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素人の私が小説を出版するまでの記録(6)電子書籍の衝撃

電子書籍の出版セミナーへの参加

2017年9月にお会いして、出版業界の裏話を聞かせてくれたライターのH氏は、その後も私を気遣うように、素人向けの出版セミナーの案内など、役に立ちそうな情報を提供してくれました。
この頃の私は、「晴山塾」の晴山代表から提示された「自費出版」という選択肢が加わって、以前のように決死の覚悟で出版社巡りをすることもなくなっていました。そのため、H氏から紹介してもらったセミナーもその全てに血眼になって参加することもなかったのですが、そんな中で、スターティアラボという電子書籍専門の出版社が主催する、「誰でも簡単に出版できる」と謳ったセミナーに目が留まりました。
電子書籍は、今でこそコロナ禍の中、注目されるようになってきましたが、2017年当時は、一般的にはまだそれほど知られていなかったのです。実をいうと、私自身も紙の本しか読まない典型的な「紙派」だったので、電子書籍についてはほとんど何も知りませんでした。
それも無理からぬことで、北米を中心に普及が進む米国アマゾン社のKindleストアにしても、日本に進出したのは2012年10月、日本で電子書籍専用端末の「Kindle」が発売されたのも2012年11月のことで、kindle Unlimitedという月額980円の読み放題サービスに至っては、2016年8月に始まったばかりだったのです。
セミナーに参加する前に、電子書籍について少し調べてみると、紙の本に比べて場所をとらない、文字の大きさを調整できるので読みやすい、途中で分からない言葉を検索できる、家にいても買うと直ぐに読める、などの利点があることが分かりました。
しかも、急拡大しているアメリカでは、アンディ・ウィアーの「火星の人」(「オデッセイ」というタイトルで映画化もされました)がWeb小説で初めて100万部突破のベストセラーとなったことや、「フィフティシェイズオブグレイ」がシリーズで累計1億部のメガヒットとなっていることも知りました。
日本にはまだあまり浸透していないけど、これはひょっとしたら大きな潜在力を秘めているかもしれないと感じた私は、専門家の話を直接聞いてみたいと思うようになっていました。会社のことを調べてみると、システムインテグレーションやデジタルマーケティング事業を行っているスターティアという上場企業の子会社であることも分かったので、私は安心してそのセミナーに参加することにしました。

2017年10月のことでした。
新宿にあるスターティアラボの本社に行くと、大きな会議室に20名くらいの聴衆が集まっていました。皆さん、何かしら文筆活動をしているようで、中にはすでに出版実績のある方もいました。
当日は、スターティアラボの伊藤編集長のほか、大手出版社を辞めて「売れる本をプロデュース」する仕事をしている方などが講師を務めました。皆さん、何十万部という発行部数の出版を経験してきた方たちばかりとのことで、私の期待感は嫌が上にも盛り上がりましたが、実際にセミナーが始まると、私は直ぐに場違いなところに来たと感じました。
いざセミナーが始まると、その内容は出版社へ企画を持ち込む時の心構えや、企画書の書き方といった、実務的なノウハウで、しかも対象は、小説ではなくノウハウ本やビジネス書だったのです。
セミナー参加者は、熱心にメモを取りながら聞き入り、時々質問もしていましたが、私にとっては全くの期待はずれのものでした。
一通り説明も終わり、質問も一段落したところで、私は挙手して質問しました。
「もうすでに書き上げた小説があるのですが、それをこの出版社から出すことは可能ですか」
この日のセミナーの内容と全く関係ないうえに、単刀直入で不躾な質問だったかもしれませんが、私にとっては、企画書の書き方や、その持ち込み方法などより、余程関心のあることでした。
壇上にいる人たちは一様に困惑の表情を浮かべましたが、伊藤編集長が代表して、にこやかな表情のまま、「うちは文芸を扱ってないんですよ」と申し訳なさそうに答えてくれました。
私は、「ハイ、そうですか」と引き下がることなく、もう少し粘ってみました。
「でもおたくは、電子書籍を扱っているんですよね。もう原稿は出来上がっているので、紙の本と違って、コストがかかるわけでもないでしょうし、何とかなりませんかね」
すると伊藤編集長は困惑の表情を見せつつも、穏やかな口調で、以前は文芸部門もあったけど今は扱っていないので、申し訳ないけど対応できない、と再度同じことを繰り返しました。
これでまた、完全に肩透かしとなりましたが、そういうことはこれまで何度もあって私も慣れっこになっていたので、さほど気に掛けることはありませんでした。

