素人の私が小説を出版するまでの記録(3)文学賞への挑戦
「文芸誌」から垣間見えた「伏魔殿」の実態
大手出版社の文芸部門出身の方と初めてお会いして、「新人文学賞」という作家への王道を指し示された私は、すっかりその気になって、文学賞について色々と調べ始めました。真剣に調べてみると、新人向けの文学賞は私が想像していたよりも遥かに多いことが分かりました。
ミステリーとかSFなどというジャンルを限定しているものもありますが、ほとんどが純文学系かエンタメ系のどちらかで、そういった文学賞は、大抵の場合大手出版社が発行している月刊誌が主催していることも分かってきました。
世の中の多くの人がそうだと思いますが、そういう雑誌が本屋に置いてあっても、実際に手に取ったことはほとんどないと思います。私自身、そういった雑誌を本屋で見かけたことはあっても、それまでは気にかけたことさえなかったのですが、「文學界」「群像」「すばる」「文藝」などの純文学系雑誌が「文芸誌」、「オール讀物」「小説すばる」「小説現代」「小説新潮」「別冊文藝春秋」などのエンタメ系雑誌が「小説誌」と呼ばれていることも初めて知りました。
数多ある文学賞の中から、自分の作品に合うのは、どの文学賞なのか、全くイメージがなかった私は、傾向と対策を考えるために、生まれて初めてそういった「文芸誌」や「小説誌」を買って、それぞれの特徴を調べてみることにしました。
同時に各賞の応募要項や過去の受賞者などを調べてみると、新人向けの文学賞は、それぞれ特徴が違うものの、圧倒的に原稿用紙100枚程度の短編が多いことも分かってきました。長編の文学賞は少ないうえに、最大でも原稿用紙600枚以下ということも分かりました。
これでは、900枚の「スピニング・ジョー」はとても応募できません。
そのことだけでも十分衝撃的だったのですが、どの文学賞も応募総数は大抵毎年千篇、多い賞になると二千篇くらいあることも分かって、私は仰天しました。
今時は作家を志望する人は極端に減っているものだと勝手に思い込んでいたので、この応募数には正直愕然としました。
友人の中にはさして文芸に詳しいわけでもないのに、私を喜ばせようと思ったのか、さも訳知り顔で「最近は本を読む人も減って、それに比例して優秀な書き手、特に長い小説を書ける人が減っているから、出版社も実は血眼になって、長編小説を書ける人を探しているんですよ」などと言って励ましてくれる人もいましたが、とんでもない誤解でした。
文学賞へ応募しようと、一旦はその気になった私でしたが、こんなに応募数が多いのでは、宝くじに当たるようなものでとても無理だと感じて、高まった気持ちは一気にしぼんでしまいました。一方で、多くの友人が面白いと言ってくれているので、ひょっとしたらいけるのではないかという想いがよぎることもあり、そんな諦観と期待感のはざまで逡巡していました。
容易に決断できないまま心が揺れ続ける中、折角だからと初めて買った「文芸誌」なるものに目を通してみたのですが、驚いたことに、こういった「文芸誌」こそが、私が近づこうとしてなかなか入っていけなかった「伏魔殿」という「城」の中を垣間見せてくれる、「城壁」の覗き窓であることに気づいたのです。「城」の中には、一般の人がうかがい知れぬ一種独特な閉鎖空間が確かに存在し、そんな中で必死に執筆活動に勤しむ者たちの生態系が息づいていたのです。
こんな身近なところに、今までずっと近づきたいと願いつつ、叶わなかった異世界の窓口があると分かって、私は愕然とすると同時に、何故もっと早く気づかなかったのかと、歯ぎしりしました。
こういった雑誌には、大抵は名の売れた作家の連載小説が掲載されているのですが、時には私のような作家志望の素人向けに、著名な作家先生によるアドバイスとか、作家になるまでの苦労話が載っていることもありました。
私がたまたま買った号には、文学賞を受賞したばかりの7人の新人作家の対談が掲載されていたのですが、皆さんの物凄い熱量に圧倒された私は、作家を目指すことが如何に大変なことか、認識を新たにすることになりました。
私が受けた衝撃は大きなものでした。
