【恋するリコーダー】本村睦幸さんからリコーダーを教えてもらう (4)
冷蔵庫が奏でるインド音楽
他人の脳にはなれない。なので人が何をどう感じているのか私には皆目わからない。わかるのは自分の脳だけだ。で、私の脳は時々とんでもない誤作動を起こす。
たとえば、クーラーのような家電が発するモーター音。あれを音楽として聞いてしまう。あ、ワルツだ!とか、行進曲だ!と思う。いつもいつもって訳じゃないけれど、時々、そういうことが起きる。冷蔵庫の振動も音楽に聞こえる(ちょっとインド音楽っぽい)。
また、地下鉄のホームなど、音が反響するような場所に立っているとき、人間の話言葉から意味が剥離して、ただの音に聞こえる。音としてはシャラシャラ……みたいな細かい破片がこすれあっているような音に聞こえる。
不快ではない、むしろ心地いいのでそれが起こるとうれしくなる。昔は意図的に言葉から意味を乖離させ音として聞くことができたのだが、最近、やっていないので難しい。ちょっと意識をぼやっとさせるようなコツがあるんだが……。
音がつくる世界観に入る
これらの妙な幻聴は「音」だ。ちょっとしたメロディがあるようなないような……、そういうものは私にとって「音」だ。あらゆる雑音にはちょっとしたメロディのようなものがある……と、私には聞こえる。まずデフォルトですべての音はメロディアスだ。
音楽は違う。音ではない。音楽は音から音へと移行する。この音から音への移行の間になにか不可思議な魅力があるのが音楽なのだ……と、私は感じている。つまり、私にとっての音楽は、音から音への移行の間に立ち現れる情感によって構成された物語だ。
西洋の音階は音から音をはっきりと区切る。そこが魅力だ。モーツアルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」これ聞いているとめっちゃアドレナリンが出る。軽快かつ強いリズムで始まるイントロからなめらかにテンポよくしかも切れ味抜群に展開し、緩急を織り交ぜながら盛り上げていく感じがたまらん。すげー!これ指揮したら楽しいだろうなあ、と思う。かっこ良すぎて、歌謡曲とか聞く気がしなくなる。なんだよこの音階、心の機微を刻んでいるっていうかさ、感情そのものみたいな美しさ、おお、これが感情の色音ってものだなと思う。
アイネ・クライネ・ナハトムジーク」はこんな曲
[https://youtu.be/E\_C4oXDrOQc]
対して東洋の音楽、特にインド音楽は、音階と音階がぬるーーーっとつながっていて、区切りがない分だけ無限のグラデーションが出現する。そのカオスがたまらん。まさに輪廻を思わせる果てのない音のつらなり。ああ、これが東洋だよなあ。ラーガすごい。瞑想的だ。気が遠くなり意識が失せる。
西洋の音楽が自我と意識で形成されているなら、インド音楽は限りなく意識を遠ざけて無意識の海へと引きずられていく感じだ。
ラーガ [https://youtu.be/5cyOvVxrReI]
どちらも好きだ。だからって、私は音楽にさほど興味がない。とりたてて好きな音楽のジャンルもないし、好きな歌手もいないし、コンサートもほとんど行かない。コンサートは、あんまり好きじゃない。
以前に、ウイーンフィルハーモニー楽団が来日して、サントリーホールで演奏会があった。友人が宣伝の仕事をしていてご招待チケットをもらったので、生まれて初めてウイーンフィルの演奏を聴いた。うわー、これはすごい、と思った。演奏の出来とかよくわからないのだけれど、指揮者の世界観に入ることができた。指揮者がどういう世界をつくったのか感じることができた。その世界に入って気持ちよくなった。
演奏が終わったあと、その世界が閉じていくのがわかった。若い東欧出身の指揮者だった。彼の世界が演奏と同時にゆっくり閉じていく。
その余韻を味わっていたのに、いきなり誰かが拍手をして、一斉に大喝采が起きた。ブラボーとか、割れんばかりの歓声だったけれど、指揮者がちょっと戸惑いがっかりしているのが伝わってきた。どのタイミングで拍手しようとか、考えている人がいるんだなと思った。ぶち壊しだよ。拍手が早すぎる。世界がまだ閉じ切っていなかったのにな。
観客が総立ちになって一緒に踊ったりするライブには、一度行ったきり。その熱狂に入れなくてライブにもほとんど行かなくなった。もともとお祭とか苦手だし、人が興奮している場所に入ると居心地が悪い。集団の陶酔でつくり出す雑で激しい感情の音は強すぎて入り込めない。
同じ理由で、スポーツ観戦なども苦手だ。
熱狂的な興奮の場に入ると、鼓膜がうんうん鳴りだして、水の中で圧を感じているような状態になる。音が2重にも3重にも聞こえ、物理的に痛い。
室内楽の静かな空間
友人のマリンバ奏者・通崎睦美さんからコンサートの案内をいただいて、初めて、マリンバとリコーダーの室内楽演奏会に行った。その時のリコーダー奏者が本村睦幸さんだった。マリンバとリコーダーの演奏って、めっちゃ珍しいし、私は通崎さんの美意識がつくり出す場が大好きで、彼女の感性と彼女の厳密かつ月光のように凛と透き通った世界観に触れたかったので、通崎さんさえ見れればいい、ってな気分で出かけて行った。
通崎さんのサイト https://www.tsuuzakimutsumi.com
リコーダー演奏を聴いたのは、この時が初めてだった。かれこれ十五年以上前だ。まさかその本村さんからリコーダーを習うことになるとは夢のような幸運としか言いようがない。
リコーダーは軽快かつ愛らしい楽器だった。シンプルだからこそ音色が奏者の感性をよく表現する恐ろしい楽器だろうとも思った。本村さんのリコーダーは、めっちゃ祝祭的でハッピーだった。こんなにリコーダーを愛していたら、人生楽しいだろうなと嫉みすら感じた。私にそこまで愛するものがあるだろうか? ないない。
そもそも、私は無目的で、無趣味な人間なのだ。何事も広く浅くで、深めない。
人間に深みがないことは60年も生きていれば自分でわかる。
この人生で、自分が無我夢中で打ち込むようなことに出会わなかったな、と思う。
ちょっと淋しいことだが、今生はそういう人生らしい。
その後、何度か(と、言ってもわずか2,3回なのだが)本村さんのリコーダー演奏会に行った。コンサートに行かない私にしては、たぶん人生で最も行ったコンサートは本村さんのリコーダーだ。
室内楽の演奏会は奏者の世界観に会場ごと包まれる。そう、あれは、中世のヴェネチア、いやナポリの音楽だったかな……演目とか覚えないので、正確に伝えられないのだけれど、人間の真善美が大らかに表現されているような、繊細かつ無邪気な中世の音楽にガサついた気持ちが癒えた。
この音楽を作った時代の人たちは正直で愛らしい人たちだったんだろう。本村さんは、きっとそういう中世の人なんだなと思った。