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私の中のチルドレン。

という2冊を買った。私の中のメカニズムというか、仕組みというか何か図面に書いてくれる感じになった。

今回は「私」と「自分」の話。

どこまで綴るべきか。最初に。

私は縁に恵まれてると言えます。
育ててくれた家族。
一緒にいて心あったまる友達。
行き詰まった時や、仕事ややりたいことへ努める私に向き合って時間割いて貴重なお話をしてくれる諸先輩方。
学びをうけた先生。とかとか。
今日もこうしていられるのは周りにいる人のおかげで成り立っています。

いつも、視界の頭の片隅に置いてくれてありがとう。

私に「そのままでいていいよ。」と、言ってくれる人が現れました。とても嬉しいけど、そわそわしちゃうんです。

それまで(今でも??)事なかれ主義の中にいました。

土日も仕事に忙しい共働きの両親とか見ていて
小さいなりに迷惑かけたく無いな…と。
この考え方にいくら疑問をもっても大丈夫です。ただ、否定はしないでください。それを通ってきた今の私も否定されちゃうのは切ないので。
弟が産まれたタイミングとも重なって。視線も相対的により幼いそっちに向けられて。

「私の事で負担はかけさせたくない」という
「自分」が生まれました。
穏便に。事なきを得てれば丸く納まる様な気がして。
もちろん楽しい時間もあって、辛いだけじゃないので余計な詮索はしないで下さい。紙面に載ってる以上も以下も無いです。

お家だとそんなんで、学校でも友達のおかげで楽しくしてたし、成績も一定であったから
どちらでも、手のかからない子だったかもしれません。

でも、小学生とか10代なら(大人になっても?)時たまに誰かに甘えたり、かまって欲しいが訪れます(よね?)

となると、他の人間関係とか空間なら分かりませんが、私に対する手のかからないという評価の時
以上のパフォーマンスをするか、悪目立ちするしか無いんじゃないかなと思います。
(※個人的な見解です。)

ここまで出てきた誰かを悪者にしたり、踏み台にして自分を正当化したい訳ではありません。

ただ、「そのままでいる」というのが、難しくて目が合わないんじゃないかという不安に駆られる自分に、その言葉を信じ切れなかった醜い私がいるという話です。

ちゃんと言葉は届いてました。よ。
いっぱい救われてました。

その…目を合わせて見てほしい私を表現したり好きな事に向けて動いてる時間が、
1人を多くを占めるんです。
1人“でも”動けるよ。
動けます。
そうするしか無かったもん。
ただ居るだけじゃ見向きもされないし。
1人で理解を深めるのもすきです。
だけど、共感したりする相手がいればもっと魅力的だろうなぁ…って。
周りにはそこを叶える人がいて。
指を咥えて眺めてる私がちっぽけで。
忠実にあなたの事は分かる訳ではありません。
ただ、今まで送ってるであろうライフスタイルに憧れてます。
あなたの「ふつう」に過ごしてきた時間に。
ふつうに憧れる。
憧れているのにふつうなのか。

くどいね。


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