NETFLIX「浅草キッド」とその時代ー鑑賞後の個人的思索の備忘録だからネタバレかも。
北野武はどこから見ていたかで捉え方の違う多面的な存在だ。
「浅草キッド」を観た。
映像化は水道橋博士が主演したドラマに続き2作目だ。
前評判も良く、あまりにも絶賛されてたので、楽しみすぎてなかなか観るタイミングがつかめずにいた。初見の感動が終わってしまうのが惜しくて手が付けられない、そうなるタイプなのだ。
で、ラジオを聴いていたら、監督の劇団ひとりに感想を求められた高田文夫がうまくはぐらかしていたり、太田光が褒めつつも噛みついていたので、少し安心して観ることにした。
北野武はどこから見ていたかで捉え方の違う多面的な存在だ。
劇団ひとりも自分なりの師弟愛ファンタジーとして仕上げていた。
同時代人と若い世代でも見方が違うだろう。
物語の背景を資料的にダラダラと押さえてみる。
新宿のジャズ喫茶から浅草のストリップ劇場へ。
当時は新宿こそが若者の街だった。
新宿でジャズ喫茶で働くということは、若者文化の最先端にいたいと考えたということだ。
ざっくり言うとジャズは戦中にはじまったバップからクール、ハードバップ、モードというようにモダンな進化を遂げていた。新伝承派の誕生前で、かしこそうな若者がこむずかしく語り合うのがイカしてたわけだ。
その雰囲気に乗り遅れた足立区の青年が選んだのは、戦前のようにオーケストラのシンフォニックなスイングジャズが鳴り響く浅草のストリップ劇場だった。
新しさに乗り遅れて、古き良きものに回帰したところがスタート。
浅草の劇場がすたれていった理由。
戦前からの流れが重要になる。
下町の中でも浅草は商人の町だった。当時は店が住まいで独身の奉公人は住み込みだった。休みの日にはわずかな小遣いをもって見世物や芝居小屋に出かける。近隣の丁稚手代も寄ってくる。家族を持っても遊びのホームグラウンドは変わらない。そして栄えれば人は人を呼ぶ。
浅草は門前町であったから、歌舞伎の小芝居や見世物をかける小屋は古くからあった。
戦前の昭和モダニズムの時代になるとジャズの大流行に乗って、銀座にはカフェ、赤坂溜池にはダンスホール、そして芝居の街浅草ではレビューやオペレッタの音楽劇で客を呼ぶ劇場が大繁盛する。
エノケンロッパの時代である。
そして戦時体制になるころに、スイングジャズにのって絶頂に達する。
戦後、浅草は戦前からの流れで再び芝居小屋が復活する。
しかし東京大空襲で多くの人が中央線沿いに移住し、新宿を拠点に郊外が広がると同時に、新宿にはムーランルージュや帝都座といった新しいタイプの小屋が生まれて、喜劇人たちを呼び寄せた。森繁久彌や由利徹は新宿出身の代表的存在と言える。
また一方で、個人商店の時代から法人へと変わり、劇場の常連客であった丁稚も奉公人も店には住まず、核家族化し通いの勤め人となっていく。
加えて会社員の時代だから、有楽町のようなオフィス街にも劇場が作られた。そこでは当然、都会風が好まれる。
このような変化が進んでいく50年代から60年代にかけて、土着的な興業様式を変えられない浅草は、渥美清や萩本欽一を育てながらも、観客の高齢化とともに衰退していく。
この映画の舞台となる70年代の浅草は、すっかり都市の変化に乗り遅れてしまっていたのだ。
若者の街で行き場を失った北野武が、再生をめざして選んだのが、この時代遅れの老いた街だった。
笑いと軽喜劇とタップダンス
見世物や芝居小屋を中心とした歓楽街であった戦前の浅草に、欧米の文化がなだれ込んできた。
そこで歌と踊りと笑いのレビューである。
笑いを担当したのが喜劇役者たち、コメディアンでボードビリアン。
パッケージ化されたショーでの役割だから、”お笑い”だけをやっていればよいわけではない。そこに登場するのがタップダンスである。
タップダンスは音楽ショーの雰囲気を保ちながら、喜劇役者が場をもたすにはぴったりの芸だ。
本業のダンサーたちがちゃんといるので、ダンスの場面がきちんと用意されて見せ場にするのとは違う。本職並みにうまい喜劇人もいたが、あくまでも役者にとっての余技である。
フレッド・アステアやハリウッドミュージカルが人気の時代で、アメリカのボードビリアンたちの基礎教養とも言われた。
そして日本の喜劇人達もこれを真似た。ショーを見せるエンターテイナーの矜持のようなものだ。
そのような戦前戦中の価値観をもった喜劇人の教えは、戦後もしばらく続いたのだが、「浅草キッド」の時代となるとレビューは遠い昔、もはや喜劇人がタップダンスを必要とする舞台は無くなっていた。
そんな時代のタップダンスなのである。
軽演劇とストリップとコント
戦後に小屋が増え、映画市場が拡大していくのに比べて、レビューや軽喜劇は下火になっていく。
そこに現れたのがストリップショーだった。
さまざまな劇場でも呼び物メニューとして取り入れられはじめ、そのうちに立場が逆転し、ストリップのつなぎとして行われる短いコントが喜劇役者の生き残る場となった。売れた喜劇人たちはそこから映画や商業演劇へと旅立っていく。
70年代中盤になると、浅草喜劇本流の喜劇人といっても、世間的にはストリップの添え物コントをするアヤシイ人たちという見方である。
若者にとって笑える舞台はつか劇団、東京ボードビルショー、そして東京乾電池などの小劇場に移っていく。
落語好きはつねに一定数いたが、漫才を求めて演芸場に行く東京の若者はかなり珍しかった。
ただ小劇場で独学で喜劇に取り組んだインディーズ劇団の若い役者たちには、ストリップコントのコメディアンたちの基礎に注目する風潮もあった。テアトルエコー出身のコント赤信号が渋谷の道頓堀劇場の杉兵介やコント・レオナルドに注目したのがその例ともいえる。
かつての本流で鍛えられて、感嘆すべき地力もあるが、時代とはズレていたのが当時のストリップに残った喜劇人の実相である。
多くが浅草の輝いた時代に学んだ喜劇役者観に自信を持ち、自分たちが正しく、時代や客が間違っていると考えたので、その隔たりが埋まることはなかった。
笑いと喜劇人の転換期だったのである。
映像作品を離れて浅草キッドの物語を再検討してみる。
若き北野武は最先端の若者のたまり場に馴染めず、老いて寂れた浅草に流れ着く。
かつてそこにあった本物の残滓に触れて魅入られる。
しかし、そこで待ち受けていたのは古きものの美しい終焉ではなく、老醜であることに気づく。
モダンジャズを離れ、懐かしいスイングに浸るも、新伝承派にはならず、演芸の笑いの新しい潮流に乗るために漫才でメディアに進出し、激しくロックすることになる。そして笑いの流れを大きく変えてしまう。
北野武の、”笑い”という魅力的な母をめぐる”父殺し/エディプスコンプレックス”の物語ともとれる。
浅草の古き良き喜劇を信じた師にとどめを刺したのは北野武なのだ。
だからこそ哀しみは深く、栄光の寂しさが付きまとう。
なんてね。
劇団ひとりに刺激され、違う解釈をしてみた。