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解読 ボウヤ書店の使命 ㉙-7

長編小説『無人島の二人称』の読み直し続き。

《第五章

 激しく降った雨は、正午を過ぎた頃から勢いを弱めていった。すっかり止んだのかと思うほどに陽が射したので、太一は気晴らしに店の外に出てみたが、細い雨がちぎられたように空から舞っていた。電線に溜まっていた雨粒が風に吹かれて落ちているだけかと思ったが、わずかに残った薄い雨雲から名残の雨が降っているらしい。見上げると、斜めから指す太陽光線を拾ってはちらちらと光っているのだった。
 太一は折り畳み傘を取りに戻り、それを差して歩き始めた。散歩でもあるが、支払などの用事もある。
 雨がところどころ光るのを見て、恵三から託された山岸めぐみの手紙に書いてあった紫色のテントウムシのことを考える。この雨のように瞬いたのだろうか。紫の幻想的な虫は、ある日、洗濯物にくっついて部屋の中に侵入したという。夫である山岸にそのことをめぐみが訴えても、山岸には決して見えないのだった。見えるはずだと何度も詰め寄られた山岸は苛立って、妻であるめぐみについ手を上げてしまった。それが原因で、山岸めぐみは恵三の喫茶店へと向かい、殴られた為に流れ出た血が付着した衣類を着替えさせて貰った。そういう場合の相談相手として、めぐみがどうして恵三を選んだのかは今のところ不明だけれど、恋愛感情ではないにしても信頼という好意を抱いていたことは確かだろう。誰にも明かせない悩みを打ち明けようとして恵三の店に行った。
 めぐみの手紙が全くの妄想ではなく、本当に起きたことを書いているのかどうかはわからない。本当に起きたこと? もちろん、そもそも、山岸めぐみにしか見えない紫色のテントウムシであるならば、一般的な考え方からするとそれが事実であるわけはないだろう。事実としては幻であったとしても、少なくとも山岸めぐみにとっての真実なのか。彼女自身には視覚化された上で、そういう虫がいると書いているのかどうか。彼女自身の中だけでも事実であるのだろうという確信をすぐには持てず、もっと意図的に付かれた嘘なのかもしれないと考えてみる。
 なんとなく、そう思わせるような文体の手紙でもあった。悩んでいる人間が書いたわりには、さらりとしている。それほど親しくもない知り合いに充てた手紙にしては、文体が流暢で馴れ馴れしく、書いている自分に酔っている気配があると思った。もちろん、ラブレターのようなものであれば少なからずそうなってしまうのだろうけれど、めぐみは夫の友人である恵三に充てて書いているのだ。ラブレターではないだろう。最初の辺りに「恵三を苦しめるような恋愛感情で書いているわけではない」と自身で断り書きもしている。
 それにしても。山岸めぐみの書いたあのブルーブラックインクの文字だ。白い和紙に綴られた文字はどこにも角のない、草書体の達筆だった。印刷物ばかりの世の中においては珍しい書面だといえる。アート作品でもなく自分のためのメモでもなく、それが投げ打ってしまう手紙として書かれるのなら、一般人としては今の時代でなくてもあまり見たことがない。あの波打つ文字は読む側の心に直接さらさらと書かれていき、書いてある内容を訴えることよりも、胸の内側を優しく触れてくることの方が目的であるかのようだ。さわさわと印象付けようとして内側に触る。
 手紙によると、めぐみは「一人旅」をした先でもその紫色のテントウムシを見ている。旅先の美術館に飾ってある絵画にはその虫の絵がさりげなく描かれていると言う。つまり、めぐみが訪れたというその架空めいた地域では、ずっと以前から紫のテントウムシは当たり前だったことになる。もしも、少なくとも「彼女としては」本気でそれを発見して目視し、恵三に充てた手紙にも実直に訴えようとして書いているのだとしたら、「彼女にとって」その虫は実在したのだろうし、その場所では他の人からもそれと把握できる実在のものであると、めぐみ自身には認識されたのだろう。めぐみにしてみれば、その地域の人々とめぐみにとってテントウムシは実在のものであり、夫である山岸にとっては実在するかどうかに関わらず「見えないもの」だった。
 糸のような雨が光り、べっ甲飴の細く伸びた針のようにすっと溶けて、空気の中へと消えていく。傘を差しながら歩道を歩いている人も、そっと傘を斜めに傾けて、止んだかどうかを掌で確認し、このくらいならいいかと閉じて歩き始めている。とっくに傘なんか閉じてしまって、少々濡れることくらい気にしないで歩いている人もいる。太一はどうしようかと迷ったけれど、傘が邪魔になるほどの人通りもないので、差したままで歩くことにした。ささやかに降る雨に、少しでも首や腕をそっと触られるのは好まなかった。いっそ土砂降りならいいのだけれど。
 いくつかの銀行で用を済ませた後、煙草を吸おうと自宅に立ち寄ると、美弥子がいて茶の間で夕刊を読みながら珈琲を飲んでいた。太一の姿を見ると、露骨に驚いた様子を見せて、
「珍しいですね。どうしたの、こんな時間に」
 目を細めて壁時計を見ている。午後四時前。そう言われてみると、こんな時間に太一が自宅に立ち寄ることはほとんどない。
「自分の家ですよ、ちょっと立ち寄ったくらい、いいでしょう」
