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座薬が、しゅるるるるるるる

 座薬を、自分で、自分の尻に挿入する……。

なんということだ。

 これは当時、30代前半だった私の、座薬にまつわる話である。

 その日、私は婦人科の検査を目前にして驚き、そして戸惑っていた。
今日まで検査自体におっかなびっくりしていたが、もうそれどころではない。
検査はしばらくじっと耐えていればいつか終わるものだけれど、その検査を受けるためには、まず座薬というものを自分で入れなければならないという。

 処置室というこじんまりした部屋のこぶりなデスクの前に、看護師さんと私は向かい合って座っていた。

「座薬はずっと握りしめていたりすると、手の熱で溶けてきますので、気をつけてください」

デスクの上には座薬がひとつ。

そんなに繊細なんですか! 座薬ってやつは!

思いが私の中でこだまする。

 つるりとしたプラスチックの容器に包まれた、すっとした白いフォルムのそれは、看護師さん同様、毅然としてみえた。

 先週、病院を尋ねた際、痛みをやわらげるため、検査の直前に座薬を使用するという説明はたしかに聞いていた。
しかし、自分で入れるなんてことは聞いていない!

 どうしてそんな重要なことをその時に教えてくれなかったのだろう。
今さらそんなことを言われても困る。
もっと覚悟を決める時間が欲しかったのに。

 検査の最終説明をする看護師さんの顔を私はうらめしく見つめた。
「座薬の代わりに痛み止めの飲み薬を飲むのではだめでしょうか。それなら今私、持ってます」
 頭痛持ちの私は常に鎮痛薬を持ち歩いているのだ。
どうにか座薬の使用を回避したいという、必死な思いからの提案だった。
 私はひざの上のバッグの持ち手をぎゅっと握りしめた。
「座薬の方が効き目が早いので、そちらでお願いします」
 看護師さんは、すっぱり、きっぱり、言い切った。
「あの、自分で座薬を入れることができなかった場合、どうしたら……」
「その場合は、また看護師に声をかけてください。その時はこちらで入れますから」
 看護師さんは部屋の出入り口の方にある時計をちらりと見ると、持っていた書類をテキパキとまとめて立ち上がった。
看護師さんには次の仕事が待っている。忙しいのだ。

なんだか容易には頼めなそうだ。
そんな雰囲気を感じ取った私は説明をしてくれた看護師さんにお礼を言うと、看護師さんのあとに続く。
「すみません、座薬はどこで……」
 部屋を出たところで、私は看護師さんの背中に向かって言った。
 大切なことを聞きそびれていた。おそらくどこか個室のベットでも貸してくれるのだろう。
 看護師さんはこちらを振り返り、
「あちらのトイレでお願いします」
 と、なにをおっしゃるという顔つきで、さらっとこたえた。
看護師さんが指し示す先はみんなが使う一般的なトイレだった。
「えっ」
 まさかここまで裏切られるとは。

 私が熱を出した時に、母が解熱剤の座薬を入れてくれたことがあるのは知っている。しかしそれは赤ちゃんのときのことで、まったく記憶がない。

そんな座薬初心者の私が自分の力だけで、このミッションをクリアできるだろうか。

いや、だってどうしたらいいんですか。
心の声が大きくこだまする。

もちろんそんな思いは看護師さんへは届かない。
去り行く看護師さんの背中が霞んでいく。
遠のいてゆく。
行かないで!

戻ってきてーー!
そう叫びたいのを堪えて、私はますます重々しくなった気持ちを抱え、トイレに向う。
 なぜなら、私はそのトイレのことをよく知っていた。
トイレには洋式の個室が2つしかなかった。
わりと混みあっている婦人科なため、よく患者さんが並んでトイレの順番を待っているのをよく見かけた。

 今回は、ただ用を足しに行くわけではない。
座薬を入れなければならないのだ。
入れるのにどれくらいの時間がかかるのかも、わからない。
 もしかしたら、私が片方の個室にこもっている間に、トイレに並ぶ人であふれかえるといった事態にもなりかねない。

どうしてあの個室だけずっと空かないのだろう。
こっちはずっと待っているというのに。ねえ、だから早くして。

と、並ぶトイレ女子たちに内心そう思われるのかと思うと、ものすごくプレッシャーを感じる。

 私はトイレの入り口の固い扉を押すと、中に入った。
奥側の個室がすでに使用中だったため、私はその手前側を利用することにした。

ガタ、タタタタ、タタ……

ドアにスライド式の鍵をかける手が緊張で震えて、無遠慮にトイレ内に響いた。

 ひとまず私は便器と向かい合った。それから手のひらの上の座薬をしばらく見つめた。

おおっと、いけない。
溶けてしまうんだった。

ここまできたら、やるだけやってみよう。
もうそうするしかない。

幸い私のあとには、まだ誰もトイレにやってきていない。

 私は準備を整えると、座薬を容器から取り出そうとした。
座薬はプラスチックの容器にぴったりとくっついていて、勢いよくあけると、どこかへ転がっていってしまうおそれがあった。ここは慎重に、少しづつ、開封していく。

座薬を容器から抜き取ると、私は便座に座って、座薬を入れようと試みた。

ぐっと押し込む。
入らない。
ここか。いや、もう少し右。

行き過ぎた。

左へ。
あれ? 正解はどこ?

