デザインの勉強の話⑤(とはいえ余白の話)
昨日、今日とお肉をたくさん食べている。ステーキとジンギスカン、ヒレ肉のカツ丼とか盛り盛りのチャーシュー。今日はお祭りの出店でそれを食べた。
たくさんの人がいた。お祭りなのだから、とは思うんだけど、この街にこんなにも人がいたんだ、と新鮮に驚き、それから、人が多い場所が好きだと改めて思った。
私は、私のことを知らない大勢の人が行き交う場所が昔から好きだった。存在していないみたいな顔で柱にもたれて、人を見ているのが癒された。
私はどこにもいなくてもいい、と思うとほっとする。私は傍観者でいい、という安心感?どちらにせよ、私は"どこにもいなくていい"と感じられて、なおかつ人のたくさんいるのを眺めていられる場所、に自分の居場所を感じるのだ。
そういう安心感を感じるのが、まず、エドワード・ホッパーとミヒャエル・ゾーヴァの絵。
ホッパーやゾーヴァの絵には、静止の中に生活がある。
何でもない人々(や動物)の、なんでもない生活の、なんでもない"或る日"を切り取った絵だ。人や動物だけではなく建物も、自然も、じっと沈黙しているようなのに、私はそれが「生きている(生活の中に組み込まれている)」ことを感じる。
私はそれを好きなだけ眺めていられる。もちろん、絵の彼らは私のことなんて認識してない。
そのことに、ほっとする。
とくに、それぞれの絵の余白には、いっそ迫る勢いで安らぎを感じる。
余白が多い絵が好きだ。
そして、余白が多い映画も好き。
ロイ・アンダーソン監督作品は、「余白の多い」映画だと思う。
カメラワークにめちゃくちゃこだわっているので、どの部分をワンカットしても芸術的で、もちろんそれをじっくり楽しむことができるし、セリフ回しも独特でユーモラスだ。
人々の生活、街の動き、を長回しで撮影し、セリフも決して多くなく、私は脳のどこも動いている気のしないまま、映画をただ眺めることができる。
私にとってはもはや一種の瞑想である。早回しで映画を見る層には絶対に見てほしくない。あの長回し、あのセリフの冗長さ、その余白にこそ、全てがあるから。
(ちなみに、ロイ・アンダーソン監督はエドワード・ホッパーの影響を受けている。なるほどね)
写真も最近は(?)余白の多いものが目につく。嬉しい。これは昔からなのかもしれないけど、私はあまり写真を鑑賞することがなかったのでわからない。
この方の写真がとても好き。
色々な国の街角の、余白の集成。
……と、ここまでで自分がかなり余白を好きであることを再確認した。
ということは、もちろん今のデザイン業界の流行り(?)である「余白のあるデザイン」、めっちゃくちゃ好きである。
私はまだデザインの歴史やなんかは勉強してないのだけど、
今の余白のあるデザイン、一過性の流行りじゃないといいなあ、と思うのです。
人生にも余白がたくさん必要だ。
と言うより、たぶん、人生に余白をたくさん作るための、仕事だったり趣味だったりするのだ。けっきょく、人生でも一番だいじなのは、よはくなのだ。
(と、私は信じている。)