 台所のテーブルに座って煙草に火を点ける。近頃は村にも禁煙ブームが押し寄せていて、なかなか自由に吸える場所はない。いずれにしても、ヘビースモーカーの太一はあらゆる場所から追い出されて、自分の店か自宅に辿り着く。店と自宅だけは救いで、世の妻たちが煙草を毛嫌いするのに反して美弥子は、家中のどこで吸ってもそれほど小言を言わない。
「あなたも珈琲飲みます?」
 美弥子が茶の間から出てきた。「少し前に淹れたところだから、ちょっと温め直すだけで飲めますけど」
「それはありがたいね」
 煙草と珈琲は不良仲間のように仲がいい。しかも、美弥子が淹れたというのだからインスタントコーヒーだろうと思っていたら、見たことのないガラスの珈琲サーバーを電子レンジに入れて温めている。
「今時は、わざわざインスタントコーヒーをサーバーに入れて作るんですか」
「何を仰いますか、ドリップ珈琲です」
 美弥子は太一の肩をポンと叩く。
「どうしたの? そんなの、美弥子が淹れられるの?」
 流し台を覗き込むと、出がらしになった珈琲豆の粉がしっとりと濡れてペーパードリップの中でわずかな香りを立てていた。
「淹れ方を教わったの。絵手紙の会で知り合いになった人から」
「どこで? ここで?」
「どこで、って、公民館ですよ。講習生なら誰でも使っていい炊事場があるのよ。珈琲をテーマにした絵手紙を描く回があって、それで、モチーフとして珈琲を淹れることになって、珈琲淹れるのが得意だという人が、私、実演いたしますぅ、って手を挙げて、家から道具を持ってきてまで淹れてくれたの。豆を挽く機械まで持ってきて本格的にやっていたわ。あの人、いつかカフェでもする気かしら」
 電子レンジがチンと鳴った。美弥子はソーサー付きのカップに注いでいる。
「マグカップじゃなく、カップアンドソーサーですか。そんな食器はお客さんにしか出さないものだと思っていましたけど」
「どうぞ召し上がれ」
 美弥子は気取って言い、スティックシュガーとポーションミルクを添えてくれた。
「そう言えば、これ、その絵手紙の会で頂いた豆で淹れたのだけど、どうやら恵三さんのお店の豆らしいわよ。これまでは知らなかったけど、その人、恵三さんの店の常連なんだとか」
「名前は?」
「佐藤さん」
「佐藤? よくある苗字だな」
「ほっといてよ。いい人なんだから。今度、あなた、恵三さんに聞いてみたらどうかしら。佐藤さんって人、常連にいませんかって」
「男か、女か」
「さあ、ほっといてよ」
 ほっといてよって、どういうことだ。つっかえながらも何かを言おうとしている間に、
「晴れてきたから、洗濯物を外に出してきます」
 美弥子は二階に行ってしまった。太一は諦めてテーブルに着き、残りの煙草を吸いながら珈琲を啜ってみる。少々熱すぎるが、なかなかおいしいじゃないか。
 しかし。ほっといてよって、いかがなものか――。

 午後にはらはらと雨を散らせた薄い雲は夜になると消え去って、もうすぐ満ちる月が煌々と空に君臨していた。太陽に比べれば月は、暗い夜空に浮かぶので綺麗な金属のような輪郭を持ち、あたかも指先で触れられそうだ。あの月が昼間には陰からそっと指示を出し、棘みたいなべっ甲飴の雫を降らしていたのではないか。などと妄想する。

 二回目の『Q村神隠し事件研究会』。
 前回からその日までには新しく起きた事件はなかったらしく、論文制作の担当者となっていた女性が『戻ってきたことの価値』というタイトルで書いた文を音読し、会員たちでそれについての感想を述べ合うことがメインだった。論文制作者の考える被害者たちの戻って来たことの価値は、被害者の方にはなく、受け入れている側の人々の方にあるらしかった。つつがなくそこに「戻ってきた人」が居ること、その怒りや悲しみに翻弄される風でもなく静かに生きる姿を見せられることによって、むしろ自分たちの浮き沈みする感情や願望三昧の日々を省みる。そして、よりよい人生へと一歩でも近づくことができるのだと言う。ひょっとしたら、そのために被害者は一晩どこかに行って、そして戻ってきてくれたのではないかと。
 黙って聞いているだけの太一としては、それほど賛同できる意見でもなかったが、実際、当事者として渦中にいて、被害者を見守る立場の人ならそんな風に思えるかもしれない。
 会がお開きになる直前に、バリトン声の男性が「短く報告したいことがある」と手を挙げ、立ち上がった。
「二十年前に神隠し事件に遭った元妻は亡くなりました。先週、そのお葬式に呼ばれて出席してきましたが、久しぶりに見た元妻の身体は今でも若くて驚きました。棺桶の中に納まっている姿を見ても亡くなっているのだとさえ思えない。あの事件に遭遇した時の姿みたいに、いまだに透明な光を放っているかのようでした」
 腹の前で掌を強く握り締め、淡々と調子で言った。会の人々はしんとして聞いているようだが、どう答えてよいかわからないという風に目を畳の方に向けたままだったり、ぼんやりとその男性の顔を見つめていたりする。
「やはり、あの事件の直後に、彼女はもうこの世のものとしては亡くなっていたのではないだろうかと、そんな風に思いました」
 男性がそう付け足すと、小さくすすり泣くような声が聞こえた。今生きている被害者と同居している人ならば強く共感できるのだろうか。まだ生きている被害者について「だけどこの世のものとしては亡くなっているのではないか」と男性は言ってしまったことになるのだが、怒り出す人もおらず、何も言わないか、ただすすり泣く人しかいないのだから、当事者たちはみんな、どこかでそんな気もしているのだろう。