セミナーが終わると、伊藤編集長が軽く飲みに行く二次会に誘ってくれました。伊藤編集長は人当たりの良い温厚な方だったので、電子書籍に関する話をもっと聞かせてもらえるのではないかと期待して、私も参加することにしました。
3名の講師と5~6名の聴講者が連れ立って、近くの手羽先で有名な居酒屋に入りました。
そこで私は、電子出版業界が抱えている問題や、今後の展望など面白いお話を色々と聞かせて頂きました。黎明期には雨後の竹の子のように電子出版社が乱立したそうですが、中には悪質な業者もいて、次第に淘汰が進み、残った中ではスターティアラボが最大手の一角を占めていることも分かりました。
以前は文芸を扱ったこともあったけど、ノウハウ本のように部数が伸びないので撤退したこと、中には9部しか売れなかった小説もあったことなども聞かされて、背筋が寒くなりました。
そもそも紙の本と違って、電子書籍は書店に並ぶことがないので、いつどんな本が出版されるのか、一般の人には全く認知されないのでしょう。そう考えると電子書籍のマーケティングは難しそうですが、それでもノウハウ本の中には、何十万部も売れるものもあるというので、驚きました。
主婦が綴ったブログに興味を抱き、電子書籍化を持ちかけたら、二十万部の大ヒットになったなどという話も飛び出し、羨ましく思いました。

適度に酔いが回ってきたところで、私が書いた小説が話題に上りました。伊藤編集長は興味を示して色々と聞いてくれましたが、自社で出版する気は全くないようでした。
私は改めて、もう原稿は出来上がっていて、あとは電子書籍としてアップするだけなので、たとえ売れなくても、紙の本と違って出版社にさしたるリスクはないのだからと訴えて、重ねて出版の検討をお願いしました。
温厚そうな伊藤編集長は、その人柄から、私に明確にNOと言えず、「文芸は扱っていないしなあ」、とか「9部しか売れなかったこともあるからなあ」などと苦笑するばかりでした。確かに、紙の書籍に比べれば遥かにリスクは少ないとはいえ、手間暇かけて出版にこぎつけた本が9部しか売れないのでは、さすがに商売にならないでしょう。
それでも私は必死に「スピニング・ジョー」のアピールを続け、取り敢えず読んでから判断してほしいと頼んで、「サンプル版」を伊藤編集長に渡しました。
こういう流れになると、伊藤編集長としても言下にNOと断るわけにもいかず、取り敢えず読んでみると言って「サンプル版」を受け取ってくれました。
こんな時に、原稿ではなく、本の体裁をとった「サンプル版」は大いに役立ちました。私は改めてこのアイデアを授けてくれた、原田社長に感謝する気持ちでした。

電子書籍という新たな可能性

伊藤編集長が取り敢えず「スピニング・ジョー」の「サンプル版」を読んでくれると言ってくれたので、感想が返ってくるのを待つ間、私はもう少し電子書籍や電子出版について調べてみることにしました。
「白書」や「調査報告書」の類いを読み込み、さらにネットで色々と検索した結果、電子書籍ビジネスの過去と現在までの動向、そして将来の展望について一定の知見を得ることができました。

電子書籍の市場規模は、2016年時点で、紙の出版市場規模の1兆5,000億円に比べると、まだ15%程度の2,300億円でしかありませんでしたが、この数字は私が想像していたよりも遥かに大きなものでした。しかも1996年の2兆6,500億円をピークとして毎年縮小傾向にある紙の出版市場に比べて(10年で40%以上も縮小したことになります)、電子書籍は年々増加しており、この時点では、2021年のマーケット規模は3,500億円まで拡大すると予想されていました(実際には2020年時点の実績は3,800億円なので、当時の予想を上回るペースで拡大していることになります)。

