見出し画像

『行きずりの二人』 これ観てみ! 忘れられたマイナー映画たち 第2回

『行きずりの二人』 (1963年、フランス)
 監督:クロード・ルルーシュ
 出演:ギイ・メレ、ジャニーヌ・マニャン、他

いきなりモノクロの古い映画ですみません。これは『男と女』で大ヒットを飛ばす前に、
クロード・ルルーシュ監督が撮ったレア映画

彼は、「忘れられた映画」の帝王と呼びたいくらい正当な評価を得ていない人で、
本作も含めて、いまだにVHSやLDでしか入手できないルルーシュ作品が、膨大に存在します(なにせ多作な人なので)。

『男と女』がカンヌ映画祭でグランプリを取り、フランスのみならず世界中で大ヒットしたものですから、
若くして一躍人気監督となったルルーシュ青年への風当たりは相当きつかったと推測されます。

音楽と映像のコラージュを多用する、
MTV時代を先取りした作風
も、
映画マニアや評論家が批判しやすい格好の材料でした。

現にヌーヴェルバーグの旗手たちは『男と女』に反感を示し、
フランソワ・トリュフォーは「これは映画ではない」、
ジャン=リュック・ゴダールは「人間として最低の野郎」とコメントしたと伝えられます。

もしかすると、これらの発言が日本の雑誌にも載った事がルルーシュの評価を下げた可能性もありますが、
基本的に日本の映画マニアや批評家諸氏も、
映像派の匂いがする監督はちゃんと嫌います。

本作も、ルルーシュらしいトリッキーな遊び心が全面に出た快作
こんなユニークな映画がなぜ全く知られていないのかと、憤りすら感じます。
コラージュ的な手法や、観客をトラップにかける仕掛けはルルーシュの得意とする所です。

ハイウェイを北へ向かって走り続けるシトロエンと、それを運転する男。
カー・ラジオが婦女暴行犯脱走のニュースを伝える中、
彼は一人の女性ヒッチハイカーを乗せます。

この男が脱走犯なのか、
彼女は無事に車を降りられるのか。
観客の不安をよそに、
二人の関係は親密さを増してゆきます。

たった82分の短い映画ですが、
何といっても、ルルーシュ一流の型破りで不真面目な表現が連続するのが見どころ

カー・ラジオの内容を全て映像で見せる辺りはその最たるもので、
脱走犯に関する街頭インタビューはもちろん、
コミック・バンドの歌では珍妙なルックスとパフォーマンスを音楽番組のように描いて笑わせます。

そもそも、キャメラのズームイン、アウトに合わせて音楽のボリュームも増減を繰り返すファースト・シーンから、
普通の劇映画のイディオムで作られてはいません。

ヒッチハイカーの脳内イメージまで視覚化され、
主人公が全裸で運転していたり、
カーチェイスの場面で事故の現場写真がコラージュされたり、
自由奔放な語り口が展開します。
そして、驚きの結末。

こういう、どこかふざけた、やんちゃな態度こそがルルーシュの持ち味であり、
恐らくはゴダールらを怒らせたものでもあるのでしょう。

『男と女』の、
あの可愛らしく小粋なオープニングも、
私は「シャレた仕掛けだなあ」と嬉しくなるのですが、
ゴダールにとっては「テメエ、この野郎!」という事なのかもしれません。

本作にもどこか、「オレはちゃんと撮らねえぜ」という空気が全体に横溢していて、
さも重要そうなやり取りでセリフがオフになり、
コミカルな電子音や音楽に置き換えられたりします。

ノルマンディーの崖の場面でも、
観客のイメージに先回りするかのように、
第二次大戦の戦争の映像を目まぐるしくコラージュ。

こんな不謹慎な映画に(それも大して必要性のない場面に)、
真面目な記録映像を使うなという話ですが、
人生とは面白いもので、
そういう斜に構えた無責任な視点に立ってみて、初めて見えてくる美しさやおかしさ、
愛おしさもあったりするのです。

もっとも、この頃のルルーシュはまだそこまで踏み込みませんが、
早くも数年後にはロマンティックな詩情や人生の機微が作品に投影されはじめ、
後年ともなると、
深い哀しみと滑稽な側面の振り幅を自在なダイナミズムで活写。
余人の追随を許さない、
至芸の域に達しています。

大作『愛と哀しみのボレロ』以降も、
自身が映画の中に登場したり、
過去・現在の自作タイトルをしつこく劇中に出したり、
相変わらず飄々と振る舞っています。

カンヌで15分間のスタンディング・オベーションを巻き起こした傑作『しあわせ』でも、トリッキーな仕掛けは健在。

人生の喜びと悲しみ、
その奥行きと美しさを、
これほど軽妙に、そして情感豊かに描く事ができる人は極めて稀ですから、
せめて日本だけでも、彼の作品群のデジタル化と再評価が進む事を祈ります。

最後までお読み下さり、ありがとうございました。
(見出しの写真はイメージで、映画本編の画像ではありません)

いいなと思ったら応援しよう!