 研究会も心の中までは形骸化してはいなかったのだ。
 会場の外に出ると吉川がいて、
「大野太一さん」
 と声を掛けてきた。「申し訳ありませんが、待ち伏せしていました」
 太一はまた『標本クラブ』の案内を配っているのかと吉川の手を見たが、チラシのようなものは持っていなかった。
「今日は、案内配布ではありません。それに、次回分は先日お渡ししましたでしょう?」
「じゃあ、なんの用ですか。吉川さんは今日の研究会の方には参加しなかったの?」
「新しい事件はなかったそうですから、参加する意味もないかと思って、外にいました。でも太一さんにはお話したいことがあって」
「次の『標本クラブ』の時じゃだめなのかね」
「みんながいるでしょう? それでは話しにくいことがある。前回山岸めぐみさんの件で『標本クラブ』に来られた時、井上恵三さんも一緒に来られたものですから、今日もお二人一緒かと」
「恵三に用があるのですか」
「お二人に。でも、太一さんだけでもいい」
 吉川と太一が話している横を、これから帰路に着く研究会の人たちが一人、二人と通り過ぎていく。
「この研究会の、他の人たちに用はないのに?」
 太一にとっては不快なわけではないが、どうして自分に? というのが素直な気持ちだった。
「ここに来ているのは完全な当事者がほとんどでしょう? 太一さんや恵三さんのように、当事者の知人という立場の方にだけ話したいし、恵三さんの、率直に言って、珈琲のことで気になることもあります」
「珈琲?」
 吉川はうなずき、「ここでは話にくいのですけれど」と顎髭をいじる。
 どういった要件かはわからなかったが、恵三の珈琲のことでもあるというのなら、いい話にしろ、よくないことにしろ、いきなり路上で話されたくはない。風評被害めいたことだと大変だ。
「じゃあ、ファミレスにでも行きますか?」
 太一が言うと、
「いえ、すぐそこですから、よかったら私の自宅に」
 吉川が言う。「私の自宅は球体関節人形製作のアトリエでもあり、日中には手伝いの職人も出入りするような場所です。半分、みんなの場所みたいになっていますから」
「ファミレスでも話せないことなのか?」
 ええ、まあ、と吉川はうなずく。
 自宅はすぐそこ、と吉川は言ったが、歩いて行けるような場所にあるわけではなく、タクシーを拾って乗り込むことになった。
 荒い運転で十分ほど。タクシーを降りる時、太一はドライバーに名刺を渡した後、二時間後に迎えにくるように頼み、そのためのチップを支払った。
「流しのタクシーに対して、そんなことができるのですね」
 吉川は驚いたように言う。
「あのタクシー会社の社長とは友達でね、名刺を渡せば向こうも安心して少しわがままな仕事に応じてくれる。だけどチップや料金はちゃんと自腹で支払う。知り合いだから無料で、というわけにはいかない」
「ゲンキンな世の中ですね。世知辛いというのか」
「私は商売人ですから、そういうことを世知辛いとは思いません。お金のやり取りは互いの支配でもなんでもない、敬意の表明です。それも人格ではなく労働に対する敬意。これは誰だって平等でしょう? たとえ極論、昨日凶悪犯罪者でも、今日いい仕事をすれば、その仕事の分は尊敬される権利がある」
「それにしても二時間後に迎えにくるようにとは、私を警戒しているのでしょうか。太一さんのような強面のでかい男性を誰もとってくったりしませんよ」
「こんな海岸沿いの一軒家であれば、帰ろうとした時に自然に流しのタクシーが通るとは思えないし、電話で依頼しても、一時間後となりますと言われそうじゃないですか。それに、おいとまする時刻を示しておくのも、訪問する側の礼儀ですよ」
 実際には警戒していた。出会ってから間もない人間の家に、突然お呼ばれするのに全く警戒しない人間などいないだろう。しかも夜だ。「お話は二時間でお願いします。十一時には今のタクシー会社から迎えがくるだろうから」
 吉川は苦笑し、
「わかりました。失礼かもしれませんが飲み食いなしでいきましょう。では、どうぞ」
 玄関の鍵を開けた。
 吉川は冷蔵庫からペットボトルの烏龍茶を取り出してグラスに注ぎ、テーブルに置いて座ったらすぐに要件を話し始めた。小野山総一郎の自宅を管理する細谷たま子という建物管理人から『Q村神隠し事件研究会』の誰も知らない話を聞いたと言う。
「その細谷たま子の話によると、この神隠し事件においては、実は戻ってきていない被害者がたくさんいるらしいのです。一晩で帰ってきた人は幸運な方だとか」
「それは初耳ですね。だけど、この村で行方不明者がそんなにいるとは思えないが」
 太一は正直な感想を言った。「具体的な証拠でもあるのかな」
「証拠はなさそうです。そもそも、あの家を管理している細谷たま子が言っているだけですから、これからする話の全てにおいて確かな根拠はありません。でも、私の球体関節人形を買ってくれているお客さんに確かめたところ、この村での行方不明者というのは我々が思っているより、たくさんいるみたいです。多くは地元の人ではなく、他所から移り住んだ人で、いなくなっても慌てて探してくれるような親戚縁者がいないから放っておかれる。友人たちにしてみれば、最近見かけないな、またどこかに引っ越しでもしたのかな、と思って詮索せずにいたら、正真正銘の行方不明になっていた、というケースが多いらしい」