この数字だけ見ると電子書籍の将来は有望に思えますが、それでもいくつかの点で問題を感じました。
最大の問題は、日本の場合、電子書籍の80~90%がコミックということでした。つまり文字媒体としてはまだほとんど認知されていないのです。そのうえ小説の比率はまだ非常に低いうえに、ライトノベルが中心なので、紙の本と比べて、電子書籍は傍流というイメージで一段低く見られていることも問題だと感じました。
これでは晴れて出版が実現しても、果たして出版そのものを世間で認知してもらえるのか、あるいは本当に買って読んでもらえるのか、大いに不安を感じました。

それでは、日本では何故これほどまでに、電子書籍の普及が遅れているのでしょうか?
私は疑問を抱いて、アメリカの例を調べてみました。
すると、意外なことが分かってきました。
私はアメリカでは、紙の書籍がなくなるくらいの凄まじい勢いで電子書籍が普及しているのではないかと思っていたのですが、実際はそうではありませんでした。
2016年時点での日本の電子書籍の比率は約15%(2021年時点で20%前後)でしたが、それに対してアメリカも30%前後でしかなかったのです。
電子書籍マーケットで圧倒的に先行しているはずのアメリカが30%前後なら、日本の15%もそう悪い数字ではなさそうですが、色々と調べていくうちに、実はそうではないことが分かってきました。
そもそもアメリカは紙の出版マーケットの規模が毎年ほぼ横ばいで、日本のように急激に縮小しているわけではなかったのです。そのことも日米の大きな違いで驚きでしたが、アメリカでは2015年頃から、逆に電子書籍の比率が少しずつ低下するという現象が起こっていたのです。
これは一体どういうことなのでしょうか?
色々調べてみると、アメリカの出版業界が、健全な競争によって今なお発展拡大している姿が見えてきました。
2000年頃からアマゾンの電子書籍が急激にシェアを伸ばす中、安価な電子書籍に引きずられて紙の書籍も価格破壊を起こすことを危惧した大手出版社5社が、電子書籍小売り業者であるアップルと、電子書籍の価格を高く設定する談合を行っていた咎で、2012年に公正取引委員会から提訴されたのです。
最終的に和解が成立して、電子書籍小売り業者は、出版社が定めた価格でなく、自ら「適正価格」と判断した値段で販売するようになるのですが、その結果、業界で健全な競争が促されるようになったのです。その後、安売りばかりでは利益が得られないと考えたアマゾンも、紙の出版社と共存共栄の道を探るようになって、電子書籍の徹底した安値路線を軌道修正するのですが、その一方で、安価な電子書籍に対抗する形で、紙の出版社も生き残りをかけて様々な工夫を凝らして、電子書籍が追随できないニッチな領域を開拓したり、値段の安いペーパーバックや特徴のあるセルフパブリッシングで新たなマーケットを開拓するよう努力を続け、結果として、電子書籍のほうが割高となるような現象まで起こるようになったのです。
これがアメリカで電子書籍の比率が下がっている理由でした。

これに対し日本では、「再販制度」によってもともと出版社が小売りの値段の決定権を持っているので、電子書籍でも出版社が紙の本とほとんど変わらない小売り価格を設定し、そのため電子書籍が普及しないという現象が起こっているのです。
本来なら、紙を印刷して全国に流通させる手間もなく、在庫を抱えるリスクもない電子書籍のほうが、価格が安くなって当然なのに、日本はそうなっていないのです。
明らかに出版社が紙の本の既得権を守るために、電子書籍の普及を意図的に阻害しているのです。

日本では、出版関連の人は「再販制度」に慣れきっているので、出版社が決めた値段で小売り販売することに何の疑問も持たないのかもしれませんが、この考え方を在庫リスクがない電子書籍にまで適用していること自体に問題があるのではないでしょうか?そのために、本来なら紙の本より低く設定されるはずの電子書籍の値段が、日本では紙とほとんど変わらないのです。
例えば、最近発売された、カズオ・イシグロの「クララとお日さま」を見てみると、日本語版は、紙の本が2,750円に対して、電子書籍は2,475円でほとんど変わりません。一方英語版を見てみると、紙の本が3,306円であるのに対して電子版は僅か1,141円です。英語版の紙の本は、輸送代などが含まれて日本では高くなっているのかもしれませんが、それでも日本の紙の本と比べても、電子書籍は半額以下なので、これでは日本で電子書籍が普及するわけがありません。

