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初めての社会人〜1年で辞めました〜

私は大学卒業後、一人暮らしを始めて看護師として病院で働き始めました。選んだ病院は大学の同期が1人いましたが知らない人だらけ。知ってる人が少ない中でひっそり働きたいと思ったからそこにしました。JR通勤で途中で海も見えたりするし
何より早く就職を決めると卒業までの期間毎月お祝い金が貰えたのです。

初めての一人暮らしは全て自分でしないといけないし大変でした。今でも大変です。
看護師1ヶ月目、研修を受けながら初めて看護師として患者さんから扱われ、わけもわからないけどプリセプターさんと動きました。

2ヶ月目、土日祝日の勤務が始まりました。看護師が少ない、先輩は忙しくて聞きたいけど聞けない、ツラいと感じていました。

3〜4ヶ月目、私は確か同期と比べて少し遅く夜勤が始まったと記憶しています。明らかに同期と比べて新しい仕事が始まる時期も業務の一人立ちの時期も遅かったです。同じ病棟の同期はとても優秀で順調に仕事をこなしていく中、プリセプターさん達は私に困っていました。
のちに夜勤も無事一人立ちする事は出来ましたが、夜勤に入ると今度は自分の生活習慣が乱れてきました。夜勤が始まる前に寝たいのに家で寝られない。。
個室の重症患者を担当する事も増えていました。

5ヶ月目からは、全てに疲れていました。
輸液ポンプ、シリンジポンプ、心電図モニター、人工呼吸器…全ての医療機器のアラームに怯えていました。家に帰っても聴こえてくるような日もあり、だいぶやられていました。

6ヶ月目に入るあたり、私は患者さんとよくケンカしていました。採血が上手くいかなかったり内容は様々ですが基本的には理不尽な事を言われ、疲弊して行った記憶です。ただ技術不足と接遇の悪さはありました。プロではなくただの人間でした。
そしてトドメに夜勤中に患者さんに頭からお茶をかけられました。心が折れました。
一緒に夜勤をしてくれていた先輩は部屋持ちを変わってくれましたが、その瞬間からどんな患者さんの事も疑いました。アセスメントを放棄したのです。
そして通勤も出来なくなりました。駅まで行ってもお腹が痛くなる。改札を通りたくない。そんな心境で私は1週間ちょっとお休みを頂き、看護部長から患者さんとの関わり方が違うからどうかという事でオペ室に配置変換となりました。
配置変換が決まってから、ある夜勤でプリセプターノートを見つけたので見てみました。
うろ覚えではありますがそこには私が出来ない事や指導内容など共有されていました。また一部の先輩からは怒られ慣れていない、甘やかされて育ったのか、すぐに泣きそうになる、何度言っても理解できないくらいのレベルというような内容も書かれていました。もう少し強い言葉も書いていた気もしますが、育ちや人格まで否定されてもはや居場所はなかったです。

7ヶ月目からはオペ室勤務で、看護師は機械出し介助はなく術中は外回り業務だけでした。
医師が必ずいるため有事の際の不安などはありませんでした、また術中の様子は病棟では見ることがないため新鮮で、色んな外科の先生と関わる事も出来ました。

ちょっと嫌な先輩もいましたが、3月末まで働く事が出来ました。オペ室に残っても良いんだよと気にしていただけましたが上司との話し合いの末、退職を決めました。
また定期的に同期で集まる事もあり、それも支えになっていました。10年ほど経った今でもずっと同じ病院で頑張っている同期もいてすごいなぁと尊敬の念をいだいています。たまに連絡を取る事もあって大変ありがたい存在です。

1年で退職するというのは簡単な決断ではなかったです。続かない人というレッテルが貼られるのがわかっていました。辞めて何をすれば良いのかわかりませんでした。実家ではないので収入や貯金が無くなると生活ができなくなるのも怖かったです、退職するまで失業保険の事もほぼ知りませんでした。
そして自分は何もできない、役に立たない、誰よりも劣っているし社会不適合者なんだと傷つきました。
振り返ると辞めたいというよりはここにいるとツラいという感じだったと思います。病棟の人には会いたくありませんでした。

いざ退職が決まるとゴールが見えているので少し気持ちが軽くなって仕事に取り組む事ができました。

そして年度末、私はひっそり退職していきました。逃げて良い場面と逃げない方が良い場面とあると思いますが、私は潰れかけて逃げました。この選択が正しかったのかは今でもわかりませんが、私はまだ看護職を続けています。不思議なものですね。
辞めても案外どうにかなるものと実感しています。

今となってはそんな事もあったなというくらいです。
嫌なことがあった日も、思い出す時もお供はお酒です🍶


串鳥に行くとどぶろくはかかせません!

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