素人の私が小説を出版するまでの記録(1)55歳にして小説を書くに至った経緯
芥川賞に憧れていた子供時代
私は2018年4月に「爛柯の宴(第一局)」という囲碁小説を出版し、待望の作家デビューを果たしましたが、実をいうと、小説を書き始めたのは2015年春のことで、その時に書いたのは「スピニング・ジョー」という留学小説でした。
書き始めた時はもう55歳で、それまで平凡なビジネスマンとして仕事一筋で過ごしてきた私にとって、「小説を書く」などという突拍子もない思いつきは無謀な挑戦以外のなにものでもなかったのですが、そこに至るまでには様々な伏線がありました。
第一に、私は子供の頃から毎日図書館に通うような無類の読書好きで、文章を書くことも比較的得意でした。今思うと小学生の時に日記をつける宿題を6年間毎日欠かさず続けたことが大きかったと思います。感想文コンクールで何度も入賞するうちに、将来は作家になって「芥川賞」を獲りたいと密かに夢見るようになっていました。普通の小学生がプロ野球選手やアイドル歌手に憧れる中で、「芥川賞」ですから、随分変わった子供だったと思います。
大学は経済学部に進みましたが、本当に好きな道を歩めと言われたら、文学部を選んでいたと思います。大学の頃も、夏目漱石、ドストエフスキー、カミュ、マルロー、カフカなどを夢中に読み耽る文学青年でしたが、残念なことに周りに文学を語り合う友人はいませんでした。サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」が面白いなどと言おうものなら、大抵周りの友人から変人扱いされるのがオチでした。
大学時代は有り余る時間があったのに、「芥川賞」などという泡のような夢想を心のどこかに抱きながらも、実際に小説を書こうと思ったことは一度もありませんでした。大人と比べて若い頃は確かに感性が豊かかもしれませんが、社会経験が浅い若造にはまだ世に問える何物もなかったのです。いくら文章が得意だといっても、単に文章を書くことと、小説を創作することは全くの別物だということです。
ローマ帝国を舞台にした小説の構想
そんな私でしたが、実をいうと2011年にも、突然小説を書こうと思い立ったことがありました。
実際に「スピニング・ジョー」を書き始める4年前のことです。
潜在的に私の中には、いつか小説を書きたいという願望が常にくすぶっていたのだと思います。
2011年の東日本大震災の直後に仕事が全てストップしたために、社会人になって初めて、まとまった時間が取れたことが大きな契機でした。
それまでサラリーマンとして多忙な日々を過ごしてきた私に、小説を書く余裕はありませんでした。
大学卒業後に富士通でSEになりましたが、残業は少なくても100時間、多い月は250時間という有様でした。こんな話をすると今の若者は信じてくれないでしょうが、本当にまだそんな時代だったのです。
そんな中、留学の準備をして、自費でNY州のコーネル大学に留学しました。留学中は比較的自由な時間が多くあったので、実はこの時も小説を書こうかと考えたことがありました。まとまった時間があればいつでも書きたいという情動が動き出すのです。この時は結局小説を書くに至りませんでしたが、留学中の経験を小説にするという、後の「スピニング・ジョー」の着想につながることになりました。
コーネル大学卒業後に日本興業銀行に就職し、また残業漬けの多忙な日々が始まりました。毎日忙しかったので、仕事が終わらずにデートに遅刻する、デート中に疲れて寝込んでしまう、ディズニーランドに行く約束を直前にキャンセルする、などということが続きました。そんな私に我慢強くつき合ってくれた妻には感謝していますが、妻からはそういった苦い思い出の数々で今でもよくなじられます。
2011年に話を戻します。
この時のきっかけは塩野七生さんの「ローマ人の物語」全15巻を読んだことでした。
2009年に独立して、M&Aのアドバイザリー会社を立ち上げた私は、それまでの宮仕えから解放された気安さを満喫しながらも、一方で自分自身で稼がなければ生活が行き詰ってしまう不安も感じて、案件を獲得すべく毎日必死に駆け回っていました。
そんな中で大震災が起こりました。
そうなるとどの企業も本業の立て直しが優先で、私が手掛けていたM&A案件は全て中止になりました。しばらく仕事はなさそうだし、金もないので、私は家に籠って、もう一度「ローマ人の物語」を読み返すことにしました。このシリーズは1992年から毎年1冊ずつ刊行されて2006年に完結したもので、私も毎年発刊される度に読んでいたのですが、毎回1年前に読んだ前巻の内容を忘れてしまってスムーズに頭に入ってこないこともありました。そこで以前から、時間があれば一気に通しで読んでみたいと思っていたのです。