電子書籍の普及率の数字だけを見ると、2021年時点で20%と30%と、日米でそれほど大きな開きがあるように見えませんが、実態は悲しいくらい大きく異なっていることが分かります。つまり、最初から電子書籍に紙の本と同じくらいの高い値段を設定して、電子書籍の普及を阻んでいる日本と違って、アメリカでは健全な競争が行われた結果、両者がともに生き残りをかけて必死の努力を続けて、共存する形で紙の出版も拡大発展しているのです。

こうして見てみると、電子書籍に関しては、日本は周回遅れどころか、二周も三周も遅れていることがよく分かります。日本の出版業界は、電子書籍の普及を阻むことに汲々とするばかりで、業界としての健全な競争や努力を怠ってぬるま湯に浸かっていることになります。逆の言い方をすると、日本ではそういった健全な競争や企業努力が行われていないために、アメリカのように紙の出版規模を維持することもできずに、ただ凋落の一途をたどっているということです。

ある業界が、狭い視野で自らの既得権益を守ろうとすることによって、結果的にその業界の健全な発展が阻害されるばかりか、日本全体のデジタル化や、イノベーティブな進展が遅れてしまうという現象が、日本の至るところで起こり、今や日本全体を覆う閉塞感の根本原因となっているのではないでしょうか。
そこには、なんだかんだと理由をつけて、オンライン診療を頑として認めない医師会と、そこになかなかメスを入れられない行政が抱える問題と全く同じ匂いを感じます。自らの既得権しか目に入らず、結果的に日本のデジタル化を遅らせ、長い目で見ると日本の競争力を弱体化させる事態が進行していることをもっと深刻に受け止めるべきではないでしょうか。
私は中国や東南アジアへ出張に行くたびに、改めて日本の良さを感じることが多いですが、最近では、それと同じくらい日本の後進性を感じることも多くなっています。これは日本人全体がもう少し真剣に考えるべき問題だと思います。

電子書籍に関する日本の現状が分かってくると、私は暗澹たる気持ちになりましたが、一方でこの新たなテクノロジーに期待する気持ちも生まれていました。
それは、電子書籍を利用したセルフパブリッシングのサービスが大きなうねりとなって、アメリカの出版業界に新たな旋風を巻き起こしていたからです。自費出版に近いセルフパブリッシングを利用して幅広い作者層を開拓することに成功したアメリカでは、セルフパブリッシングのマーケットシェアが次第に大きな比率を占めるようになっていたのです。
時代は今まさに動いていると感じました。
インターネットの普及によって、それまでプロの手に握られていたメディア機能が、一気にパーソナルのレベルにまで広がって、個人が誰でも自由に発信できるようになったのと同じことが、電子書籍によって、出版の世界でも起こっているのです。
つまり、大手出版社を介さなくても、自由に個人が作品を出版できるツールが提供されるようになり、しかもそれがマーケットシェアを伸ばして急拡大しているのです。
まさにパーソナルな時代の到来です。
その代表例が、アマゾンが提供しているKDPというセルフパブリッシング機能でした。

私は特にこのKDPに興味を抱きましたが、詳細がよく分からなかったので、「晴山塾」で素人の電子書籍出版をサポートしている晴山代表に再度お会いして、アマゾンのセルフパブリッシングサービスであるKDPについて、お話を伺うことにしました。
晴山代表は時間をかけて、電子書籍に関して出版業界で起こっている変化について、丁寧に説明をしてくれました。そして、「自費出版」だけでなく、もし私がKDPを使って電子書籍を出版したいなら、それもお手伝いしてくれると言ってくれたのです。
紙の本でも電子書籍でも作者が受け取る印税は、通常は10~15%ほどですが、KDPだと出版社を介することなく個人で自由にアマゾンのKindleストアで出版できるので、印税は70%になるというのです。
晴山さんのお陰で、私は「自費出版」のほかに、「KDP」という選択肢も手に入れることになりました。

