意味があるだろうか。
ほとんど害のない迷信の類いと、実際に人命に被害がでる深刻な嘘を同じ箱に入れつつ、ほとんど同様の問題であるところの、「教育の中のトンデモ」を別の箱に入れるような分類法を正当化するような合理的な説明は思い浮かばない。
「ニセ科学」の「科学」には社会科学も含まれるのだ、という主張もありうるが、それでも法学のような社会科学とも言いがたい学問は弾かれる一方、そのような学問を別扱いすることに実益はないように思われる。
このように、実益も合理性もない問題設定をする以上、それは学問的営みではなく、社会運動の類であることを頭に入れておくおくべきである。学問としてある現象を分析するために問題領域を設定する場合には、なぜその領域に限ったのか、その根拠が問われることになる。しかし、「ニセ科学」にはそれがない。
一方、社会運動としてやるのであれば何の問題もない。不公正なえこひいきでもしない限りは、問題領域の設定行為は「僕の守備範囲はここまでにします」という宣言に過ぎないので、それはもちろん好きにすればいい。だが、ニセ科学批判論者には、自らの社会運動性に対する自覚が完全に欠如しているように思える。「科学」の正しさを笠に着て、その政治性に無自覚だとすれば大いに問題である。正しい結論を導くのは科学というプロセスであり、運動ではない。
「ニセ」部分も気に入らない
ニセ科学として括られるいくつかの問題には、本当に「ニセ」と言うべきかが疑わしいものがある。科学の手続きを踏んだ上で反証された血液型性格診断などは、そもそも「科学ではない」とは言えない(科学的に間違っているとは言える)のではないか。
「自らを科学と称する科学的でないもの」といっても、ざっくり分類するだけで3つの種類が観念できる。
1、 客観的に検証できず、何の根拠もないことを科学と言い張るもの(波動・スピリチュアル系)
2、客観的に検証出来るが、すでに反証がなされたことを科学と言い張るもの(血液型性格診断・STAP細胞 )
3、理論的には検証可能だが、十分な情報が提供されておらず、反証が難しいことを科学と言い張るもの(うさんくさい論文が出てる類のトンデモ)
このうち、2、3について、「科学でない」と言い切れるのかはかなり疑わしい。
むしろ、科学のプロセスの中で棄却された、あるいは棄却されるべき仮説という意味で、科学の枠内に属するものと理解するべきではないだろうか。
これらをひっくるめて「ニセモノの科学」として断ずることは、本来科学の手続きの中に属するものを「正しくないから」という理由で分断処理するものではないかという疑いがある。「正しくないものは科学ではない」というのは、すなわち「科学であるからには正しい」ということである。
科学が、正しさの発見プロセスとしてではなく、「正しさの象徴」として理解されることは危険である。
なぜなら、「科学=正しいもの」という素朴なイメージこそが、詐欺師たちが自らの商材に「科学」の名前を載せたがる主たる動機だからである。
「ニセ科学」批判運動は、科学の「絶対的正しさ」を維持する方向に働くばかりで、科学的に導かれた結論に疑問の目を向ける契機に乏しい。
科学リテラシーをつけるというのは、「科学でないものを見抜く力」を養うことではない。もちろん、論じるに値しないような非科学的なトンデモを避ける力はある程度必要だろう。しかし、それ以上に必要なのは、
⑴ 「科学」はより正しい結論を発見するためのプロセスの名前であり、その過程の中で科学は間違えもするし、失敗もする。
⑵ 間違いと失敗を改めるその仕組みによって、何百年と積み重ねられた科学的定説はかなりの“正しさ”を獲得した。
の二点をしっかり理解してもらうことだろう。
最後に、この問題についてかなり的確な評論をしていると個人的に思うコメディショーを紹介して終わりたい。見ての通り、タイトルは”Scientific Studies”である。「ニセ」なんて言葉はつかない。 https://youtu.be/0Rnq1NpHdmw
科学の信頼性を損なうと、人はあらゆる陰謀論への耐性を失ってしまう。その意味において、科学の信頼性を護ることは重要である。しかし、間違ったものをニセモノ呼ばわりすることでは、そのような事態を回避することはできない。科学への信頼は、科学という営みについての理解を地道に深めてもらうことによってでしか達成できないだろう。
追記
菊池誠先生からリプライをいただいた。残念ながら意見は平行線となったが、有益な示唆をいただいた。
「科学を名乗るもの」「科学っぽいもの」は、それだけで信じる人が出てきてしまう。それは神を信じたり、幽霊を信じることとは質的に異なるものである。これは正しい指摘だ。ニセ科学とは、「一般人が科学だと思い込んでしまう(可能性がある)けど、実際には科学的に正しくないこと」である、という定義はもしかすると可能かもしれない。そうすると、ここでいう「科学」は一般人が科学と思うもの、多くの場合は自然科学に限定するのが自然だろう。
そういった意味では、「ニセ科学」という整理概念に一定の合理性はあるといえる。上記でいうところの、「原因による整理」である。しかし、そうすると別の問題が浮上する。ニセ科学は、その定義上、ニセ科学の「発信者」ではなく、「受け手」関係的な概念である。したがって、その問題の解決は受け手に向けたものであるはずだ。具体的には、記事の最後に書いた、科学についての理解を地道に深めて貰う方向である。
しかし、なぜかニセ科学批判は、その発信者に向いてしまった。ここが最大の問題なのかもしれない。(その点、お話させていただいた菊池先生は、受け手側の教育に力を入れておられるので、ここでいうニセ科学批判批判は当たらないといえる。ここで指摘しているのは、非科学的な効能を謳う商品をネタにし、あまつさえ(本来被害者とでもいうべきである)騙された側をあざ笑うような連中についてである。)
もういっちょ追記
仮に、「一般の人は「科学」と聞いただけで信じてしまう」という問題意識から考えを発展させるとすると、もう一つ気になる事柄が出てくる。上で紹介したコメディショーにも出てくる、「科学の手続きに則ってはいるけど、まだ検証が不十分でわからないことが多い研究」の存在だ。
「ワインが健康にいい」だの、「トマトのリコピンで長生きができる」だの、この手の「科学」は毎日のようにメディアで紹介される。あるある大事典の納豆事件のように、話にならないレベルで真っ黒なもの(これは「ニセ科学」といってしまってもよいだろう)もあるが、大半は、「科学ではない」とはいえないが、かといって吹聴されるような効果があると断言することなど到底できないレベルのものだ。このような情報がメディアに蔓延っている現状は、「ニセ科学」の問題ではないが、まちがいなく「一般人が簡単に「科学とされるもの」を信じすぎる」問題の一つであり、同時に、科学コミュニケーションの問題である。(だからこそ、先述の番組はpseudo science ではなく、scientific studiesというタイトルなのである)
すると、やはりこの問題の解決は、「科学というものは、ただ信じればよいものではない」ということを根気よく啓蒙することによってしかたどり着けないのではないだろうか。少なくとも「科学でないもの」を一生懸命批判したところで、根本の問題は何も解決しないのではないかと思う次第である。
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