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ドラフトは目的ではなく手段であるという話

 毎年の事だが、ドラフト対象選手に対する新聞や雑誌(つまりメディア)の評価と、実際の指名順位が必ずしも一致しない。て言うか◎が付いた選手が指名されない事さえある。

 で、ファンは常に、無意識にメディアの側に立つ。つまりプロのスカウトの判断よりも新聞や雑誌の評価を正とし、実際の結果がそれに近いか否かでドラフトの成否を判断しようとする。これは解説者が賢く見え、監督はバカに見えるという心理と根は同じだと思う。つまり、ファンは当事者に対して実に手軽に上から目線になれるのだ。ファンをそういう心理にさせられるのは、考えてみれば巧みな仕組みではある。

 メディアの選手評に、プロのスカウトによる情報が反映されている事はあるだろうが、最近は素人集団の「評価」さえ本になっていたりする。ヤクルトの元名スカウトと言われた片岡宏雄氏でさえ「選手を判断などできない」と言っているのに大層なものだと思う。

 ファンは、ドラフトが自分の思い通りにならないと不貞腐れる。そもそも確率から言ってドラフトが「思い通り」になる事などまずないので、ドラフトから数日はどこかで誰かが必ず文句を言っている。

 が長く野球ファンをやっていると、自分の希望に適った選手を獲ってくれたのに、結局その選手は芽が出ず、なんて事はザラにあるし、逆に台頭してきた選手が、ドラフトの時はあまり気に留めていなかったなんて事はもっとある。結局ドラフトが自分の思い通りになった喜びなど、獲った選手が駄目そうだった時に終わるし、思い通りにいかなかった落胆も、チームが勝ち出せば終わる。

 何度もそんな経験をしていながら、ファンはドラフトが手段ではなく目的になってしまっている事に気付けない。

 もっとも「ドラフトに夢を見たい」「ドラフトで盛り上がりたい」という人にはその自覚があるのかもしれない。彼らは自分の贔屓チームが、その年一番の目玉と言われる選手を獲得し、注目される事で恍惚感を得たいのだ。その選手がモノになるかどうかは、きっと別の問題なのだろう。

 しかし社会的な注目を浴びるには、例えば90年代以降のドラフトで言うと、野茂、松坂、ハンカチ王子、藤浪、清宮並みのネームバリューがなければならない。つまり名前で球場を満員にできるほどの選手だ。そんな選手がそんなに頻繁に出現するわけではない。

 選手の素質とか実力という意味ではシーズンに入ってみないとわからないが、彼らのような、つまり野球ファン以外の関心を引き付けるほどのネームバリューがないという意味では2、3球団競合クラスの選手でもあまり変わらない。

 自分を戒める意味でも、最近はドラフトが自分の意に沿わなかった時の喪失感は引きずらない事にし、昔よりは獲得した全選手の情報に詳しくなろうと努めている。どんな活躍をしてたのか、そんな特長があるのか、また人となりなど。

 それでも、どうしても自分が望まない選手を指名する事が許せないなら、球団に抗議したりするのは別に悪い事ではないと思う(仕方によっては威力業務妨害になる可能性はあるが)。しかし当事者にしてみればまだ何もしないうちからそんな事をされるのは心外だろう。そうした声が、球団や選手本人の「下馬評を覆してやる」というモチベーションになる、つまり良い方向に影響すれば意味はあると思うが。

 自分が恍惚感を得たいだけなのか、チームの事を思っているのか。ドラフトはそれを確かめる行事とも思える。

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