旅行の大半は移動
車にしろ公共交通機関にしろ、旅行の大半は移動で占められていると、そう思っていた。
大人しくできない性分
常々幼少期の話をしてしまうが、私の全ては幼少期に形成されているので仕方ない。
小さな片田舎に住んでいた私は本当に数年に一度家族で旅行に行くことがあった。
車に乗っての遠出なんて、せいぜい40分車を走らせた先の隣り町程度しかなかったので、県を跨いでの移動は大変苦痛だった。
楽しさと車の中で身動きができない辛さで、どうにもムズムズとして「まだなの?まだなの?まだつかないの?あとどれぐらい?」と親に言って、親に言いすぎた挙句、親をノイローゼ気味にさせてブチギレさせたのはいまだ忘れることが出来ない。
そんな思い出から閉鎖空間での長旅はあまり好ましいものではなかった、だいたいの旅行は移動が大半なのである。
東京は移ろわない
そんな中大人になって東京に住み、景色の移ろわない生活を続けていたらついに私は頭をおかしくさせて、心療内科に通う羽目になってしまった。
私の世界は緑あふれて四季に応じて色が変わり匂いが変わり音が変わり、生き物も何もかも変わっていた世界だったのに、一転して、雪が少し降ればまあ景色は移ろったと言えるだろうと言った具合な世界に変わったのだ。
それはなんとも辛かった。
箱根や熱海や小田原や
東京から1時間半、私的だいぶの距離を行く観光地に最近はよく旅行に行くようになった。
電車の窓から見える景色は幼少期の私を呼び起こさせる。建物から田園地帯へそうして山へ海へ、色んな顔を見せる。
移動は凄く楽しい、凄く凄く楽しい、乗っているだけなのに景色が目まぐるしく変わる。
子どもの頃には感じられなかった、失ってから気付いた自然の良さ、そうして、いい景色を見つけたら共有する。その楽しさ。
全てラグがなく行われる会話が私を惹きつけた。旅行は楽しいのだ、そうして、その楽しさの大半は移動にあるのだ。
これに気付いた時、私はまた一つ大人になり。また一つ、世界の広がりを知った。