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気配の輪郭 GOLEM ph2鑑賞して

 2024年2月18日(日)、代々木公園近くのギャラリーCONTRASTで開催されていたGOLEMph2に足を運んだ。

 当企画の一員でもあり、リーダーと思われる石野平四郎さんとは、数年前に一度だけお会いしたことがある。
 その時に拝見した造形物があまりにも印象的だった。
 否定しようもなく、周囲の作品の中で抜きんでており、ひときわ輝いていたのだ。それは綺麗とか素晴らしいなどといった甘いものではない。また、他の作品に比べて飛び抜けているだけではなく、空間そのものからこちら側に、ぬわりと飛び出してくる迫力があった。時空からも飛び抜けていたのだ。異形に見えてそうではない。物質的な実体としては、これまでに全く目にしたことのないものだったが、実は心の奥底で知っているようなもの、魔力を持って身近に存在し、ふとしたことで姿を現して接近してくるかもしれないもの、子供の頃からなにか得も言われぬ畏れを抱いているものだ。

 その石野平四郎さんのお名前をXで発見し、おや、あの時の——と思って凝視すると、仲間と共に展示会をされることがわかった。あの頃からどう変化されたのだろうと想像し、これは見に行かねばと楽しみにしていた。

 ギャラリーに足を踏み入れた途端、街の空気からは切り離されて、造形物の存在が作り出している空気感に包まれる。鑑賞などという生易しいものではない。作品が塗り替えてしまっている時空間の中に足を踏み入れていくのだ。
 ――ああ、やっぱり、いい!
 一階に展示されていた石野さんの作品を観た瞬間に、心は晴れやかになった。
 ――全く妥協していない!
 私は嬉々となった。最初に独自性の強いものを発表した人が、徐々に迎合的になっていくのはよくあることなのだが(自戒も込めて)、石野さんの作品には全くそのような迎合の表情はどこにもなかった。しかし。前回の作品にあったおどろおどろしさはなかった。以前と同じように、とんでもない迫力と尋常じゃない事件が存在していたが、どろどろしたものは削ぎ落とされ(それは今回の作品だからこその表現だったのかもしれないが)、潔い竜巻のごとくそこにあった。迎合に向かわず、洗練に向かわれたのか!

 二階と地下には他のお仲間の作品が展示され、全て観て回りながら、これも凄い、これもいい、ああ、これはレベルが高すぎる、と、歩を進めるごとに興奮がどんどん高まっていくのを抑えられなかった。大袈裟なようだが、本当にそうだった。全員の作品の質的レベルが揃っていた。

 パンフレットの写真も素晴らしく、私は記念に一冊買い求め、石野さんの執筆された文を読み、なるほど、そういったお気持ちもあったのかと、そこで初めて「彫刻」について考えた。
 彫刻とはなにか。素人なら、ロダンのあれ、とか、円空のあれ、などと答えるのではないか。私もその程度の認識しかなかった。彫り物は全て彫刻だろうと考えているのだ。彫塑が彫刻に入るのかはよくわからない。
 いずれにしても、GOLEM展で投げかけられている問いは、「これは彫刻ではないのか? 彫刻だろう。彫刻とは何か? フィギュアとは何が違うのか」といった辺りでもあるようだった。おそらく、「本物の身体などの物質をそっくりに表現した立体作品こそは王道の彫刻だ」との主張がどこかにあるのだろう。どんなジャンルにも「これが王道」の主張は存在するものだ。
 そういった、王道の彫刻とはなにか、などの文献を読んでみたいが、とりあえずここでは、私の考える彫刻とはなにかについて、石野さんへの応答として書いておきたいと思う。

 私の考える彫刻とは、既に潜んでいる何かを彫り出したものである。そして、自分で考えて創り出したものは彫塑である、と考えている。

 この分類方法で考えると、厳密には、GOLEM展の中にある作品の全てが彫刻ではないのかもしれない。後者の彫塑の場合もあるのかもしれない。しかし、ひとまず石野さんの作品は、私自身は彫刻だと思っている。
 石野さんの作品は、闇の中に潜んでいる具象を彫り出したもの、ではないか。通常の人間の肉眼では見えないが、彫刻家の眼で見た時に浮かび上がってくるものだ。それは輪郭を持つ気配の形と言ってもいいかもしれない。おそらく静止したものではないだろう。重なり合い、揺らめき、常に形を変え、息をひそめ、こちらを伺ってもいる。概念的なもの、たとえば怒りや愛などの抽象でもない。時空間の中に実際に存在しているが固形化していない、不可視の物体の具象を捕まえて、輪郭の外側を剥ぎ取り、形を浮き彫りにしたものではないか。なので、製作方法がどうであったとしても、私としては彫刻に分類されるものだ。具象を具体化したものだ。

 ちなみに、この分類では、物質的な肉体そっくりに創った作品は何と言えるだろうか。それはひとつずつの作品によると思う。
 どこかに目に見える形で存在しているものを、新たに別の素材で模倣して象った作品と、この時空間に不可視の状態で存在しているものを彫り出し、何らかの素材を使って表現したものは、たとえ結果が同じもので何かが違う。前者は肉体の記録であり、後者は抽象、あるいは具象の具体化と言える。私固有の分類では、後者を彫刻としている。

 たとえば、蔦本大樹さんの作品『地層の古龍像』を観た時、私は鳥が好きなので、なんとなくカラスに見えた。しかしあの立派な足は爬虫類のようでもある。実際、カラスは鳥だが、他の鳥とは違って、あのような生々しい肉食系の獰猛な印象を私に与えるし、ボディに描かれた文様も、カラスのプライド高い性質や人間と神の間を仲介するための精神的甲冑の印象を良く表していると思った。肉眼で見える物質次元と、心眼でしか見えない非固形的な不可視の次元が重なり合っている。つまり肉眼と心眼の両方で観た瞬間(視覚)を空間から彫り出したものと思えるので、私の中では彫刻に分類される。

 ちなみに、ジャコメッティの彫刻は、モデルを長時間拘束して、モデルをじろじろ見ながら創ったものだと言われるが、あれが肉体そのものの模倣だとは誰も思わないだろう。
 ジャコメッティの作品も、肉体を見た時の、作者の視覚を具体化したものだと私は考えている。創っている時、モデルをglance(ちらっと見る)し、すぐに作品の方に視線は移動する。人間の残像は細く影のように脳に残る。それを彫り出す。肉体のミメーシスではないということだ。

 言い換えると、私は「時空間に残像する輪郭のある気配の形をなんらかの素材を使って彫り出すこと」が彫刻だと考えている。
 もちろん、これは私の主観的な分類定義だ。しかし、それほど間違っているわけでもないだろう。要は、みんなそれぞれ、主観的な分類定義を心の中に携えていて、これはあれではない、あれがこれだ、と言うのだが、それほど気にする必要はない。(あなたの分類定義の中ではそうなのですね)と心の中で思ってあげればいいだけなのだ。そもそも、あなたこそが王道だと言われたいわけでもないだろう。

 いずれにしても、今回のGOLEMph2は、美術的にも哲学的にも見どころのある、非常に充実した展示でした。じっくりと拝見させて頂き、大変刺激的で充足感のある時間を過ごさせて頂きました。今後の活躍も楽しみにしています。

 米田素子

了。


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