電子出版会社の編集長に切った啖呵

スターティアラボの伊藤編集長に「スピニング・ジョー」の「サンプル版」を渡してから、私は返事を待ち続けましたが、その後一向に連絡が入る気配がありませんでした。1か月ほど経っても何の連絡もないので、さすがに業を煮やした私は、伊藤編集長に電話して、直接「スピニング・ジョー」の感想を尋ねてみました。すると彼の返事は、「まだ読んでいない」でした。
電話口で気まずい空気が流れましたが、それでも伊藤編集長はもう一度お会いしましょうと言ってくれたので、その後電子書籍についての知見を深めていた私は、再度お会いすれば、電子出版について教えてもらうばかりでなく、自分なりの考え方もぶつけて色々と議論できるのではないかと考えてお会いすることにしました。ただし、伊藤編集長が1か月もの間「スピニング・ジョー」を読んでいなかったと知って、もうスターティアラボを通じて出版する可能性はなくなったと覚悟せざるを得ませんでした。
この頃の私には、「自費出版」と「KDP」の二つの選択肢があったので、もうそれほど「スターティアラボ」に執着する気持ちはありませんでした。

2017年11月の中頃に、私は再び新宿のオフィスに伊藤編集長を訪ねて行きました。
そして電子出版の可能性や、これからのマーケット動向などについて意見交換をしました。雑談風の世間話でしたが、その中で、伊藤編集長は、スターティアラボの強みとして、電子書籍だけでなく、同時にPODの形でペーパーバック版の紙の書籍も同時販売していることを説明してくれました。
スターティラボから出版することをすっかり諦めていた私も、電子書籍と同時にペーパーバックも出版するという話にすっかり魅了されてしまいました。私も含めて、周りの友人は皆、50代、60代のおじさん、おばさんばかりで、本は紙でしか読まないという人が多かったので、電子書籍で出版しても親しい友人には読んでもらえない可能性が高かったのです。ところが電子書籍と同時に紙の本も出版してくれるなら、話は随分と違ってきます。
伊藤編集長からこの話を聞いた途端に、私の中で優先順位が変わって、それまで最下位だったスターティアラボが一躍、第一順位へと躍り上がりました。
もとより、私は電子書籍には大いなる将来性を感じていたので、自分がその普及の一端を担えれば本望だという気持ちも潜在的にくすぶっていたのです。

私は伊藤編集長に「スピニング・ジョー」の感想をもう一度尋ねてみました。
電話では読んでないと言ったけど、それでもわざわざ会ってくれたのだから、この2週間あまりの間に、もしかしたら読んでくれたかもしれないと淡い期待も捨てきれませんでした。
ところが、ここでも、伊藤編集長は曖昧な返事をしました。
「少し読んでみたけど、あまり僕の好きな文体じゃなくて・・・」
それはある程度予想された返答だったので、このミーティングの最初に聞いていたら、私はそのまま頷くだけであっさりと諦めていたかもしれません。
しかし、ミーティングの間に聞いた、電子書籍とペーパーバックの同時発売という話がどうにも魅力的に感じた私は、このまま断られてはまずいと思って、必死にくらいつきました。
「失礼ですけど、伊藤さんはノウハウ本の編集を担当されているので、そういった本は普段からお読みになっているでしょうけど、小説というのは普段読まれるんですか?」
すると伊藤編集長は普段通りの柔和な笑顔のまま、「僕はほとんど小説は読まないですね」とあっけらかんと答えたのです。