第一に、どの方もフリーのライターとか劇作家、シナリオライター、あるいはプロットライター(ドラマの筋書きを書く仕事)として、もともと執筆活動をしていたということ、第二に、皆さん一念発起して作家を目指すようになるのですが、小説を書き始めてからこれまで何回も文学賞に応募して、実際に受賞するまでに5年とか10年の期間を要していること、第三に、作家になる修行のために、ほとんどの方が、「小説教室」とか「シナリオ講座」などの勉強会に参加していること、などなど驚きの連続だったのです。
思いつきでたった1作書いただけで、作家デビューしたいと出版社を探し回っていた自分とは、全く住む世界が違うことを痛感しました。
「小説教室」では、著名な作家や大手出版社の編集長の講演もあるそうなので、そんな「伏魔殿」のインサイダーと出会う機会もあることを知って、それはそれで別の意味で衝撃でした。
ただし、「小説教室」も良いことばかりではないようです。
お互いに書いた作品を読んで批評し合うと、中にはボロクソに言われて激怒する人もいて、修羅場と化すこともあるようで、結構すさまじい世界だと身がすくむ思いがしました。
私は自らの取り組みの甘さを恥じるとともに、彼らとは、作家になる覚悟が全然違うと感じました。
しかももっと驚いたことに、そうやってようやく文学賞を獲ったとしても、それは単に編集者に作品を読んでもらうチケットを手に入れたという、スタート地点に立ったに過ぎず、そのうちの多くがやがて激しい生存競争の中で消えていく運命にあるという厳しい現実が待っているのです。
新人作家の多くは、デビュー後に編集者に新作を書き送ってもボツになるケースも多いし、半分以上書き直しを命じられることもよくあるそうです。
これも私が抱いていた、作家と編集者の関係性と大きく異なるものだったので、大きな衝撃を受けました。
編集者は作家先生に頭を下げて締め切り原稿の執筆を促すのが仕事だと思っていましたが、新人作家相手だと、寧ろ、鬼教官が執筆指導を施している感すらあります。赤ペンをたくさん入れられて半分以上書き直した作品は、果たしてその作家の作品と言えるのか疑問ですが、どうもできあがる作品は、作家と編集者の「共同作業」という暗黙の了解が双方にあるようで、そのこと自体も大きな驚きでした。
編集者がそこまで良い作品を書く自信があるなら、自分で小説を書けばいいのにと、この時も違和感を覚えました。
いずれにしても、私が昔から熱心にこういった「文芸誌」や「小説誌」を読んでいたら、恐ろしくてとても作家になろうなどと考えることも、実際に小説を書くこともなかったでしょう。そう考えると後からこのような世界を知ったことは、不幸中の幸いだったかもしれません。
確かにこの特殊な世界の実情を垣間見た私は、すっかり打ちのめされてしまいましたが、幸か不幸か、「スピニング・ジョー」という作品は、もうすでにこの世に産み落とされた後だったので、この可愛いわが子が日の目を見るようにしてやることこそ、親の務めだと思って気持ちを奮い立たせました。
それにしても、毎年何千、何万という血と涙の結晶である小説が創作されては、そのほとんどが落選の憂き目にあって、世に出ることなく葬り去られているとは、何と冷酷で非情な現実でしょうか。もしかしたら、その中に、物凄い名作が埋もれていることだって、あるかもしれないのです。
高橋一清氏の著作との運命的な邂逅
こうやって、新人文学賞に応募するために、「文芸誌」や「小説誌」に初めて触れて、「伏魔殿」と言われる文芸の世界を覗き見た私は、それまで抱いていた編集者像とは全く異なる姿を垣間見て、興味を抱くようになりました。
そんな時に運命的に出会ったのが、高橋一清氏の書いた「芥川賞・直木賞をとる!あなたも作家になれる」という本です。
高橋さんは、文藝春秋社に67年(昭和42年)に入社、以後2005年に退社するまでの38年間を文芸畑で過ごした名物編集長です。「芥川賞」や「直木賞」、「松本清張賞」、「菊池寛賞」の社内選考委員(下読み委員)を務め、その後責任者として各賞の運営と進行にも当たられた方なので、「芥川賞」や「直木賞」の実態や裏話を語るうえで、これ以上の適任者はいません。
