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足腰を鍛えるために古屋敷へ

今年の夏は、あまりの暑さに屋内ばかりにいたので足腰が弱ってしまったような気がする。そこで、どこかに行って、無性に歩きたくなった。ただ歩くだけではつまらない。何かを見学したい。

そこで、霞ケ浦方面に向かったが、まず途中の旧玉造町で『大塲家郷士屋敷』を見学した。大塲家は代々、水戸藩の大山守を務め、20数ヶ村の藩有林を管理し、各村の庄屋の上に立って、勧農、年貢の徴収、訴訟、地域の治安維持など、水戸藩の出先機関のような役割を担っていた。また、水戸藩主や幕府の領内視察の際の宿泊地でもあった。
この屋敷の建設時期は寛文元年(1661)から延宝4年(1676)であるが、その後も増改築を繰り返し複雑な構造になっている。

写真左の表門は、藩主などの来訪の時と元旦以外は開けないことから「あかずの門」と言われた。
その先に、身分の高い者だけを迎入れる式台と玄関の間がある。
左白壁の奥は表座敷。右側は藩政事務で訪問者と面談する会所がある

僕が気に入ったのは、「表座敷」と「庭」である。それもそのはず、ここは徳川光圀(水戸黄門)が度々訪れて、宿泊して庭を眺めていた部屋である。僕が、黄門と同じように、「ここでお茶を飲みながら庭を愛でたい」と言ったら、案内の女性から「メッソウモナイ!」と返ってきた。聞くところによると、この部屋には、大塲家の者といえどもみだりに足を踏み入れることが出来なかったそうだ。

この縁側でお茶を飲みたかった
元禄12年(1699)に光圀が井上玄洞に作らせた庭

屋敷内をウロウロしても、たいした運動にならない。そこで背後の山に室町時代中期に築かれた山城・玉造城趾を訪ねることにした。しかし、それらしい場所がわからない。やっと、現地の人に聞いて辿り着いた。どうも、この神社の周辺が城跡らしい。よく見れば、背後に土塁らしいものがある。大塲家はこの山城の下で城を背にしていることから、祖先は、おそらく玉造城に関係した者なのだろう。430年も昔の話だ。

神社の後ろは土塁

いろいろ見たり聞いたり訪ねたりしたが、歩数計はたったの3千2百歩だけだった。足腰を鍛える道のりは遠い。

柘榴と通用門


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