「だけど、どうして、その話をわざわざ私に? 自宅に呼び寄せてまで伝えたかったのですか。それくらい、さっきの自転車屋のガレージでそっと教えてくれたらいいのに」
「一番伝えたかったのは、恵三さんのことです。恵三さんの珈琲。神隠し事件に遭遇しても戻って来られた人の中には珈琲の常飲者が多かったと、細谷たま子が言ったこともありますし、小野山総一郎が生活していたと思われる建物から、こういうものが大量に出てきました」
 吉川は茶袋に入ったものをテーブルに置いた。「恵三さんが焙煎したと思われる珈琲豆です。この袋の底の部分に書いてある文字が恵三さんのものであることはわかっているそうで」
 確かに見たことがある。
「まさか、覚せい剤が混入していたとでもいうんじゃないだろうね」
 探偵めいた話に太一は呆れそうになる。
「そんなことを疑っているのではありません。でも、あの建物の管理者である細谷たま子の言うことには、真美子も小野山総一郎と一緒に恵三さんの珈琲を飲んでいたらしいし、太一さんたちが関わっている山岸めぐみさんも恵三さんの店に行っている。偶然だとしても気になりませんか」
 全く気にならない、とは言えなかった。
「吉川さんは、珈琲を飲んだせいで魂が抜けたような状態になってしまったのだと言いたいのですか」
「その逆です。飲んでいたからこそ戻って来られたのではないか、と。恵三さんの珈琲に限られるわけではありません。実際、真美子のことがある以前から、小野山総一郎が珈琲と事件の関係を研究して、そのような仮説を立てたらしいと細谷たま子から聞きました。本件に関して小野山が書き残していたメモもあります。細谷たま子から借りてきました」
 吉川はテーブルの上に三冊のノートを置いた。「これにびっしりです」
 小野山という男が? 珈琲と事件の関係を?
「どういうことが書いてあるのか」
「ありとあらゆることです。事件とは関係のないと思われるような、珈琲の歴史についても細かく調べて書いてある。たとえば珈琲の発祥地についてご存知でしょうか」
 太一は、いいえ、と首を横に振る。太一自身はそもそも珈琲にそれほど興味はなかった。緑茶かほうじ茶、麦茶で充分で、恵三の勧めで時々口にする程度だった。煙草には合う。
「珈琲の発祥に関する説はいろいろとあって、販売促進のためのロマンティックな伝説として捏造されたものもあるようですが、その全てに共通しているのはイスラムの僧侶が関わっていること。それもスーフィズムと言われる神秘主義の思想を持つ集団の僧侶です。当時のスーフィズムではこの世的なものはなんでも否定された。そして夜通し礼拝もする。その礼拝の時に珈琲を飲むと眠くならないからいいという理由でも用いられたし、珈琲を飲むと食欲をなくすのでちょうどいいとも言われたとか。痩せていることは僧侶としての嗜みというか、意地悪く言うとファッションみたいなものだったのかもしれません。珈琲を飲んでおけば脂肪のついた現世的な姿にならずに済む。しかし、実際にはご存知の通り、珈琲には高揚感をもたらすような興奮作用があるでしょう? 眠気覚ましや肥満防止の効果だけではなく、楽しい気分にもさせる。それで、やっぱり珈琲はだめだ、煩悩だということでメッカ事件と呼ばれる弾圧も起きたようです。それもまた反転される。キリスト教徒の方は礼拝の後でも居酒屋でワインを飲みながら談笑して連帯感を強くしていくのに、スーフィーたちは世俗的な居酒屋に行くことはできない。それでは弱体化する。で、『珈琲の家』という場所を作って、酒を飲むよりはいいだろうというように珈琲が認められていった」
「珈琲は始まりの時からして、両面性があったということかな」
 吉川は大きくうなずく。
「その通りです。神への一体感をもたらす善なる飲み物と考えられたし、それと同時に、うきうきさせる高揚感は世俗的な悪の飲み物だとも考えらえた。コーヒールンバという歌、ご存知じゃないですか? 『昔アラブの偉いお坊さんが、恋を忘れたあわれな男に、しびれるような香りいっぱいの、琥珀色した飲み物を教えてあげました』という歌」
「知っていますよ。『やがて心うきうき、とっても不思議このムード、たちまち男は若い娘に恋をした』でしょう?」
 太一はつい笑ってしまう。「しかも、アラブの偉いお坊さんが勧めたのです」
「どう思われますか? 珈琲のおかげで戻って来られたという話。あまりにこじつけでしょうか」
 どうかな、と太一は言って、
「ああ、でも、酒を飲むおかげで他のものには酔わないで済む、と言った酒豪もいたかな」
「お知り合いですか?」