もう一度読み返してみて、あんなに強固で盤石だった大帝国が、なぜあそこまで無残に蛮族に蹂躙されることになったのか、またその後跋扈した蛮族の王国が如何にして立派な中世ヨーロッパ諸国へと変貌していったのか、またその過程であれだけの文明を誇っていたローマの貴族は一体どこに行ってしまったのか、そうしたことがいまひとつ納得できず気になり出しました。ローマ末期と中世ヨーロッパの間の混乱期に関する文献は極端に少ないのですが、そこで何が起こったのかをもっと知りたいと興味を持った私は、その時代のことを詳しく調べるようになりました。すると面白い事実が色々と分かってきたのです。この「ミッシングリンク」の時代をテーマにした小説があれば面白いだろうと思って色々と探してみたのですが、そのような小説はなかなか見つかりませんでした。それなら時間もあることだし、自分で書いてみようかと考えるようになりました。
またまた私の中で、小説を書く情動がうごめき始めたのです。
ローマ帝国末期の混乱の中で、愛する祖国が蛮族に蹂躙されるのを目の前にして、それぞれの人物がどのような選択をしていくのかを描く、いわばローマ帝国版「戦争と平和」のような群像劇です。あるガリア貴族でその後ヒョンなことから皇帝になるアウイトスとその息子たちに焦点を当てて、動乱の世にどのような生き方を選択していくかがテーマです。ある者は最後まで武力で抵抗し、ある者は蛮族の宮廷に雇われて生き残り、またある者はキリスト教聖職者となって俗界の蛮族の王と共に統治を担うべく張り合っていきます。今の日本に当てはめてみた時に、もし同じような境遇に追い込まれたら自分はどんな道を選ぶのかと考えを巡らすことは面白い頭の体操になると思いました。遠い昔のローマのことですから我々には縁遠い話のようですが、平和ボケした日本人も緊迫感を持ってよくよく考えてみるべきテーマだと感じたのです。
あらすじは直ぐにできあがったのですが、いざ小説を書くとなると、ローマ時代の生活様式のディテールがよく分からずに、思った以上に執筆に手間取ってしまいました。ローマ帝国について書かれた本ばかりでなく、当時のローマ人にとって常識であるギリシャ神話やギリシャ悲劇、どうしても避けて通れないキリスト教などについても数多くの文献に当たり、500冊くらいの本を買いあさりましたが、それでもどうしても分からないことがあるので、ローマ末期を専門とする大学教授の論文を読んだり、直接お話しを聞きに伺ったりもしましたが、そもそも原典がラテン語なので全てを理解することに大きな限界を感じました。日本の歴史ならともかく、古代ローマの歴史を書くとなると、素人が一人で取り組むには荷が重すぎたのです。そうこうするうちに本業のM&Aの仕事が忙しくなってきたので、この時は執筆を断念せざるを得ませんでした。しかし、機会があれば、いつかチャレンジしてみたいテーマではあります。
いずれにせよ、この時も何かきっかけがあれば、小説を書いてみたいという衝動がいつでも顔を出すことがよく分かりました。
NYを舞台にした留学小説の執筆開始
そして2015年の執筆開始です。
この時の直接のきっかけは、お笑い芸人の又吉さんが、「火花」で芥川賞を受賞したことでした。
子供の頃から「芥川賞」への憧れを抱き、今でも文藝春秋で受賞作を毎回チェックしている私にとって、お笑い芸人の又吉さんが受賞した衝撃は計り知れないものでした。
彼がお笑い芸人だからではありません。
内容さえ良ければ、素人でも受賞できることが分かったからです。
それまでは「芥川賞」はプロの作家の卵が受賞するもの、即ち自分とは縁遠いものだという固定観念を持っていましたが、まさに目からうろこが落ちる思いでした。
そしてもうひとつ、当時たまたま読んでいた村上春樹さんの「職業としての小説家」という本に、「プロの野球選手やプロのピアニストになろうと思っても普通の素人には無理だが、日本語さえ書ければ誰でもプロの小説家になれる。小説家は素人が一番プロになり易い職業である」というようなことが書いてあったのですが、なるほど、その通りだと強く感じた私は、背中を押してもらった気がしました。
素人の私が書いたって、内容が良ければ、憧れの「芥川賞」を受賞できるかもしれない。
又吉さんの受賞と村上さんの言葉に勇気づけられた私は奮い立ちました。
それでは、どんな小説を書こうか?