刺激的な題名に誘われて、思わず本屋で手に取ったのですが、「芥川賞」や「直木賞」ばかりでなく、出版業界の文芸部門の内情や、編集者の仕事内容を知るうえで、これほど役立った本はありませんでした。これはもう、「城壁」の「覗き窓」どころか、「城」の内部で生活する者の「暴露本」ともいえるものでした。
まさにこういう情報を求めていたのです。
これこそ、私が一番知りたいと思っていたことが書かれた本でした。
新人賞選考の過程から、評価の考え方まで、「伏魔殿」で展開される生々しい実態が赤裸々に綴られたこの本を、私は貪るように読み耽りました。
この本を読んで、「芥川賞」や「直木賞」の候補作がどうやって選出されるのかも初めて知りました。
作家が自分で応募するのではなく、半年間の間に「文芸誌」などに掲載された作品の中から、文藝春秋社の担当が選んでいるのです。この部署の方は、候補作選定のために、普段から対象作品を数多く読む必要がありますが、それだけではなく、同時に新人賞に応募してきた、千から二千篇の作品を手分けして、一人二百篇くらいは読まなければならないというのです。
編集者の仕事は、私の想像以上に大変なものだと改めて感じました。
毎日、毎日、応募原稿を読むのが仕事なので、自分が読みたい本もろくに読めないそうです。
そうなると、素人の持ち込み原稿など読む暇がないことがよく分かります。
読んでほしければ、新人賞に応募しろという気持ちも確かによく理解できます。
最初の10枚だけ読んで、あとは読まない作品もあるそうです。
たまにダイヤモンドの原石のような作品に当たると、嬉しくて、別途その作者に連絡を取ったり、訳あって落とした場合でも、光るものがあると思えば、丁寧に手紙を書いたりしたそうです。
高橋さんの「作家観」で私自身目を見開かれた点がいくつかあったので、ここに列挙したいと思います。
第一に、作家になるまでは、皆さん素人だということです。
考えてみれば当然ですが、私だけに限らず、賞を獲って作家デビューするまでは、他の仕事をしている場合が多いのです。中でも何かしら執筆の仕事をしている人が圧倒的に多いことも分かりました。
第二に、かつては、作家デビューするまでに、「行李ひとつ分の書き溜め原稿を持って作家生活に入る」と言われたとのことです。つまり原稿用紙1万枚くらいの作品の下書きをしてこなければ、とても作家になどなれないというのです。
またしても私は自らの甘さを恥じることとなりました。
第三に、世の中には作家以外の職業に就けない人がいるというのです。それこそが、まさに作家という職業がある社会的意義なのかもしれません。
彼に言わせると、作家としては素晴らしいけど、近所にいたら困ると思う特殊な人もたくさんいて、そのような「特殊な人」の「特殊な考え」を一般化する力が「文学」であり、作家は「勝手な自己」を社会化させる役割を担っているというのです。
中上健次さんは新宿の喫茶店にたむろしていたフーテン時代に、高橋さんに見出されて作家デビューし、その後「芥川賞」も獲得して、大いに期待されながら46歳で夭逝した作家ですが、そんな中上氏本人は「もしも一清さんと会わなかったら、俺は(連続射殺犯の)永山則夫になっていた」と言っていたそうです。
それくらい社会常識からはみ出した強烈な個性がないと、良い作品は書けないのかもしれません。
第四に、高橋さん自身が編集の仕事に携わった60年代から2000年あたりまでが、日本文学の黄金時代で、作家のスティタスも高かったと懐かしんでいることです。
文芸評論家の江藤淳さんは「三島由紀夫の自決で日本の作家は終わった」と言って「文芸時評」の執筆を放棄してしまったそうです。
確かに最近では夏目漱石、太宰治、三島由紀夫のような天才にお目にかかることもなくなり、作家からオーラが失われつつあるのも事実かもしれません。
各種新人賞の選考までの実態や、選考の過程で生まれた様々な作家との裏話も興味深かったのですが、私が特に興味を持ったのは、どういう作品が落選するのか、その理由が詳細に書かれていたことです。