「いえ、僕自身です。酒屋だけれど、親父の跡を継いだだけの酒屋で、最初は別に酒がそれほど好きなわけでもなかった。そうは言っても味見しないわけもいかないから、少しずつ覚えて、それで好きになっていった。いつの間にか強くもなっていた。それで気付いたのは、我々人間には何かに酔いたいという気持ちがそもそも備わっているのではないかということ。というのは、決断して健康のためにと思って完全に酒を断つと、他のいかがわしそうなことに目が行くことがありましてね。ちょっと寂し気な雰囲気の女性を見ると、おや? なんて思う。だけど、それを日々習慣的に軽く一人酒でもして、酔いたい気持ちを適度に満たしておくと、寂し気な女なんか嫌だ、陽気で健康そうで、いかにも運のよさそうな我が妻がいいと、まっすぐに考えられたりもする。もちろん飲み過ぎはいけないけれど、あんまり真面目にしていると、逆に何か大きな落とし穴に突然すとんと落っこちそうで、適度に酒を嗜むのは、むしろ、この世を渡るための酔い止め薬みたいなものだと思っているのですよ。酒屋だから言うわけでもなくてね。そんな風に、珈琲という嗜好品が何か、この現世とのつなぎになっていたと考えられなくもないでしょう」
 吉川は頻繁に壁時計を見る。二時間後にタクシーのドライバーが迎えにくることを気にしているのだろう。
「しかし、珈琲が事件と関係していそうだというのはわかったけれど、特に恵三さんの珈琲に何かあるのか。小野山総一郎と真美子さんが常飲していたのが恵三さんの珈琲だったとしても、それ以外の人はそれぞれ好きな珈琲を飲んでいたのでしょう?」
「それはそうです。ですが、この小野山総一郎の残しているメモを見ると、恵三さんの珈琲が特に効果的なのではないか、という記述があります」
 本当に? 太一は眉唾ものだなと考える。
「見せてもらってもいいかな」
「どうぞ、いくつか付箋を貼っていますが、そこが特に恵三さんの珈琲に関する記述となります。恵三さんと言っても、そのお母さんが経営されていた頃のことですが」
 恵三の母親が喫茶みなみを経営していた頃のことか。それは太一もほとんど知らない。
 太一は小野山総一郎のノートを開き、中の文字を見て、思わず目を疑ってしまう。見たことのある筆跡。ブルーブラックのインク。あの恵三の家に届く「山岸めぐみからの手紙」の字に似ているのではないか。あの手紙よりは随分と崩れた走り書きではあるけれど、インクの色と、それから漢字の略し方に特徴があり、同一人物が書いたもののような気がする。
「これは、本当に小野山総一郎のメモ?」
 太一は頁をパラパラとめくりながら聞く。
「細谷たま子の言うところによると、そのはずです。何か気になりますか」
「いや、そういうわけでもないが」
 太一はさらに頁をめくる。
「吉川さんは、全部読まれたのですか?」
「読んだからこそ、太一さんをお呼びしたのです。恵三さんをよく知っていらっしゃるでしょうから。恵三さんが一緒でもよかった。恵三さんのお母さんのことも書いてありますし、神隠し事件に関与している組織の存在を思わせる証拠のようなもの、とか。私が細谷たま子から聞いた話とほぼ一致していますが、それ以外のこともいろいろと書かれている。もちろん、このノートも細谷たま子の話と同じように、小野山総一郎の主観的な考えに基づいているようですから、科学的に立証できる話ではありません」
「小野山総一郎と、その細谷たま子という人物はどういう関係かな。これが本当に小野山の書いたものだとして、パッと見たところでは大変なプライバシーのように思えるけれど、細谷たま子はそれに触れてもいい立場にあるということですか」
「そう言われてみれば、そうですね」
 吉川は短い顎鬚をいじる。「どういう関係なんだろう。何も疑っていなかったけれど」
「このノートはなかなか分厚い、私的な研究ノートだと思いますが、細谷たま子がそれを持っているだけでも相当近い場所にいる仲だと思いますけれど、こんなノートを他者に貸し出してもいい立場だというのは、彼らが深い仲というよりも、細谷たま子の方が断然、力関係が勝っているように思えます。だって、その人のノートを他者に貸すなんて、あまりにもぞんざいな扱いのようにも思えますがね。礼儀を欠いていませんか」
 太一はノートの裏表紙や最後のページに『小野山総一郎』を示す署名がないかどうか探したけれど、それは見つからなかった。「気の毒です、小野山さんは。今、どこにいっていらっしゃるのか知らないけれど、こんな大事なものを細谷たま子に勝手に持ち出されて」
 吉川は、確かに、と言って腕組みをし、考え込むように天井を見上げている。
「おや、これは?」
 ページの間に一枚の写真が挟んであった。「一体誰かな?」
 吉川に見せると、
「小野山総一郎です。少し若い頃のものだろうけど、間違いありません」
 断言した。
「研究ノートに自分の写真、ですか。しおりの代わりに使ったのか。それとも、署名の代わりか」
 少しセピア色に変化した写真の中の小野山総一郎はまだ青臭い二十代と思われる。右目が左目よりもわずかに細い。右目だけを細めているかのようで、笑ってはいないが、かすかに笑っているように見える。右半分だけ微笑んでいると言った方が正確だろうか。この表情。そして、半分微笑んでいるのにどこか深く思いつめたようなまなざしは、総合するとどこかで見たことのあるような文学青年風の面立ちということになるのだが、丸眼鏡のせいか、あるいはわざとらしく垂らした前髪のせいで、既視感が消されているようだった。
 この写真の人物は普通の人間だとしても、普通ではないものを目指しているように見える。若い頃は誰だってそうだろう。ありのままの、普通の表情でカメラの前に立てるとしたら、その方がアブノーマルな人間だ。あるいは、普通に見せようと演じても、狂気染みて写ってしまうのが本来はみ出てしまった人々だろう。何か特別なものに成ろうと演じてカメラに前に立つのは、七五三の頃から平凡な人間のすることだ。