ここで、人生で初めて、自分から能動的に小説の構想を練り始めることになりました。
仕事の合間に素人が一人で書くとなると、時間的にも費用の面でも取材などままならないので、当然制約があります。「蜜蜂と遠雷」で直木賞を受賞した恩田陸さんは、この小説を書くために出版社の担当と7年間浜松のピアノコンクールに通って、合計3,000万円の経費を使ったと書いています。「蜜蜂と遠雷」は確かに素晴らしい作品ですが、それにしてもなんと恵まれた境遇なのかと羨ましくなります。
そんな支援を望むべくもない私は、これまで自分が経験したことをテーマにするしかありません。
私が直ぐに書けそうな小説のテーマは以下の三つでした。
第一に、M&A小説。本業で20年間やってきたので、面白いエピソードには事欠きません。
第二に、留学小説。私が留学してから25年経ってましたが、一般の日本人が知らないぶっ飛んだ話を当時たくさん見ました。
第三に、囲碁小説。囲碁サロンで出会った人たちの面白いエピソードがたくさんありました。
M&A小説ですが、確かに面白そうなお話は書けそうなのですが、まだ現役のアドバイザーとして仕事をしているので難しいと感じました。完全にM&Aの仕事を引退したら、いつか書きたいと思っています。
囲碁小説に関しては、最初は様々な人間模様を短編連作でつなぐ人情物を考えていたので、「芥川賞」向きではないと感じました。
そうなると自然と留学小説ということになります。
この頃、テレビで盛んに「日本は素晴らしい」、「世界が称賛する日本人や日本文化」などという番組を目にしましたが、私は大変な違和感を覚えていました。恐らく世界の人は日本人が思うほど日本のことを評価していません。それどころか私は、日本はどの国よりも「世界標準」からズレていると感じています。
私は日本人であることを誇りに思いますし、日本人の生真面目なところが好きですが、我々の常識は「世界標準」と違うことを認識しないと、海外ではそんな日本人の利点が一転あだとなって痛い目に遭うということを、多くの方に伝えたいと感じていました。そこで「日本人の常識は世界で通用するのか」というテーマの小説を書くことで、日本人はこのままでよいのかと問題提起したいと考えたわけです。
「スピニング・ジョー」の主人公である貴之という20代の若者は、体育会的体質の日本企業になじめずに夢の国アメリカへと飛び出しますが、そこで待っていたのは日本以上に過酷な競争社会で、考えの甘い日本の若者はカルチャーショックを受けますが、アメリカ社会でたくましく生きるジョーというダンサーから刺激を受けて成長していくというお話です。
テーマ性もあるし、「芥川賞」の選考基準である原稿用紙250枚以内に収まりそうなので、丁度良いと考えました。
私は早速PCに向かいました。
55歳にして、人生で初めて小説を書く瞬間でした。
私は凄く緊張しました。
出だしが肝心だと思ってしばらく考えていましたが、何か気の利いたことを書こうと考えれば考えるほど、いつまで経っても書き出せませんでした。
とにかく何か書かなければ始まらないと、覚悟を決めると、「エイヤ」とキーボードを打ち始めました。
その時のことは、今でも鮮明に覚えています。
「セキュリティが強化された影響でフライトが大幅に遅れたため、貴之がケネディ国際空港に到着した時には、もう夕暮れが迫っていた。
九月も半ばを過ぎて、東京は未だにうだるような暑さだが、ここニューヨークでは既に秋の気配が漂っていた。
ライトブルーの薄手のサマージャケットの貴之は、少し肌寒く感じた。
貴之にとっては十年ぶりのニューヨークである。」
気の利いた表現ではなかったですが、とにかくここまで一気に書き綴って、記念すべき第一歩を踏み出すことができました。
あとは、堰を切ったように、次から次へと文章が思い浮かんできました。
ローマ帝国を舞台にした時は、調べものばかりで、一向に執筆がはかどらずに終わりましたが、留学の話となれば、記憶はだいぶ薄れたとはいえ、一応自分が経験したことなので、一旦書き始めると、自分でも驚くほどスムーズに筆が進みました。
半年で処女作完成!