これから新人賞に応募しようか迷っていた身としては、大変気になるところでした。
その中で、特に気になる部分がありました。
典型的な落選例として、「額縁小説」というものがあるというのです。
「額縁小説」というのは、物語を現在より過去にさかのぼって始め、最後に語り始めた現在に戻って、どうこうしたというところで終わるもので、額縁の中に入った絵画のように、くくりの中にがっちりはめ込まれているからこう呼ばれるそうです。高橋さんの言によると、こういうのは小説の恰好をつけやすいので、書いているほうは「決まった」と思うかもしれないけど、結局小さくまとまって月並みな感じになってしまう。だからどうしてもやりたければ、最初だけ時間を戻し、ラストでは過去の部分で終わらせ、その後どうなったのかは読者の想像に委ねるほうがそこはかとない余韻が残って良いというのです。
これを読んで私は大いに悩んでしまいました。
「スピニング・ジョー」は、まさにこの「額縁小説」の体裁をとっていたからです。確かに私も、「決まった」と自己満足していたので、痛いところを突かれたと思いました。
ここは名編集長の言を容れて、大幅に修正しようか随分と悩みました。
しかし、完全な「額縁小説」とも言えない点もあったので、そこが厄介なところでした。
「スピニング・ジョー」では序章は過去のある時点から始まり、本編ではさらにその10年前を振り返って話が展開します。その10年前の物語の最後にちょっとした事件が起こり、どうなったかと思わせて本編は終わりますが、終章でまた序章の時点に戻ります。そういった意味で完全に「額縁小説」の恰好になっていますが、大きく違うところは、終章ではその10年の間に起こったことは振り返りますが、全部が明らかになるわけではないので、多くの謎は残されたままだし、何といってもその後主人公は一体どうなるのだろうかという、読者の想像をかきたてるような余韻が残されているのです。
現に読んでくれた友人の多くが、終章は本当に心に染みて感動した、とか終章があるから締まりのある作品になっている、と言ってくれました。それ以上に、その後、狂言回しである主人公の貴之や本作のテーマの象徴であるジョーがどうなったかの解釈を巡って、喧々諤々読者同士で白熱した討論が展開されることもあって、是非とも続編を書いてくれと言う人も大勢いたのです。
色々と思案を重ねた結果、私は修正せずに「額縁小説」のまま行こうと決めました。
第一に、読者が感動すると言ってくれているから、このままで良いじゃないかという開き直りがありました。
第二に、この頃になると、私は出版業界に対して「プロゆえの陥穽」とでもいうべき違和感を覚えるようになっていたからです。どういうことかというと、プロの作家あるいは編集のプロと言われる人は、まず小説はこうあるべきだという固定観念にとらわれているように感じていたのです。そういった形式論に抵抗感を覚えた私は、そのような既成概念にとらわれずに、素人らしい自由な発想で、これまで誰も見たことがない作品を書きたいと思うようになっていました。私がもし「小説教室」に通っていたら、「額縁小説」の体裁は最初から避けていたかもしれませんが、そうやって最初から避けること自体が「プロゆえの陥穽」だと屁理屈をつけて、このまま押し通すことにしました。
私は天邪鬼なうえに頑固なところがあるのです。
高橋一清さんの著作を読んだ最大の恩恵は、これで私も、新人賞に応募しようと腹を固めることができたことでした。
これを読んで編集者の役割というものが初めてよく理解できた私は、想像していたものとだいぶ違うものでしたが、高橋さんのような編集者に巡り合えたら幸せだろうなと思うようになったのです。
高橋さんは新人作家に対して大変厳しいですが、それでも作家を育てていきたいという愛情にあふれているように感じました。高橋さん自身、若い頃から本好きでご自身で小説を書いたこともあるので、作家の気持ちが分かると同時に、良い作品かどうかの判断力も優れているように思われました。