 写真がセピア色であることに比して、ノートはそれほど古いものではなさそうだった。ツバメノート。昔から変わらないデザインのノートだが、写真の経年変化に比してノートの紙には黄ばみがない。紙が良質だから、時間が経っても紙が経年変化による日焼けをしなかったのかもしれない。それにしても、自分自身の写真を、ノートの栞にしたりするものだろうか。無造作に挟んでおいた、とか。
「ノートは後でゆっくりと見ていただくとして、二階に、小野山総一郎の作った真美子の人形があるからぜひ見てもらえませんか。わざわざ来ていただいたのも、それをお見せしたかったからです。タクシーが来るまで、あと二十分ほどしかありませんから、どうか二階へ」
 吉川はもう立ち上がっていた。
 二階へと続く階段の天井は高く、その天井にひとつだけ灯っている白熱灯が二人の短い影を作った。一段踏み上るごとに、みしりみしりと音を立てる。長く放置されていた建物を安く買ったのだと言う。
「曰くつきとやらで極端に安かったので購入しましたが、幽霊なんて一度も出たことはありません」
「それ、先に言ってくださいよ」
 太一はぞっとして、自身を抱くようにして二の腕をさする。これまでに幽霊が出たかどうかに関わらず、もしかしたら出るかもしれないと想像しただけで寒気がする。
 部屋の中に入ると、接着剤なのか、それとも塗料なのか、ツンとする匂いが充満している。壁際の台には出来上がった作品としての球体関節人形が数体並べてあり、それ以外には、作りかけの球体関節人形の白いパーツが畳机の上に行儀よく並んでいる。肘から下、頭部、胴体、膝下。
「ここは作業場で、製作の助手が何人もきます。設計やデザインは私がひとりでやって、それをパーツごとに担当する助手に指示する。かつて小野山がやっていたように」
 吉川は置いてあるパーツを取り上げて太一に見せた。「ほら、これは右の膝下。爪も、こうやってひとつずつ削る。左はこれ」もう一つ取り上げて太一に持たせた。
 右足の爪は完成しているが、持っている左足は親指だけが成形されている。石膏色の地肌のままで、まだ彩色はされていない。
 部屋の角には二メートル四方のデスクとひじ掛け椅子、書類棚、床置きで背の高い電気スタンドがあり、吉川はその電気スタンドの紐を引いて灯りをともした後、膝下のパーツをデスクの上に置いてから椅子に座って見せた。くるくると回転する椅子。
「私の主な位置はここです」
 太一も、渡された左膝下のパーツをデスクの上に置いた。
 本棚にはコニャックの瓶が置いてあり、切子硝子のブランデーグラスが盆の上に伏せられていた。吉川は二つのグラスにコニャックを注ぎ、
「舐める程度ならいいでしょう?」
 と、ひとつを太一に渡した。
 軽くグラスを合わせて「乾杯」と言った後、吉川は棚から一冊のマルマンノートSL2を取り出した。
「これが設計用のスケッチです。膝下の絵はこのページ」
 中ほど辺りのページを開く。「私は人形一体を作るために、クロッキー用のスケッチブックを一冊使う。絵だけではなく、人形の性格や育った環境などの想定を、図や文字で組み立てて書き込んでおきます。たとえば、このノートで設計されているのはドイツのお城で生まれたお姫様。正式な姫ではなく、宮廷画家と皇女の間に生まれた人である、とかね。『不幸なのか。いいえ、不幸ではない。それが幸いなのである。しかし、幸福は岩を穿つ雨の音。いずれ彼女は城を出る』と、こうして詩もどきも書き入れます。メインの城では皇女たちが嫉妬し合って醜い争いを繰り広げているけれど、彼女は日陰に生まれたからこそ免れているのだという設定。そうすると人形の表情が決定される。天真爛漫ではなく、少し諦めたような深い安らぎです。腕や足の筋肉も固くはありません。私の想像の中の仮説では、メインの城での女同士の戦いは筋肉を骨に向かって収縮させ、脳からアドレナリンを溢れ出させ、身構えるために筋骨を発達させる。だとしたら、そこから免れている彼女の身体はふわっとして脱力しているはずだ。そうした脱力状態は球体関節人形で表現するのにもっとも適している。球体関節人形は寄り掛からなければ安定しない形でしょう? セルロイドで作られた人形はデパートのおもちゃ売り場のメインコーナーでしゃんと立てるけれど、彼女たち球体関節人形はそこにはそぐわない。設定のない、寄り掛かる背景のない場所では存在し得ない。だからこうして、背景の設定も描きます」
 太一はスケッチブックを受け取った。森の中にあるらしい城壁に、憂鬱な姿でもたれている女性の姿が描かれていた。
「彼女の場合は、つまり、この膝下の持ち主は、しなやかで、物質的な身体の向こう側が透けて見えるほどに邪気のないトーンで染色します。次のページに色調の指定が示してあります。めくってください。番号ではなく、水彩絵の具で塗って指示。的確にこの色を塗りなさいという意味ではなく、全体の仕上がりから受ける印象が、この色から受ける印象と同じくなるようにという意味です。球体関節人形は物質的な形の設計だけではなく、この設定が重要になる。設定こそが肝だ。そうそう、彼女はひとりぼっちのようですが、ハイジに出てくるペーターのような羊飼いの青年がやってくる。青年が彼女を知っている。だから決して幽霊じゃない。ただし肉から遠く離れたもの、温度だけや香りだけの淡い性愛がまとわりついている。だからプラトニックな身体というわけでもない」