ところが、実際に書き始めてみると、文章量が私が想像していたよりも多くなるということに気がつきました。やはり何事も経験してみないと分からないものです。例えば、ちょっとしたエピソードだから原稿用紙3枚くらいかなと思っていると、実際にはその何倍もの分量になることがよくありました。今ではどれくらいの話なら、分量はどれくらいかだいぶ分かるようになりましたが、初めて書き始めた頃は、想像していた以上に分量が増えて困りました。
「芥川賞」を目指すなら、原稿用紙250枚以内ですが、主人公がアメリカへと旅経つまでの日本のエピソードだけで、原稿用紙200枚くらいになってしまいました。このままでは肝心のアメリカのことが書けなくなってしまうと悩みましたが、「芥川賞」のことは一旦措いて、取り敢えず作品を最後まで書き上げることに専念しようと考えました。
実はこの頃、本業のM&Aの仕事が忙しくなってきたので、執筆も不規則な時間に行うようになっていました。
村上春樹さんは、朝の4時から午前中だけ、原稿用紙一日10枚と決めて執筆し、その間テレビや新聞も一切見ないと、どこかに書かれていましたが、このペースを守ると「海辺のカフカ」の分量(原稿用紙約1,800枚)なら半年で書き上げて、それからまた半年とか1年かけて推敲をするそうです。
私は主に仕事が終わった夜と休日を執筆時間に充てていましたが、仕事が忙しくなってきたので、2週間くらい執筆から遠ざかることもあれば、休日に朝から晩まで書き続けて一日に原稿用紙50枚くらい書くこともありました。また夜書いていると段々頭が冴えてきて、気がつくと明け方3時とか4時になっていることもありました。
不規則で不健康な生活が祟って、途中から肩こりと片頭痛に悩まされるようになりました。片頭痛は私にとって初めての体験だったので、何だか自分の命を削りながら執筆をしているような気がしました。
それでも執筆そのものは楽しくて仕方ありませんでした。
それに仕事が忙しいことは、決して悪いことばかりではありませんでした。ずっとPCに向かっていると煮詰まってきて執筆がはかどらないことがありますが、外を歩いて電車に乗ったりすると良い気分転換になって、ふと良いアイデアが浮かんだり、気の利いた文章が思い浮かぶこともありました。
そんなこんなで執筆を続けること半年、私の処女作「スピニング・ジョー」は完成しました。
分量は原稿用紙900枚になっていました。
これでは、「芥川賞」どころの騒ぎではないですが、それでも書き上げた達成感は大きかったです。
50歳を過ぎた私が、突然小説を書きだした時には、そんな常識外れなことをしてもどうせ出版なんかできるわけない、時間の無駄になるだけだから止めたほうがいいと親切に助言してくれる人もいましたが、私はそうは思いませんでした。寧ろ、若い人に比べて、様々な経験を積んできた分だけ、他人に語れる多くの物語を持っていると感じたのです。20歳前後で鮮烈なデビューを果たした作家が2作目で苦労することがよくありますが、何となく分かる気がします。小説を書くには感性や才能も大切ですが、それ以上に人生経験が必要だと本気で思っています。そういった意味で50歳以上のビジネスマンであれば、誰でも面白い小説を書くネタを持っていると私は信じています。
しかし問題はここからでした。
村上春樹さんが言っているように、確かに小説を書くことは誰にでもできます。
しかし、小説を書くことと、小説を出版することは、全く別の問題だったのです。
私は小説を書きあげた後にそのことに気づきました。
原稿用紙900枚という長編を書きあげて、大きな達成感を得たのもつかの間、今度は一体この小説を如何にして出版したらよいかという大問題にぶち当たりました。
気持ちよく小説を書いている間は、全く考えもしなかった問題でした。書き終わった直後でさえ、小説さえ書き上げれば、簡単に出版できるものだと安易に考えていました。
しかし現実的には「執筆」よりも「出版」のほうが遥かに大きな難問であることを、この後私は嫌でも思い知らされることになるのです。
続く