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許す

今日はこれからちょっとだけ怪しいことを書きます。
お正月からずっと、そして特に今日の空は特別な感じがしました。気のせいだと思っても、金色の光があふれていて特別にしか感じないんです。この感じは、昔、メキシコでマジックマッシュルームを食べた時に、汚れた便器が黄金に光り輝き神々しく神聖なものに感じてしまった、あの時の感じと似ています。今日は正気だけれど、どうしてか空が神々しくてたまらない感じなのです。

……で、私はなぜか「どこかで誰かが祈っている、すごく強く祈っている」そんなふうに感じてしまいました。この地上に残っている苦しんで報われずに死んだ人たちの思念のようなものを、祈りで解放している人たちがいるんじゃないか……と。そういえば今日は1月11日で、一の並び。不二の日なんですよね。

ものすごく重くて暗い思念を、誰かが光で解き放ったんじゃないか。そんなことを考えてしまったんです。
まったく、根拠もないんですけど……。でも、そう思いたくなるくらい今日の空の様子が神々しく感じたんです。
あまりにも世界で無慈悲な戦いが続いているから、そう思いたいだけなのかもしれないです。

村上光照禅師が生きていた時、こんなことを言っていました。
「座禅というのは、仏様と同じ姿になること。仏様の姿になって、仏様の心になること。そうすると、その慈悲の光、光明は地底を貫いてブラジルまで届くのね」

うれしそうに語る禅師を見て、私はそれがたとえ話だと思ってふんふんと適当に聞いていたのだけれど、もしかしたら、そういう光は地底深く堆積している戦いで死んだ人たちの屍に付着していた無念を解き放つのかもしれないなあ、と今日、気づいたのです。

あの時、禅師はまるでその光が見えているかのように、まぶしそうに目を細めて満面の笑みで私を見ていて、私はちょっとしどろもどろになり「すごいですねえ」なんて、いい加減な返事をしていたんだけれど、今日は、この世界のどこかで禅師のような人が光を放っているのかもなあ、って素直に思ってしまいました。

自分が一番憎んでいる人を許すことを自分に許しなさい。あなたはもう許しているから、それでいいのだ。なんか、そのようなことも言っていたように思うけれど、禅師の言葉はいつもふわふわしていて、とりとめがないのようなあるような……。うまく書き記せないのです。

私が子どもの頃から一番憎んでいたのは父親だったと思うのだけれど、結局、その父親をいまは一番愛おしく思っているし、大人になってから恨んでいたのはストーカーだったけれど、その人の名前すらうろ覚えになってきているから、もうどうでもよくなってしまったんだろうなあ。

もう一人、やはり亡くなった板橋興宗禅師の言った事も、この頃やっとわかるのです。文通していた元オウム信者で地下鉄サリン事件の実行犯だった林泰男死刑囚から、板橋禅師に質問を預かったことがありました。林さんは「心から反省するというのはどういうことでしょうか?私には何をすれば反省したことになるのかがわかりません」と問いを投げました。それに対して板橋禅師は「反省するというのは事件を忘れてしまうことです」と言ったのです。

私はそれを聞いて、びっくり仰天してしまいました。
「禅師、事件を忘れてしまうことがなぜ反省なのですか? そんなこと世間が許しません」と言うと、禅師はすごく怖い目で私を見て、
「許さないのはあなたでしょう?」と言ったのです。

今日の空は、こういう出来事が次々に思い出されるような空でした。結局のところ、自分を許すということが最も簡単で最も難しい……そして、それぞれが自分を許すということに気づく、そんな日がくれば世界は無限の光に満ちるのだろうな、許すことを許せない。そういう思いがいちばん重たく世界に沈んでいく。
もしかしたら、今日は、自分を許した人がたくさんいたのかもしれない。そんな日だったのかもしれない。

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伝統的東洋医学の知識や、見えない気の世界、また、さまざまな能力者の方がたとの交流から体験してきた、この世界と重なって存在する多元的な時空間についてのお話、鍼灸学校の学生生活を通して感じること、社会問題などを扱っています。また、田口ランディのクリエイティブ・ライティング講座や、イベント、講演会の情報なども掲載しています。現在は学校に行くため執筆は開店休業状態。ぜひ、noteで私の執筆を応援してください。

作家として約20年間、執筆活動を続けた後、60歳で東洋医学を学び始め一昨年鍼灸学校に入学。体験してきた見えない世界と「気」を使う伝統鍼灸が…

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