私は自分の作品が未熟なものであることはよく理解していたので、このような厳しい編集者の目から見て、どう評価されるのか是非とも聞いてみたいと思ったのです。寧ろ、このような方からガンガン厳しいことを言ってもらって、作品に磨きがかかるなら、本望だと思いました。
そこでもし、「こんな『額縁小説』書き直せ」と罵倒されたとしても、こちらもひるむことなく「これは厳密な意味で『額縁小説』にはあたらない」と反論し、自分のこだわり、文体や感性、テーマやメッセージ性を訴えて、いくらでも議論したい、そしてそんな激しいぶつかり合いの末に、プロの編集者の助けを借りながら、私が思いもよらなかった作品に仕上がっていくなら、そんなに素晴らしいことはないと思ったのです。
その時の私は、妄想が膨らんで、夢見心地でした。
いよいよ文学賞に応募、そして・・・
文学賞への応募の決心はつきましたが、それでは今度はどの賞に応募するのかという問題で頭を悩ませることになりました。
そもそも新人賞は原稿用紙100枚程度の短編が多いので、900枚の「スピニング・ジョー」は全くの対象外です。それでは長編はどうかというと、最大で原稿用紙600枚のものが二つありますが、一つはミステリー文学の新人賞なので、おのずと選択肢は「松本清張賞」のみに限定されることになります。それでも三分の一の300枚も削る必要があります。
そんなことをするくらいなら、もういっそのこと「スピニング・ジョー」での応募は諦めて、もう一つ別の作品を書こうかとも考えました。
そうなると、純文学かエンタメ小説かの選択から入って、それぞれの「文芸誌」や「小説誌」の傾向を分析して、どの賞に合った作品か考えながら執筆する必要が出てきます。そうやって5年とか10年かけて書き続け、応募しつづければもしかしたら作家デビューできるかもしれません。
対談に参加していた新人作家がたどってきた王道です。
しかしこの時私は、5月の誕生日を迎えて57歳になっていました。普通のサラリーマンならもう定年の年齢です。これから10年もかけるわけにはいかないし、私には行李ひとつ分の書き溜めを積み上げる時間的余裕はないと感じました。
何といっても、それだけ時間を費やしても、作家になれる保証はどこにもないのです。
そこで、ここはきっぱりと割り切ることにしました。
「スピニング・ジョー」は思いつきで書き始めた作品かもしれないけど、折角書き上げたのだから、この作品で勝負をかけよう、そして、もしこの作品で作家デビューできなければ、これ以上時間を無駄にせず、作家になることは潔く諦めよう。
こうやって腹をくくって、ようやく「松本清張賞」に狙いを定める決心がつきました。
この賞は、名前こそ「松本清張」で、以前はミステリー小説と時代小説に限定されていましたが、今では「ジャンルを問わない良質なエンターティンメント長篇小説」全般が対象になっています。「スピニング・ジョー」が果たして、純文学なのか、エンタメ小説なのか、微妙なところはありますが、分量からいって他に選択肢がなかったので仕方ありませんでした。
これまでの受賞者や選考にあたる作家の先生も、私の好きな方ばかりだったので、確かに「良質なエンターティンメント長篇小説」という看板に偽りのない権威ある賞だと思いますが、それだけにこの賞は素人だけでなく、すでに作家デビューを果たしたプロの新人作家も数多く応募してくる、非常にレベルが高い賞です。そういった意味で、本当は避けたかったのですが、何度も言うように、分量からいって他に選択肢がなかったので、仕方ありませんでした。
応募の締め切りは11月だったので、私は時間をかけて削減する作業に取り掛かりました。
どこを削ろうかと、何度も読み返してみたのですが、どのエピソードもいとおしくて、なかなか削減作業ははかどりませんでした。
いざ決心してあるエピソードを削っても、後々話の辻褄が合わなくなって、そこから大幅な修正が生じることもありました。
