”繊細さ”との付き合い方
こんにちは、ranaです。
今日は、”繊細さ”に対する私なりの考えを言葉にしてみようと思います。
昨今「HSP」という言葉が広く知られるようになりました。
Highly Sensitive Personの略称で、簡単に言うと様々な刺激を繊細に感じすぎてしまう性質の人を指した言葉です。
5人に1人くらいの割合で世界中に存在するらしく、病気というわけではなくそういう気質なのだそうです。
恐らく私はその気質を持っているのでしょう。振り返ると思い当たる節がたくさんあるからです。
例えば、中学生のころ。
「連帯責任」ということでクラス全体が担任に怒られた時がありました。
先生は誰のせいという話をしていたのではなく、心構えについて指導していたと思うのですが、なぜか自分だけが怒られているように感じてしまって憂鬱になったり。
まだ平成初期の頃だったので、先生が指導の上で生徒に手をあげた時は、自分が直接受けたわけではないのにショックすぎて学校行くのが嫌になったりしていました。
他にも、ヤンチャな同級生が授業中にスイッチが入ってしまい、学校中のガラスを割りながら徘徊した時には、全く関係ないのに過呼吸になったり。
この時よく覚えているのは、彼のことが怖くてパニックになったのではなく、どちらかというと彼の怒りや悲しみの混ざった強い感情が自分の中に流れ込んできた感覚でした。(彼の置かれていた複雑な家庭環境を知っていたのもあるかもしれません)
あとは本音を言おうとすると勝手に涙が出てきます。
自分の心に近い物事を表現しようとすると、感情が簡単に動いてしまうようなのです。
私は音楽をやっているので、そういった感性が助けになることも大いになるのですが、周りの環境が気になって緊張しやすいのも事実。
特に音大時代は、先生のその時々のテンションを感じ取りすぎてしまって大変でした。
執筆の仕事をしているときも、編集の方が遠隔で進捗確認していると筆が遅くなります。なので、編集さんが見ていない隙に一気に書き上げないといけません。
この”繊細さ”とは、上手な付き合い方を習得すれば大きな武器になるのでしょうが、そこに至るまでの道のりが難しすぎるというのが率直な気持ちです。
だから、簡単に言葉にすると”生きづらい”と感じるのかもしれません。
かと言って人に流されるようなタイプでもないですし、普段は感情の振れ幅を抑えるためにダムのように自分を守るようにしています。
もちろん実生活において自分は「HSP」だと思うみたいなことも他人には言いません。
出来る限り自分の範囲内でコントロールしたいですし、それを伝えたところで「だから?」と思う人も多いと思うのです。
この気質とのはっきりとした付き合い方が分かったとはまだまだ言い切れませんが、とりあえず私の性格や考え方、どんな時に負のループに落ちやすいかなどを踏まえたところ、周りと比べてどうかではなく、とにかく自分自身に集中して納得できる方向性を導き出すことを心掛けるようになりました。
それが「考えすぎだよ」とか「真面目だねえ」と言われてもいいのです。
考えすぎたり感じすぎて悩むなら、一度とことん考え抜いちゃえばいいと思うのです。
それが唯一無二の価値観として、私のオリジナリティに繋がると信じています。
ただ、時には全部手放す瞬間も必要だなと実感しています。
考え抜いて一息ついてまた考えて、時には0にしてまた気が向いたら考える。そんなことの繰り返しばっかりしてます。
数十年生きてみて気づいたのは、この循環を意識的にやってあげないと無意識にストレスを溜め込みすぎるということでした。
そこに気づくために、自分は「HSP」なのかもしれないと思うのは、決して悪いことではないなと感じます。
この性質を自覚してから客観的な目線で自分を眺められる時間も増えましたし、たまに破裂しそうな風船をしぼませてあげるみたいなモーションも必要だと思うのです。
そのタイミングに自分で気づけたら、今よりはいくらか楽になるんじゃないかなというのが私の考えです。
自分は特別でもなければ天才でもありません。
でも、自分の特質や性格を無視しながら”努力・継続”だけが突っ走っていくとすぐ苦しくなると思うのです。
周りの刺激に繊細な人は、意外と自分に鈍感な人が多い。
そこに気づけたら、少しだけ自分を労われるようになるのではないでしょうか。
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