Twitterは完全にオーディエンス不在の独り言だし、Instagramは何かに迎合するわけでも自らの何かをアピールするわけでもない。己のその時の興味を独善的にポストするだけで、誰かのポストにコメントするわけでも、そしてされるここともない。意識しているわけではないが、壁に囲まれているような雰囲気なのは自覚がある。 いつからこんな風に独りを突き詰めるようになってしまったのか。そんな日々を過ごしているうちに、他人とのコミュニケーションがうまく取れなくなってしまった気がしている。
耳の遠くなった老犬に聞こえていないのは知っていて、日々語りかけずにはいられない。 それでもなんとなく自分に話しかけられているのはわかるので、いつもの真っ黒な眼でこちらを見てくる。 大丈夫かい? お腹の調子はどうだい? 元気かい? 今日も可愛いね。 しんどくないかい? お腹減った? お散歩行こうか。 眠る前にはこう。 今日も一日元気で過ごせたね。 今日は調子悪くなかった? もう眠い? 俺のところに来てくれてありがとう。 出来るだけ長く一緒にいてください。
おもに誰かのネガティブな感情を感じとるシーンにおいて、周囲の第三者からすると、“誰もそんな風には思ってないよー”という風に見えることに対して、“今、こんなことしたら、嫌がられる、負担に思われるんじゃないかな?”と、気を回して控えてしまうまのは hsp もエンパスも同じなのだけど… (ここからざっくり解釈→)hsp の場合だと、本当にその誰かはまったくなんとも思っていないゼロから、実際そう(負担に)思っている100まで、全レベルに過敏に反応してしまう。何に対してそう反応してし
誰かの自由は、関係する誰かの不自由の上に成り立っていて、誰もがどちらの立場にも成り得るのだけど、常に自分が自由だと感じている人は、そのことで不自由を感じている人のことを決して思い浮かべることはできないし、ましてやそこに想いを馳せることなど到底無理である。 親、我が子、愛犬、他の家族、それらはすべて、おそらくあなたの不自由のひとつの原因となるはずである。 生命に対して向き合うと言うことは、それが危機にさらされたり、灯火が消えようとする兆しが見えた時だけリアリティを感じるのは
例えばSNSにネガティブなことを書くと拒否反応を示す人は多いけど、そうした感情は誰しも持つことはあるのは間違いなくて、リアルな友だちや身内に吐き出す先がある人はそこでバランスが取れているのだと思うけど、そうじゃない、吐き出す先のない人のバランスの取り方は少し大目に見て欲しいと思う。 日記にでも書いとけ、と言われそうだけど、日記に書かないまでも、きっと独り言でなんとかしようとしてたりするんだけど、独り言は自分の耳に入ってくるから余計に落ち込んだりして。 メンタル強い人は、本
しばらくnoteを書かずにいたのだけど、何て言うか、証(あかし)を残したいような気になってからでは遅いことに気がついて、とりあえずたった今から自身の証をアーカイブとして残すことを前提に残してみることを始めてみる。 そんなでnote再開。 始めてから一年が経過したアコースティックギターの練習は、その成果として弾き語り動画をYouTubeとIGTVにアーカイブのつもりでアップしてある。 アコギが一年続いたので、最近エレキギターも始めたのだが、アコギの弾き語りをいい感じに録音
少し前に、どこかの助教授(???)が、“ユーミンを純粋な若き才能のまま早逝した方が良かった”などの暴言を吐いていたが、身近な友人の死を、何も纏わない剥き出しの感受性で受け取ったからこそ、“ひこうき雲”が生まれたわけで、でもその裸の感受性は、きっととても傷つきやすく、他の人には見えたり聞こえたり感じたりしないような、時には霧雨のように纏わり付いたり、時には微細で鋭利な刃物としてチクチクと刺してきたりして、鬱陶しさやモヤモヤや苦しみや痛みをずっと多く受け取っているのは間違いない。
現時点で、自分の人生を客観的に総括してみようと思う。 ・望むかたちでの人からの真の愛情には恵まれなかった ・物質的には恵まれた人生で欲しいと願ったものはほぼ手に入った ・ウィークポイントしかないよわよわメンタルを誰にも頼らず少しずつ持ち上げ普通のレベルまでには達した ・大病と大怪我はしなかった ・おメンタル方面を一度やったが誰にも頼らず普通のレベルまでは戻した ・三頭の犬を飼い、そのうちの一頭とは一緒に暮らし、信頼と無性の愛情を分かち合った ・人生とは、新たな課題を見つけ、