そんな有様で、削減作業は遅々として進みませんでしたが、そうこうしているうちに、随分先だと思っていた応募の期限が直ぐ目の前に迫ってきたので、いよいよ覚悟を決めて、バッサバッサと「泣いて文章を切る」作業を続けました。それでも10枚単位でしか減らないので、作業は難航しましたが、最後は、なるべく行替えを減らして、文字と文字の間の空欄も極力減らして、ギュウギュウに詰めて行数を減らすという、テクニックに走りました。この「ギュウギュウ詰め」作戦だけで、原稿用紙50枚分は減らしたと思います。しかし文字がギュウギュウに詰まって、だいぶ読みづらい原稿になってしまいました。
こうして、応募期限のギリギリまで作業を続けて、なんとか600枚丁度の原稿を完成させた私は、A4用紙に両面印刷して郵送しました。
原稿を投函してしまうと、後はもうまな板の上の鯉で、結果を待つだけになりました。
この賞は1、000篇近くの作品が応募されていたと記憶しています。気が遠くなるような数ですが、長編をいきなり書く新人は少ないので、他の短編の新人賞に比べると、少ないようでした。それだけ他の新人賞より受賞の確率が高いとも言えますが、それでも1,000篇ですから、確率は1,000分の一です。
この時の私は、いくらなんでも、とても受賞は難しいだろうと思っていましたが、せめて1次審査、できれば2次審査まで通過してほしいと願っていました。
11月の締め切りの後、3月の中間発表で、約50篇の1次審査通過作品とその中のうち約10篇の2次審査通過作品が発表されることになっていました。
そして5月の最終発表で、最終審査を通過した3篇と、その中の受賞作1篇が発表されるのです。
最終審査まで残れば著名な作家先生にも読んでもらえるので、そうなれば望外の歓びだけど、今回は初めてでもあるので、1次審査でも残れば、出版社とのコネクションができるかもしれないし、第二作目を執筆する意欲も湧いてくるかもしれないと考えていました。
何といっても1次審査なら、確率もぐっと上がって20分の一ですから、これなら十分に可能性があるのではないかと思えたのです。
期待を胸に抱きつつ、3月の中間発表の日を指折り数えて待ちました。
11月の応募から、中間発表までの4か月間は、私にとって、とてつもなく長い時間に感じられました。
そして、待ちに待った、中間発表の結果が掲載される「オール讀物」が発売される日が来ました。
私はいつも行く本屋に、開店時間とともに入って行って、真っ先にその月刊誌を買いました。直ぐに店を出ると、道端で賞の結果が掲載されているページを探しました。
胸の鼓動が高鳴って、心臓が口から出そうでした。
賞結果が掲載されているページにたどりついて、舐めるようにそのページを眺め渡しましたが、私の名前はどこにもありませんでした。2次審査は勿論、1次審査も通らなかったのです。
正直を言うと、もしかしたら1次審査くらいは通るのではないかと期待していたので、この時のショックは大きなものでした。
もしかしたら、両面コピーがいけなかったのかもしれないとか、名前を書き忘れたのかもしれないとか、やはり「額縁小説」だから駄目だったのかとか、色々考えました。
一回目の下読みをしたアルバイトの学生と感性が合わなくて運悪く10枚読んだだけで葬り去られたのかもしれないとか、本当に箸にも棒にも掛からぬくらい誰が読んでも駄目だったのだろうかとか、素人が書いて周りの素人が面白いと言っているだけでは結局はプロの評価は得られなかったのだろうか、など一人であれこれ想像を巡らせるばかりで、本当のところ、何が起こったのか、どういう評価だったのか、真相は一切闇の中で、何とも言えぬもどかしい思いだけが残りました。
いずれにせよ、もうこれ以上、小説を書く気は起りませんでした。
作家を目指す夢も遂にここで潰えたことを思い知り、短い間だけでも良い夢を見られたではないかと自分を慰めました。
それでも、その後思い出したように、どこが駄目だったのかちゃんとプロの意見を聞いてみたい、という思いが突如として湧きあがることがあって、その思いはいつまで経っても消えることはありませんでした。
立ち直れないくらいのショックを受けて、これ以上書く気は失せたものの、納得する理由を聞くまでは、自分の旅は終わらないと感じるようになっていました。
(続く)