私は怒りがこみあげてきました。
「ほとんど小説を読まない人に、私の文体がどうのこうのと言ってほしくないですね」
伊藤編集長には何とか思いなおしてほしいという気持ちが強かったので、最初は怒りを抑えて静かに話していたのですが、そのうちに心の底から憤りの感情が沸き起こってきました。それは、伊藤編集長個人に対してというより、それまで積もり積もった出版業界全般に対する憤怒の情で、それを今ここでぶちまけないことには、もうどうにも収まりがつかなくなっていたのです。次の瞬間、堰をきったように思いの丈が、次から次へと口をついてあふれ出てきました。
「だいたい、これまで、数多くの出版社の人に会ってきたけど、どいつもこいつも、ろくに小説を読みもしないで、自分の会社の都合とか、自分の立場とか、社内の事情とか、そんな内向きのことばっかり気にして、一向に読者に向き合ってないじゃないですか。あなたたちは読者が何を求めているか、本当に分かっているんですか?」
私はそこまでまくしたてると、英治出版の原田社長に薦められて書き溜めておいた、熱烈な「スピニング・ジョー」ファンから寄せられた熱いコメント集を取り出して、伊藤編集長につきつけました。
「私の周りには、これだけの熱烈なファンが、この作品を圧倒的に支持してくれているんですよ。それなのに、普段からろくに小説も読まないようなあなたに、自分の好みではないなどと言われることは、全くもって心外だ。本来、出版社というのは、著者と読者の仲介の役目を果たすべきなのに、これだけの愛読者がいるというのに、日本の出版社は、自分の都合を優先するだけで、全くその仲介機能を果たしてないじゃないですか。これでは、今の日本の出版業界は、完全に機能不全に陥って、死んでいるのも同然だ」
私の圧力に気おされたのか、笑顔が消えて険しい表情に変わった伊藤編集長は、慌ててそのコメント集に目を落とすと、私を制するように頷きました。頷いたといっても、恐らく私の言葉に納得したわけでも、コメント集に書かれている内容に共感したわけでもなく、ともかく私の怒りを静めたかっただけなのだと思います。
もしも相手が温厚な伊藤編集長でなかったら、激しい罵り合いが始まって、修羅場と化していたかもしれませんが、幸い彼はあくまでも冷静で、戸惑いの表情を見せつつも、落ち着いて答えてくれました。
「分かりました。編集者の中には小説好きもいますので、社内でそういった人にも読んでもらって、皆の感想を聞いて判断するようにします」
伊藤編集長のその言葉に、私も何とか平常心を取り戻すと、駄目もとと思いつつ「サンプル版」をもう2冊渡して、黙って会社を後にしました。

会社を後にしてから、改めて冷静に考えてみましたが、伊藤編集長は単にその場を無事収めようと思っただけで、出版する気はないとしか思えませんでした。何といっても、スターティラボは文芸を扱っていないのです。言いたいことを言い放ってスッキリした私は、そろそろ「自費出版」か「KDP」のどちらかにするのか覚悟を決めなければいけないと思いました。
これまで何度も繰り返されたように、今回も断りの連絡がくるだろうと、私はすっかり悟りの境地にいました。
しかし、その後待てど暮らせど、伊藤編集長から連絡は来ませんでした。
威勢よく啖呵を切ってから1か月あまりが経ち、もしかしたら断りの連絡さえこないのではないかと思うと、すっかり無視されたようで悲しくなりました。

そんな鬱々たる日々を送っていた、2017年の年の瀬に、伊藤編集長から突然メールが送られてきました。
今更、何の用だろうかと思って、そのメールを開いた私は、我が目を疑いました。
そこには、「社内で協議した結果、是非ともスピニング・ジョーを弊社で出版させて頂きたいと思います」と書かれていたのです。
私は飛び上がって、歓びを爆発させました。
3年近く駆けずり回った苦労が報われて、ついに願いが叶って、出版社が見つかった瞬間でした。
それは私にとっては、思いがけず突然もたらされた、クリスマスプレゼントでした。
伊藤編集長には、散々悪態をついてしまいましたが、状況が一変して、一夜にして彼は私にとって最大の恩人となったのです。
私は直ぐに伊藤編集長にお礼のメールを送りました。
すると「早速、年明けに打ち合わせをしましょう」と返事がきました。
喜び勇んだ私は、指定されれば正月でも駆けつけるつもりでした。
ところが、彼が指定してきたのは、1月25日でした。
年明けと言えば普通は、1月4日とか、7日、遅くとも10日だろう、とツッコミの一つも入れたい気分でしたが、また気が変わったら大変だと思い、逸る気持ちを抑えて、1月25日まで待つことにしました。
年末年始を挟んで、なんとも待ち遠しい1か月となりました。
これが「出版業界の緩い時間軸」なのかもしれませんが、その後も「期日」や「契約」、「支払い」などに関して、一般のビジネス慣行では考えられないような、出版業界の「常識」、平たく言うと「緩さ加減」に、私は驚き、戸惑い、激しく口論を重ねることになるのです。
いざ出版社は決まったものの、実際に出版が実現するまでには、まだまだ長い道のりが待っていました。

                                                  (続く)


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