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7話 新しい環境。
もうすぐ、48歳なろうとしている私。
両親が生きた44年という年齢を越えた頃、
私が経験した幼い頃の出来事を文字に残しておきたいと思いました。
ここでは私が歩いてきた道のりを自分の想いものせてお話していきたいと思います。
「はじめに。」
現在は熊本の片田舎で
地元の食材を主に使った彩り豊かなワンプレートランチや
県産のフルーツを盛ったスイーツなどを提供する
古民家カフェを一人で切り盛りしています。
2001年にオープンして昨年20周年を迎えることが出来ました。
「振り返れば」
2001年、27歳だった私は熊本市南区で倉庫物件を改装したお店をオープン。
2階建ての店舗は40席を設け、スタッフも雇い約11年営業していました。
その11年は本当に忙しくさせていただき、たくさんの出会いも実りもあり
そこからの10年先を見据えてもう少しゆっくりとした環境で仕事を続けたいという思いから、現店舗(古民家)への移転を決め、2012年の5月から再開して現在に至ります。
ありがたいことに以前からのお客様や新たな地でのお客様にも恵まれ、自分のペースを保ちつつお仕事をさせてもらっています。
27歳でお店をオープンするまでに至る私は数年前まではそんな勇気がどこにあったのかというくらいたくさんの葛藤の中で生きてきました。
幼い頃の経験が私の礎となり、自分を作り上げて来たことをここに書き記しておきたいと思います。
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第6話の続き。。。。。
小林さん家族が私達を迎え入れてくれる事が決まってから、新しい学校への準備も進み、新たな生活が始まりました。
小林家の一部屋を姉と私がお借りして転校先の学校へ通うことに。
熊本の祖父はそれを見届けから熊本へと戻って行きました。
小林家の次男、ヒデキと同じ小学校、同じクラスとなり、私は嬉しかったのですが、幼馴染とは言え、男の子のヒデキは気恥ずかしかったようです。家に戻ってからはいつもの彼ですが、学校では素っ気なくあまり話しかけてはいけない様子でしたので、私も察して新しいお友達と過ごしていました。それもそうです、血が繋がっている親戚でもなく、赤ちゃんの頃からの遠方に住んでた幼馴染が自分のクラスにいるのですから。
小林家のおじさんもおばさんも2人の息子と変わらず、私たちに接してくれていつかもう少し時間が経って時期が来たら私達を養子に迎えてくれて「小林」になるのかな、なんてそう思うこともありました。
ママ(私達の)が好きだったねと毎日、床の間にコーヒーをお供えしてくれておばさんなりの供養をしてくださっていました。(両親のお骨も位牌も祖父が熊本へ持って帰った為、仏壇はありませんでした。)
数ヶ月経ち、そんな生活に慣れ始めたある日の夜、おばさんがお話があると神妙な面持ちで話し始めました。
内容は事情が変わりやっぱり私たちはこのままここでは暮らせないこと、熊本からおじいちゃんが迎えにきて私たちは熊本の祖父母の元で暮らすようになること、ということでした。
おばさんは泣きながら何度もごめんね、ごめんねと言って泣き悲しむ私達をなだめました。私はイヤだ、イヤだと泣きじゃくりましたが、もうそれは決定事項でどうすることも出来ないんだ、と思いました。
小林家での生活はわずか3ヶ月くらいだったでしょうか。。。
新たな小学校で出来たお友達にも別れを告げて今度は遠く離れた九州・熊本へと転校することになりました。
私たちが磐田の家から連れてきた犬・チロは連れて行けないからと置いていくことになってそれも本当に辛い別れとなりました。
熊本から迎えにきた祖父はやりきれない心境だったに違いありません。私たちとのコミュニケーションもきっと相当不安だったと思います。
その時は5年生になったばかりの10歳の私は自分の気持ちしか考えられず、大人の状況を察する余裕はありませんでした。
浜松を去る日、新幹線のホームには小林のおばさん、お世話になった恩師や磐田の友人が見送りに来てくれました。
新幹線が走り出すと手を振りながらみんなが走り出す、その経験をドラマで見るよりも先に実体験したように思います。
新幹線が走り出し、富士山も見えなくなって静岡を抜けてしまってもずっとずっと泣いていました。しかし自分が大人になってから、終始笑顔だった祖父の気持ちを思うと心が痛くなります。おじいちゃんも辛かったのに自分たちばかり悲しんでてごめんね、と。
遠い遠い道のり、遠い遠い九州。新幹線で博多までそこから特急で熊本へ。熊本から天草へはバスがありますが、70歳を超えていた祖父はしんどかったのか天草まではタクシーで約2時間。やっと着いた天草の家で祖母は待っていました。
8月の蒸し暑い頃に熊本・天草での生活が始まりました。
〜綴るアルバム〜〜〜〜〜
九州の熊本、天草の地へは両親が生きていた頃、2度ほど訪れた事がありました。私が赤ちゃんの頃と両親が亡くなるほんの数年前に里帰りで。
静岡から熊本駅に着き、タクシーで天草まで行く道中、宇土を抜け海沿いを走って行くと少しずつ「天草(あまくさ)」の看板が増えてきて、これから住む天草のことをなにも知らない私は「てんそう?」「てんくさ?」なんて読むんだろうとぐるぐる考えていて、それを聞く元気もなく祖父の家にたどり着きました。
生活して行く中で「天草(あまくさ)」と読むのか・・・と気づくおバカな私でした(笑)