河童の影
タイトルの写真は、女河童の「ねねこ(禰々子)」である。これは利根町の民俗歴史資料館に飾ってあった。近くの大学生たちが作ったそうだ。参考にしたのは、江戸時代末期の地誌家である赤松宗旦の『利根川図志』である。赤松宗旦は、柳田國男が少年期をおくったのと同じ茨城県利根町布川の出身で、彼の『利根川図志』は利根川流域の民俗を知るのには欠かせない書物である。
茨城県南部には、利根川をはじめ多くの河川と湖沼があり、そのせいか水と関連が深い河童の伝説が多くある。
昨日訪れた小美玉市の「手接神社(てつぎじんじゃ)」もそうだ。ここは日本で唯一の河童を祀った神社である。由緒によると、昔、芹沢家の殿様が愛馬で土手を歩いていると、急に馬が動かなくなり、見ると河童が馬の尻尾を引っ張っていた。怒った殿様は河童の手を切り落として家に持ち帰った。その夜、殿様の枕元に童子が現れ、悪戯を詫て、手が無いと老いた母を養っていけないから、どうか手を返して欲しいと懇願したそうだ。返してくれたら、お礼に毎日魚と祖先伝来の「続断癒創」の秘薬の作り方を教えると言った。そこで、哀れに思った殿様は河童に手を返した。それから数年後、河童の死骸が近くの川で見つかった。深く憐れに思った殿様は、川辺に祠を建てた。これが「手接神社」の起源である。時は、文明13年(1481)のこと。以来、手の病、怪我、手の不具合などの人々が多く参詣するようになった。僕が、訪れている間にも何組かの参拝者があった。
この芹沢家の子孫は、現在でも近くの町で医院を営んでおり、最近まで「秘伝の薬」を配布していた。
現代の私たちには、河童というと愛嬌のある妖怪、かわいい悪戯者というイメージがあるが、これは小川芋銭や清水崑・小島功の漫画、絵本、イラスト、アニメなどの影響だろうと思う。これは子供向けのイメージである。
しかし、僕はどうしても河童というと、「ある影」がつきまとわっていて、単純に明るく楽しめないのである。「ある影」というのは、もしかしたら、河童というのは人間であり、昔の人の差別意識が作り出した「妖怪」なのではないだろうかと思うからだ。階級社会の外側に置かれ、貧しい生活を強いられていた人々が河童の原型であり、それは汚くて貧相であったのに違いない。時には悪さもしただろう。住む場所も河原などに限られ、時として河川での土木作業などに強制的に従事させられ、消耗品として扱われていた人々の存在である。彼らと河童のイメージが、どうしても重なってしまうのだ。
今日は、「敬老の日」だそうだが、朝から重苦しい天気になった。