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『ココニイルコト』 隠れた傑作、これいかに? 第15回

『ココニイルコト』  2001年 / 日本
 監督:長澤雅彦 出演:真中瞳、堺雅人、原田夏希、他

ゼロ年代以降、約二十数年間の日本映画で、
『万引き家族』『スパイの妻』『ドライブ・マイ・カー』といった国際的な評価を受けた作品を除いて、
掛け値無しの傑作と太鼓判を押せる映画が何本あったか。

観ていない映画もたくさんあるにせよ、残念ながら今の私には、頭に浮かぶ作品がほとんどありません。

森田芳光も、大林宣彦も、岩井俊二も、三池崇史も、今関あきよしも、
みな私にとっては大好きな映画作家だし、
是枝裕和や黒沢清だって才能豊かな名監督ではありますが、
作品単位でとなると、これという決定打がなかなか挙げられないのも事実です。

そんな中、特に私が重要な傑作だと考えているのが、
長崎俊一監督の『西の魔女が死んだ』と、
紀里谷和明監督の『CASSERN』、
そして本作、長澤雅彦監督の『ココニイルコト』です。

この認識が、多くの評論家や映画ファンの認識とズレている事は重々承知しています。
実際、大手サイトのレビューには、ひどい言説が並んでいます。

ただ、私なら冒頭5分を観ただけで「こりゃダメだ」と思うような映画が高評価だったりもするので、そもそも映画に求める物や観点が違うのでしょう。

長澤監督の美質はたくさんありますが、
まずもって映画を総合芸術と捉え、各部門にクオリティの高い仕事をさせるという、
映画監督に最も必要でありながら、多くの監督が持ち合わせていない資質を備えている点が挙げられます。

特に映像のセンスは傑出していますが、脚本、芝居、音楽、編集、美術、衣裳、小道具に至るまで、その徹底したこだわりと審美眼の確かさは凡百の監督と一線を画します。

それから、陳腐でありきたりな表現を回避する鋭い嗅覚。
素材を丹念に扱い、外面的な効果より質実を取る姿勢。
セリフの少ない場面でも、臆する事なく俳優の内面を探り続ける集中力。
主役と脇役、メインとサブ・キャラクターの間に線を引かない視点。
登場人物に暖かく注がれる、慈愛の眼差し。

時に私は、他の原稿のために長崎俊一監督の映画をたくさん観ていたのですが、
世代も作風も全く違うにも関わらず、
長澤監督とは不思議と共通点が多くて驚きました。

スタッフやキャストもあちこちで微妙に重なり合っていたりしますが、
特に重要なのが、物事を定型やセオリーで描かない強固なスタンスです。

例えば、本作にも長崎監督の『8月のクリスマス』にも、難病物の定番と言えるステレオタイプな場面が一切ありません。

主人公が検査結果を聞いて茫然と街をさまよう場面なんかないし、
「所詮他人には分からないんだ!」と自暴自棄になる場面もない。
クライマックスであるべき死の瞬間は描かれないし、
当人どころか周辺人物に至るまで、涙を流す場面さえないのです。

本作は、大きな話題を呼んだノンフィクション『絶対音感』の著者、最相葉月によるわずか1200字のエッセイを元にした、長澤監督の劇映画デビュー作。

テレビ番組「進ぬ!電波少年」や「ニュース・ステーション」のキャスターとして人気だった真中瞳が映画初主演した事も話題を呼びました。

主人公・志乃は、上司との不倫が原因で東京の広告代理店から大阪支社に左遷される。
コピーライターだった彼女は営業に回され、口の悪い上司に罵倒され、事務の女性社員に目を付けられと、プロット自体はシンプルで、特に目新しいものではありません。

ところがこの映画には、
こういう状況では普通こういう会話をする、こう言われたら大体こう返すという、型に則った予定調和が全くない。
どこかで聞いたようなセリフのやり取りは、一切ありません。

堺雅人が演じる同僚の青年や、志乃に執着する女性事務員との関係も、大方の観客が想像するような方向には発展しなかったりします。
そういう、作り物めいた既視感が全然ない。