世間知らずの金持ちじゃないお坊ちゃんという不名誉な称号を実際に使われたことはないが、そのような傾向があるのは否めず、自覚的でもあった。 そのことが若いころからわりと最近までコンプレックスだったし、社会に出てからの実害としては、信じる前提、性善説で人と接して裏切られるというもので、これがコンプレックスに追い討ちをかけていた。 でも、ようやく最近になって、多分消えてはいないこの自分の特性との距離感が掴めるようになってきたらしい。それは様々な恩恵として我が身に好影響を及ぼしつつ
性分というか、持って生まれた性質というか、キャラというか、気性というか、性格というか、これらのスペックは、“○○だから仕方がない”などと、それがどれだけ他人に害を及ぼしていようとも、諦めろ、受け入れろ、肯定しろ、という暗黙の圧力があるが、そんなのは当人たちの良いわけでしか過ぎないんよね。 いくつになっても感情に振り回されているようなのを大人とは言わない、これが前提にない世の中が不思議で仕方がない。 老人になれば子ども返りする、というのも、なに甘えたこと言ってるんすか?って
“君が見せる仕草、僕に向けられているサイン” そう、ミスチルの名曲、「Sign」の歌詞である。 若いころは確信が持てずに思い悩む種となったりしたものだが、いつからか確信をもって、「そうだ、だから気にすんな」と言い切れるようになったこと。以下... 誰かの自分に対する言動が、すんなりとは受け入れられず、これはひょっとして暗にディスられてるのかな?とか、過去の意趣返し(思い当たる節などなく、相手の被害妄想w)かな?とか、明らかにどこか態度が変わったよね?とか、そんな風に感じる
自分たちの親世代といえば、認知症の予備軍であったり、あるいは既に初期段階に差し掛かっていたりと、そろそろ他人事では済まない状況が現実味を帯びてきた人も少なくはないのでは? 幸い(といっていいのか判らぬが)自身はそのフェーズを通り過ぎてしまったのだが、できる限り早期の発見が重要とされている認知症において、周囲の者が最初の兆候を見過ごす可能性の一つを減らせるように書いておきたい。 世の中には、純粋に人助けとしてだったり、情報商材としてだったり、あるいはオカルト商法ツールとして
我が身に起こる様々な出来事を、決して他人、誰かのせいにせず、しっかりと受け止め、真剣に考え、誠実に生きてさえいれば、いずれは必ず生きやすくなる物ごとの捉え方、思考の在り方、より良い人との関係性と距離感見つけて、その後の人生が穏やかで、豊かで、きっと楽しい日々が送れるのだけど、願わくば可能な限り残り時間が多い方がありがたいよね。 つまり、過去や未来に囚われず、たった今、現在を精一杯生きて無駄にしないことがとてもとても大切なのだ。
今、最も恐ろしいので、ありとあらゆる想定をしつつ、強く生きる術をシミュレーションしている。 ”その死が10年以上一緒に過ごしてきた幸せをこえるんか?”
おもに人や、その他の生き物との未来の関係性について、おそらく今から5年前あたりから考え方がはっきりと変わってきた自覚がある。 ややこしいので人、それも自分を含む二人に限定して書くと、それ以前は、個々のオリジナルの部分はそれとして、二人の関係性は、少しずつとか、一つずつとか、時間をかけて築いていくものだと思っていたし、事実それを前提に行動したり、考えたり、話したりもしてきたとも思う。 つまり、二人の、リアルタイムな現在から先の未来、将来は、価値観を同じくしたり、共有したり、
幼少期より自分がどれだけ偏った凝り性であり、それが故に、偏った潔癖症でもあり、基本的に落ち着きがなかった。今みたいに情報があれば、それってあれなんじゃないの?と予測も付くのだが、そうじゃない時代を過ごしてきて、それがどれだけ悩みの種となったか、それなりに長く生きてきて、ようやく開き直った訳でも、いまだに克服した訳でもないけれど、今となってはもう一生付き合っていかなければ仕方がないということ、そう思えるようになったのは、理解しようとするどころか、その特性を持つことすら知らない親