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「たのしみは・・・・」
早朝、窓のカーテンがぼんやりと明るくなってきた。庭から、小鳥の鳴き声が聞こえる。メジロだろうか、ヤマガラだろうか。シジュウカラも一緒らしい。こんな時、橘曙覧の「たのしみは 常に見なれぬ 鳥の来て 軒遠からぬ 樹に鳴きしとき」という歌を思い出す。こんなのもある。「たのしみは 朝おきいでて 昨日まで 無かりし花の 咲ける見る時」。
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橘曙覧 (たちばなのあけみ 1812-68) は、幕末の国学者・歌人である。清貧な暮らしの中から、生活・自然・社会を自由奔放に詠んだ。正岡子規は、彼を「歌想豊富なるは単調なる万葉の及ぶ所にあらず」、「趣味を自然に求め、手段を写実にとりし歌、前に万葉あり、後に曙覧あるのみ」と極めて高く評価した。橘曙覧は、まだ旧くさい表現や思想が残っているものの、日常語を使って日常をありのままに謳うなどして、明治の和歌革新運動の先駆者と言われている。中でも、『独楽吟(どくらくぎん)』は、「たのしみは・・・」から始まり、「・・・とき」で終わる52首の斬新で独創的な形式の和歌である。平易な日常の言葉を用いて生活の中の「小さな楽しみ」を詠った歌は、わかりやすくて現代の私たちにも共感できるものが多い。彼の人柄や志向を率直に表しており、読んでいて思わず微笑む。
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さらに、『独楽吟』の中からいくつか挙げてみる。
「たのしみは 艸(くさ)のいほりの 筵(むしろ)敷き ひとりこころを 静めるとき」、「たのしみは 空(そら)暖かに うち晴れし 春秋の日に 出でありく時」、「たのしみは 心をおかぬ 友どちと 笑ひかたりて 腹をよるとき」。こんなのもある。「たのしみは 妻子むつまじく うちつどひ 頭(かしら)ならべて 物をくふ時」・・・・・。
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米櫃の米の量を気にしたり、思わぬ収入を喜んだりと、曙覧は決して裕福では無かった。しかし、国学者・歌人としての矜持は徹底していて、福井藩主の松平春嶽から禄を与えるから城中で文学を講義して欲しいと言われても固辞している。三人の子供にも「うそいうな、ものほしがるな、からだだわるな(だらけるなの意)」の遺訓を残している。
しかし、彼の歌を読んでいると、つくづく「幸せな」人生を送った人に違いないと思う。身の回りの日常生活や自然の変化のごく些細な事柄に眼差しを向けて喜びを見出している。また一方、幕末の動乱の時勢にも目を向けて天下国家を憂いている。この辺に、私たちの生活を豊かにして、人生に「幸せ」をもたらす何かヒントがあるように思える。
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「たのしみは そぞろ読みゆく 書の中に 我とひとしき 人をみし時」
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