不自由と優しさとは
誰かの自由は、関係する誰かの不自由の上に成り立っていて、誰もがどちらの立場にも成り得るのだけど、常に自分が自由だと感じている人は、そのことで不自由を感じている人のことを決して思い浮かべることはできないし、ましてやそこに想いを馳せることなど到底無理である。
親、我が子、愛犬、他の家族、それらはすべて、おそらくあなたの不自由のひとつの原因となるはずである。
生命に対して向き合うと言うことは、それが危機にさらされたり、灯火が消えようとする兆しが見えた時だけリアリティを感じるのは、甚だ鈍感な人間であって、目の前や身近にその生命の存在を認識した時から、存在が無くなるその時まで、自分のリソースの一部を注いで気に掛けられるのが優しさなんよね。優しいことはダメなこと、罪なことであるはずはない。
若くして家族を亡くしたりすると、その強烈な体験から否が応でも生命と向き合い続けることになるし、他の誰かがそうならないようにと願い続ける、つまりリソースを注ぎ続けることになったりもする。そういう人生もある。
物心付く前に父親を亡くした知人は医療の道に進んだが、それは完全に自由なのだろうか。私にはとても優しい子に思える。
誰にでも等しく、自分にも自分の人生はある。
でも、その一度きりのリソースを、フルに自分だけのものとして、最初から最後まで使い切れる人がいるとしたら、それはとても稀有だし、幸せなことな気がするが、きっと本人にはその恵まれた状況であることは解らないだろう。
「私たちのことは気にしなくていいよ。好きにやりなさい。」自分がもし若い頃に、親からそんな風に言ってもらえたとしたら、それはその親がよほど達観しているか、財力があるか、比類ない優しさの持ち主なのだろう。
そんな人は、期待に応えて謳歌すればいいと思う。