周辺人物がみんなアクの強い関西人だからという特有の環境はありますが、志乃自身の言動も全く普通じゃないです。

長澤作品の主人公は大抵そうですが、彼女も意志が強く、独自の行動原理を持っています。
時に失礼だし、周囲から見ればエキセントリックでもあるけれど、その心根はほんのりと優しい。

この役を綱渡りのように繊細なやり方で成立させているのが、真中瞳の、まったく規格外の演技です。

彼女自身もおそらく狙った結果ではないのでしょうし、演技のメソッドから導き出されるような芝居でもないですが、
私は、本作での彼女の演技は、日本映画史の大きな流れの中でも特に重要なものの一つだと思うのです。

ここでの彼女は、当時TV番組で見せていた、関西弁でハイ・テンションにまくしたてるキャラクターではありません。
標準語で、囁くように喋るし、動作もゆったりとしていてあまり覇気がない。

ただ重要なのは、彼女が単にそれだけの芝居をしているわけではない事です。
小声で囁いたからといって、セリフがこんな風に聞こえるわけではない。
また、他の作品で同じような芝居をしているわけでもないです。

表情を抑えて小声でセリフを言うだけの事なら、どんな俳優にもできます。
初めて演技に挑戦する新人でも、指示されればそれくらいの事はできる。
本当に凄いのは、そこから唯一無二のキャラクターを生む事です。

真中瞳はこの役を、(それこそ本来の彼女に近い)大声の関西弁で喋る登場人物に囲まれながら演じています。

大林宣彦の言う、俳優に不自由を課す事で生まれてくる内面の叫びというのでしょうか。

関西弁を奪い、快活さを封じ、豊かな表情を取り上げた後に、その仮面を突き破って主張してくる何か。

黙ってオフィスから出て行こうとする志乃に、「おい、どこ行くねん!」と声を掛ける上司。
ホワイトボードの自分の予定欄に、黙って「気分転換」と書く志乃。
「堂々と書くな」とボヤく上司。

大抵の映画やドラマなら、コミカルにデフォルメした演技でテンポ良くやり取りをするような箇所ですが、
真中瞳は「ご心配なく」と書き足し、
斜め下辺りを伏し目がちに見たまま、口元にわずかな笑みを浮かべるだけです。

ふと空を見上げるとか、
ほんの少し視線を動かすとか、
そこにその人物だけにしかない、特有のニュアンスがにじみ出ること。
真情が込められていること。
そして大事なのが、トーン&マナーが終始一貫して保たれていること。
それを真中瞳はどうやってか、おそろしく高い次元でやってのけている。

志乃という人物は、いつでも無口なわけではありません。
はっきりと自己主張するし、どんな相手にもちゃんと興味を持って接する。
大笑いしている場面もあるし、子供たちと雪原を駆け回る場面もある。

要はそこで、役者の素が出て演技の一貫性が綻んだり、虚構性が崩れてしまったりしない、という事です。

ジェイソン・ライトマン監督の『JUNO/ジュノ』を観た時に痛感しましたが、
人間がみんな違う存在である以上、
キャラクター固有の状況と人物像をきっちり描く事ができれば、優れた人間ドラマはいくらでも作れるはずなのです。
それなのに多くの映画が、類型でキャラクターを造形してしまう。

長澤雅彦は、岩井俊二の初期作品群でプロデューサーを務めた人物で、
逆に長澤監督の連続ドラマ『なぞの転校生』では、岩井俊二がプロデュースと脚本を担当しています。

その岩井俊二がインタビューで語った、
「キャラクターが借り物じゃダメです」というイズムは、長澤作品にも脈々と受け継がれています。

とはいえこれらは全て、本作に限らず長澤作品に共通する美質。
この20年間の日本映画で特に重要なものという話ならば、
さらに『卒業』だって『凪の島』だって本作とセットで挙げたいくらいなのです

長澤作品が映画業界で広く評価されている様子が見えてこない現状には、残念を通り越して、ほとんど憤りすら感じます。

私は、長澤雅彦にしろ今関あきよしにしろ、正当な評価を受けていないと感じている監督については、今後も場所を設けてさらに詳しく取り上げていきたいと思っています。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。(見出しの写真はイメージで、映画本編の画像ではありません)

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