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非野球もの/『ラーメン赤猫』を全話観た感想
率直に言って「完成度の高い作品」だと思った。どういう事かと言うと、作品が骨子としている部分と、それとは直接関係のない「属性」がしっかりとかみ合って「美味しい一杯」に仕上がっている、という事なのだが、抽象的な言い方で恐縮。以下もう少し具体的に。
作品の骨子(つまり主題)と直接関係のない「属性」を2つ取り出してみると、
1.ラーメンものである
2.猫が言葉をしゃべる
がある。
1. に関しては、観た後にラーメンを食べたくなるかどうか、が結構大事で、私は普通に食べたくなった。それが作品の出来と関係があるのかというと、不思議とあるのである。「ラーメンもの」の秀作とはそういうもので、例えば伊丹十三監督の映画『タンポポ』は参考になると思う。
単に「良かった」という事を主張するだけならこれで十分な気がするが、本当に言いたい事は2. について。
本作は、ブラック企業、迷惑ユーチューバー、虚業家等社会の負の断片を、ラーメン屋という小さな舞台から俯瞰するという秀逸な舞台設定の元、仕事を通じて主に人が成長する様を描く、普通に人間だけで成り立つ人間ドラマである。しかし本当に人間だけでそれをやると絵面が地味すぎるのか、猫がラーメン屋を営み、人間を雇っている。
動物が言葉をしゃべり、人と普通に絡む漫画やアニメというと、これまで世界中で無数に作られている。しかし多くは「動物と話ができたらいいな」という幼くも素朴な欲求が元であり、作品の本質にはあまり影響してこなかった。
動物が人の言葉をしゃべる事が単なる「素朴な欲求」以上の意味を持った漫画(含アニメ)というと、他には『じゃりン子チエ』が思い浮かぶ。
「チエ」に登場する猫の小鉄たちは、人間の言葉を解するが人間には猫の言葉はわからない。そのせいか猫たちは人間との決定的な壁を感じており、猫たちのドラマと人間たちのドラマが決して交わる事はない。つまりお互いは普段は干渉しないのだが、猫たちは時に人間よりも人間臭く、人間たちが見せようとしない本音を代弁する事がある。
それに対して本作の猫たちは人間と会話し、同じ仕事をし、時間と空間を共有している。なら全然違うじゃないかと思われそうだが、両作品に共通しているのは、猫が人間(弱者)のメタファーである、という点だと思う。ここで言う「弱者」とは、障がい者とか高齢者とか子供とか、制度で守られるべき厳密な弱者ではなく、庶民・普通の人間という広義の「弱者」の事である。
象徴的なのが「多くの猫は言葉など離さないまま一生を終えるが、たまに言葉を話し、人間の仕事をしようとする猫がいる」という設定。これは「多くの人は天職などに出会う事無く一生を終えるが、自分が本当にやりたい事を見つけるためにもがき続ける者もいる」と、人の生き方にそのまま読み替える事ができる。
11話にはそれを具現化したシーンがある。ラーメン赤猫の店主である「文蔵」と経営者である「佐々木」が行き倒れそうな子猫だった頃、ラーメン屋のオヤジに拾われる。オヤジは自分では猫を飼えないからと、裕福な佐々木さんに2匹を預ける。「佐々木」はそのまま佐々木さんの家に馴染み、後に経営を学ぶが、文蔵は脱走し、オヤジの元に戻ってきてしまう。
オヤジの店に居ついた文蔵がある日「いらっしゃいやせ」としゃべりはじめる。驚くオヤジ。「いっしょにラーメン屋やるか?」と。
一匹(一人)の猫(人間)が自我に目覚め、己の人生を生きる事を高らかに宣言した、感動的なシーンである。猫と人間の間に厳然と壁がある世界で、猫が人の生き様を体現しようとする『じゃりン子チエ』の世界とはまた違う、よりストレートなメタファーであると思う。
そんな文蔵たちがオヤジから引き継いだ店に、ブラック企業で疲弊し、大きな挫折を経験した本作のヒロイン、社珠子がやってくる。面接で「猫より犬派」と言った珠子は即採用。あまり猫好きだと仕事にならないからだという。こんなところに、根はリアルな社会派ドラマであるという一面も見れる。
猫たちの扱いに戸惑いながらも誠実に仕事をこなし、信頼を勝ち得、自信を取り戻していく珠子。本作はそんな珠子の成長譚であり、お仕事ドラマであり、猫が演じる人間ドラマであり、弱い者たちが集まり、寄り添いながらそれぞれの人生を切り拓こうとする、愛すべき秀作である。