「幽霊屋敷にもってこいじゃないですか」
 太一が皮肉を言うと、吉川は、言われてみればそうですね、と生真面目そうに眉間に皺をよせてうなずく。
「幽霊とは決してプラトニックな身体ではありませんから」
 吉川はテーブルの上に置いた膝下のパーツを目の高さに掲げた。熟練したマッサージ師がクライアントの身体をいかにも物質を動かす仕草で扱うように、軽々と持ち上げる。
「やっぱり、幽霊、出るんじゃないですか?」
 太一は再び二の腕をさする。幽霊とは――、と知っているかのように断言するのならば、吉川は見たことがあるのだろう。
「この家に幽霊は出たことがない。ずっと待機していたとしても」
 吉川は膝下のパーツをテーブルに戻し、コニャックをくいと飲んだ。「出るというのは、どこかから、どこかへ、アウトプットするんでしょう? 隠れていて、あるときパッと出てくる」
「どういう意味?」
 背筋がすうっと寒くなる。
「この家で幽霊は隠れていたことがない、ということでしょうか」
 吉川はそう言うと、急に、おかしくてたまらないという風に体を折りたたんで笑い始めた。それは腹の底にある沼からどくどくと湧き上がってくるようなとめどない笑い方で、吉川自身というよりも、彼の内部を何者かが通過していくような声の響きだったので、太一はぞっとして咳払いをした。『標本クラブ』でも、一階の居間でも、こんな吉川は見たことがない。何かにとり憑かれているのではないか。あるいは、この作業場空間は通常なら見せないような彼自身の本来の姿を、外側に向かって暴き出していく装置のようなものなのだろうか。
「失礼しました」
 吉川は笑いすぎて目尻に滲んだ涙を指先でそっと拭い、「さて、真美子人形が置いてある部屋に移動しましょう」
 ゆるく立てた親指で方向を指した。
「ここにある球体関節人形は、先日、小野山総一郎のアトリエからこちらに引き取りました。細谷たま子に頼まれまして」
 部屋には五十体ほどの球体関節人形が静かに床に横たわっていた。本当に幼い少女の頃を象ったと思われるものから、ある程度成長して年を重ねていったものまで順に並べてある。『標本クラブ』で観た時の球体関節人形のように完全に等身大というわけでもなく、少女時代を象ったものと成長してからの姿を象ったものでも、大きさはそれほど変わらない。注文を受けて製作しているという球体関節人形がレースやビロウド製の衣装を着せられたものが多いのに比べて、真美子を象った人形は多少お嬢さん育ちを思わせはするものの、ごく普通の街着を着せられているものがほとんどだった。見ようによっては生きたままミイラにされたかのようだ。成長をつぶさに追っているだけに、真美子の変化を余すところなく手中に収めたいという小野山総一郎の執着心や、それゆえの眼差しの冷酷さが、太一自身の視線をも乗っ取って、あらぬ方へと誘い出すようで直視できない。
「戦場の死体置き場みたいで嫌でしょう?」
 太一のもやもやした気持ちを察したのか、吉川がそう言った。「球体関節人形にとって背景となる設定がいかに重要か、これでもわかると思います。なければ、物体。いや、いっそ物体というよりも死体のようになってしまう」
 太一は深くうなずく。球体関節人形たちの、ぽかんと開いたままで決して閉まることのないガラスの瞳が天井をぼんやりと眺めているのは、もはやこちらから感情移入をすることのできる物体ではなく、周囲との関係を経ってしまった肉体だった。それを「死」と言っていいかどうか、太一にはわからなかった。
「同じ人物を象ったものだとしても、ひとつの形にひとつの記憶やシチュエーションが必要なのに、こうやってただ並べて置いてしまうと、何か死んだように見えるのです。もちろん、生きている人間なのに、それらを失ったかのような状態に陥ってしまうのが、まさに私たちが関わっている神隠し事件でもあり、言い過ぎかもしれないけれど、神隠し事件後の真美子は、昔の生き生きとした様子に比べたら、今はこの球体関節人形たちとさほど変わりないとさえ思えてきます。この羅列された球体関節人形はその予言のようなものだ。あるいは、助走、とか」
 太一はしゃがみこんで、人形のひとつにそっと触れてみた。当たり前だが何も反応しない。
「今、真美子さんはどこにいるのですか」
「私の友人の家にいます。事件後に面倒を見ていたお姉さんがご結婚されてアメリカに行ってしまわれたから、友人に頼んで預かってもらった。友人の家、というか、そうそう、仕事場の二階です」
「ここと同じように、仕事場の二階?」
 吉川は腕を組み、「ほお、そういや、そうだな」とつぶやくように言った。
「たった今、指摘されて気付きました。そうです。ここでも、友人の所でも、真美子は建物の二階にいる。ライプニッツがイメージした魂のことを書いたドゥルーズという哲学者の『襞』という哲学作品に上の階という記述がありますが、それを今、強烈に思い出しました。少しお待ちを」
 吉川は作業場に戻り、書棚からその本を取り出してきた。「これです。もちろんこれは喩えて書いているのですが。たとえば、この行。『窓のある下の階と、窓がなく暗い上の階からなっている。上の階は、にもかかわらず音楽サロンのように響き、下の階の目に見える運動を音響に翻訳する』いいでしょう、これ。ドゥルーズの哲学作品です」