座薬の持っている部分が温まっている。

座薬とはこんなにも扱いにくく、むやみに人を焦らせるものだったのかと、私はトイレの個室の中で学んだ。

まずい。
いったん、落ち着こう。
ここで闇雲に慌てても、いい結果につながるとは思えない。

 奥のトイレから水が流れる音がして、個室から人が出ていった。

 私はトイレットペーパーを巻取り、たたむと、その上に座薬を置き、そのままペーパーホルダーの上に乗せた。

「いたっ!」
両腕を広げて深呼吸をしたら、手の甲がトイレの壁にぶつかった。

よし、まずはイメージトレーニングだ。

座薬を持つ手はどうしようか。
自分のお尻にそれぞれ手を向けてみる。
やはり、利き手の右がベストだろう。
座薬の下、3分の1を親指の人差し指でつまんで、お尻の近くまで持っていき、目標が定まったら、親指以外の指先の力を借りてゆっくりと押していく。

この作戦ではどうだ。

 先ほどは便座に座ってうまくいかなかった。ならば、立った姿勢で挑むのはどうだろう。

「よろしくお願いします!」

 心の中でそう意気込むと、私自身に、そして手元の座薬に集中する。

もうあと戻りはできない。
ここでなんとしてでも決めなければ。

 私は便器の前に立つと、ペーパーホルダーの上に置いておいた座薬をそっと右手の指でつまんだ。少しべたついている。

よしっ!

つまんで、お尻、あとはゆっくりぐぐぐぐぐ。

頭の中でうまく座薬を入れるイメージを描く。

できる! できる! 私にはできる!!

つまんで、お尻!
つまんで、お尻!

繰り返される言葉が、いつしか私の応援歌となり、心強いものとなる。

 座薬を持った右手の指先を、私はイメージ通り自分の尻に持っていった。
座薬を動かしながらポイントを探る。

おそらく、ここだ。

あとは、ゆっくり、ぐぐぐぐぐ。

座薬を押し込んでいく。
それなのに、押しても押しても圧力みたいなもので跳ね返ってきて、いっこうに先に進まない。

位置の問題だろうか。
いや、そんなはずはないと思う。
しかし、過信はよくない。
もう一度はじめからやりなおすべきなのかもしれない。
 私の手の熱が伝わり座薬はだいぶ温まっていた。

 トイレに人が入ってきたのが気配でわかった。1人は奥側の個室へ。
もう1人は手洗い場の横の辺りでぴたりと足を止めた。トイレが空くのを待っているのだ。

『信じるんだ』

 その時どこからともなく声がして、私の迷いを吹き飛ばした。

いける!

息を止めて、再び、座薬を指先で押した。
すると次の瞬間、

しゅるるるるるる

なんと! 
座薬が尻に吸い込まれていったではないか。
ゆっくり、ゆっくり、体の内部をのぼっていく。

体内エレベーター?!

「はーい、いってらっしゃ〜い」
 ゆるーい、やわーい、そんな言葉で送り出されていくのが似合いそうな、そんな感じだった。

 それからしばらくして、私はなにくわぬ顔でトイレを後にした。

 ふと、けがの巧妙という言葉が頭に浮かぶ。
使い方があっているのか、どうなのか、さっぱりわからないけれど、なにはどうあれ、その後、検査は無事に終わった。

ありがとう、座薬さん。
あなたに振り回されて、疲れ切ったおかげで、私は力が入る過ぎることもなく、無心で検査を受けることができました。

いまや私の体の一部となった座薬に向かって、いちばんに感謝の気持ちを伝えたい。

 次回の予約を取るために、受付の前で私は手帳を開いた。
今日の日付のところに“おじいちゃん”と書いてある。
そうだ、今日はおじいちゃんの命日だ。

 あの時、トイレで聞こえた励ましの声は、もしかしたらおじいちゃんだったのかもしれない。

さあ、うちに帰っておいしいものでもたべよう。
おじいちゃんの好きだった、ビールとまぐろのお刺身でも買って帰ろうかな。

すべて、終わった。
ベストは尽くした。

検査の結果は、自分の力じゃどうにもならないから、もう、あとは野となれ、山となれ。

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