あくまでアマチュア書評集 “ワケあって未購入です” #10 『死国』 坂東眞砂子 (1993年、角川書店)
初めて読む作家なので、図書館で借りてお試し。四国の山奥の村を舞台に、東京に引っ越した主人公の比奈子と、小学生まで仲良しだった莎代里、文也の三角関係を描くお話。この莎代里が中学生の時に亡くなっている事、彼女の母親がお遍路を逆打ち(右ではなく左に回る)して死者を蘇らせる点で、本書はホラーになっている。
三角関係だけなら個人の話(映画版はそう)だが、本書は四国がかつてそうだったという死者の国に戻るという壮大な展開で、日本土着のおどろおどろしいJホラーに見えて、実はスティーヴン・キングばりのど派手なエンタメ・ホラー。都市伝説や怪談的な怖さを求めると肩すかしを食うが、著者のイマジネーションと筆力には凄まじいものがある。
見事だと思うのは、主人公・比奈子のキャラクター造形。村にいた小学生時代は莎代里の影に隠れて全く目立たず、当時の同級生たちはみんな、自分の意志も存在感もまるで無かった彼女を記憶している。しかし中学へ上がる際に転校した東京で、彼女はデザイナーとして成功し、派手なファッションを身に纏って村に帰ってくる。
本人は多少人の視線を意識しながらも、TPOに合わせる気はまるでない。どこに行っても目立つ服装で煙草を吸い、文也と二人きりでも堂々と村を歩き回る。同級生や村の人たちとも、方言が抜けた完全な標準語で話す。つまり、けっこう嫌味な人物であり、実際あちこちで反感を買う。
なので読者は次第に、莎代里の視点で状況を見はじめる。莎代里にしてみれば、ただ自分の後ろに付いてくる子分としか思っていなかった比奈子が、東京に行って人格が変わり、「あなたも何かやれば」みたいな生意気な手紙を送ってくる。その後、まだ中学生で世を去った自分と違い、見違えるような風貌で村に帰ってきて、自分が恋い焦がれ続けた文也を手に入れようとさえしている。
ホラーとしては脅威であるはずの、死者である莎代里の方が、読者としては主人公よりも共感しやすいキャラクターになってくるわけだ。しかし、著者は恐ろしい逆転を仕掛けてくる。莎代里が切実に大人になりたかった気持ちに思い至り、比奈子が何か言いかけた途端、莎代里は憎悪を込めて「同情するな。同情されるのはあんたの方や」と言い放つ。「私は、自分が何を欲しいのかも分からんあんたとは違う」と。
相手を下に見るのはあくまでも私の方だと、パワー・バランスが変わっていない事を告げているわけだが、莎代里は死んだ当時のまま中学生、比奈子は成長した大人なのである。莎代里はそんなギャップも意に介さない。「自分の欲しい物が何かも分からない人間」、比奈子は大人になった今もそうなのだ。東京で恋人とうまく行かず、逃げるように何かを求めて村に帰ってきて、その漠然とした何かもやっぱり手に入らない。
莎代里に同情しはじめていた読者は、ここで痛烈な反撃に遭う。「同情するな」とは、私たちに向けられた言葉でもあるのだ。私も含め多くの読者が、「自分が欲しいものも分かっていない人間」の方だからである(もちろんそうでない方もいますよ)。ここは本質を衝く恐ろしい場面であり、著者も、比奈子がこの言葉で一瞬にして打ちのめされるような心理描写をしている。
もっとも、本当に恐ろしい場面は、むしろ主人公をめぐるドラマ以外の所に、群像劇のように散りばめられている。例えば、昏睡状態で長く入院している莎代里の父と看護師の場面。それから、比奈子の実家近くに住む老婆の、若い頃の不倫のエピソード。ホラーを評するにはベタすぎる言い回しなのであまり使いたくないのだが、本書ではこういう、「人間の恐ろしさ」を描いた場面が一番怖い。
坂東氏の文章力は一級だが、気になった点が二つ。まず比奈子の喋り口調が、「あら、いいわね」「~だわ」と昭和感が強くて古臭いこと。これは93年の本書発表時点でも、決して同時代的なセリフ回しでは無かったのではないか。
それと、本書は多彩な登場人物の視点で物語が立体的に展開するが、古事記に関するうんちくの箇所で地の文が突然、「このあまりに知られた話、今更聞くまでもないと、立腹される読者諸賢もおられると思う。(中略)しばらく、お付き合い頂きたい」と読者に語りかけてくる所。文体も急に老人臭いし、トーン&マナーの観点からも、「何だ?どーした、どーした」となる。しかもこのスタイルは、この一カ所だけなのである。
全体としては卓抜な発想で構成された一大スペクタクルで、文章力も人物の掘り下げ方も賞賛するのに躊躇はない。ではなぜ本棚に並べて愛読書にしないかというと、ひとえに私の、四国という土地に対する偏見ゆえである。本当にただの偏見なので、各県民の方はクレームなどご無用である。
私は、四国にはかつて一度しか行った事がない。大学生時代に運転免許取得の合宿で二週間、徳島に滞在しただけである。その時にも、つまり本書を読むずっと前にも、似たような閉塞感をなんとなく感じたのである。うまく説明できないが、結界の内側に閉じ込められるような感覚である。
もちろん免許取得のために拘束されている上、不愉快な教官たちに悩まされたせいもある。私は都市部の育ちだし、教習所の周囲はコンビニも何もない田舎だったので、閉鎖的な環境に気持ちが滅入ってしまうのはまあある事である。でも本書を読むと、その時の感覚がじわりと蘇ってくる。
要するに、私は漠然とだが、四国がなんとなく怖いのである。いしいしんじの『四とそれ以上の国』も、四国を摩訶不思議な異界のように描写していて、読んでいるとその濃密な世界に捉われてしまうみたいで怖かった。そこに本書だから、「ほら、やっぱりそうじゃないか」という事である。四国の皆様、本当にすみません。でも坂東氏だって、どう読んでも四国という土地をそういうイメージで描写していると思うのだが。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。