「哲学作品? あまり聞いたことのない言葉ですね。哲学の場合は、哲学書という言い方をするのではなかったかな」
「哲学作品と言うべきでしょう。ドゥルーズの著述は哲学書というよりも、作品。そう言ってもいいはずなのでは? 文学作品という言葉がある以上は」
 吉川は書籍を閉じ、愛しそうに表紙を撫でている。
 太一は聞いたことのない哲学者の言葉を心の中で反芻する。『窓のある下の階と、窓がなく暗い上の階』。その哲学者の言う『窓がなく暗い上の階』とはなんのことを言っているのだろうか。言葉を話さないことや、やり取りをしないこと? 人形や事件後の閉じこもったような真美子は、その哲学者のたとえる『窓のない暗い上の階』なのだろうか? だけど、そこに音は響いている。哲学者の言葉を無理にでも当てはめて考えてみれば、真美子は下の階である現実的な空間の動きを受信し、『音響に翻訳する』というなら内側は震えているのだ。
「それにしても、細谷たま子という人は、どうしてこの人形を吉川さんに預かって欲しいと言われたのでしょう?」
「追い出したかったみたいですよ、真美子の亡霊を。ひょっとしたら小野山総一郎への愛ゆえに、かな」
「真美子さんを象った人形は、ここに並べてあるもので全部ですか?」
「違います。たま子さんはこれで全部だと仰ったのですが、ひとつだけ足りない。たったひとつです。私は何度もアトリエ内を撮影していて、球体関節人形も一体ずつ写真に残していました。その写真の中に移された人形の中に、ここにはないものが一体だけある。捨てられたのか、たま子さんが持っているのか、それとも、小野山総一郎か。写真をご覧にいれましょう。作業場にあります」
 吉川は真美子の人形がある部屋の灯りを消す。作業場に移動し、書棚からアルバムを一冊取り出した。
「この球体関節人形ですよ。たったひとつないのは」
 写真のファイルから一枚取り出す。長い髪をふわりと下ろして、白いレース地のワンピースを着た人形だ。横からの写真や、上からの写真も数枚ある。
「何歳くらいを象ったものですか」
「十代半ばでしょうか」
「何か、特別に他のものと異なる要素は考えられるのでしょうか」
 太一は写真を一枚ずつ眺める。
「球体関節人形の中で特にこれだけが際立っている要素は何もないのですが、気になっていることがひとつあります。真美子を預かってくれている友人は写真家で、先日、珍しいことですが真美子の方から言い出してモデル撮影したらしく、それを見せてもらったのです。妙な話ですが、その写真の中の真美子が着用していたのは、このひとつだけ失われた球体関節人形の服装にそっくりだった。そのことに関しては私自身、戸惑っています。友人にはまだこのことを話していないのですけれど」
 シンクロニシティだと言いたいのだろうか。それとも。
「この写真の中の人形が、そのお友達が撮影した時の真美子さんへとメタモルフォーゼしたのだと?」
「メタモルフォーゼか。なるほど。わかりませんがあまりに不思議な現象で。あの、神隠し事件に遭遇した後、真美子がアトリエにポツンと座っていた時の異様な空気、真美子も人形になってしまったような倒錯した世界を思い起こさないわけにはいかない」
 太一は人形の写真を吉川に返し、
「お気持ちはなんとなくわかります。ある出来事が他人から見たら、単なる偶然でしかなく、こじつけに過ぎないように見えても、自分自身にとっては紛れもない因果を持つとしか考えられないというのは、よくありますから。いいですよ、納得は出来なかったとしても、吉川さんの気持ちに共感してもいい。神隠し事件に遭遇した後の真美子さんは、ひょっとしたらこの写真の中にある白いワンピースを着せられた人形が命を得て、ひょこひょことオカルティックに動き始めたものなんじゃないかと考えてみてもいいでしょう。しかし、じゃあ、やはり、本当の真美子さんはどこに行ってしまったのでしょうか。魂だけになって肉体を失い、そのお人形に入っていったとか? でも、現在の真美子さんの性質は、かつての真美子さんじゃないでしょう? 当時の真美子さんは見当たらない。それこそがこの神隠し事件にとっての問題なのですから」
 家の外からクラクションが何度も聞こえた。頼んでおいたタクシーが迎えに来たのだろう。「この続きは、またどこかでお話しましょう。ところで、小野山総一郎のノートは門外不出ですか」
「もしも、お持ちになりたければそうしてもらってもいいですよ。細谷たま子から借りているものですが、返さなくてもいいそうです。ただし、どこかに置き忘れたりするのだけは困りますが、次回お会いする時まで、お貸しします」
 吉川から次回の標本クラブの案内を受け取り、太一は玄関の外に出た。
 吉川に見送られてタクシーに乗り込んだ。
「家まででよろしいですか」
 運転手は来る時と同じ人物だった。「社長に聞いてきましたから、太一さんの家までの道行は了解してます」
「じゃあ、そのように」と言うと、車は発進した。吉川に軽く手を振る。
「珍しいお宅を訪ねられたのですね」
 運転手は運転しながら、ミラー越しにこちらをちらちらと見て言う。
「珍しいとは?」
「あれは幽霊屋敷ですよ。長く放置されていたものを、あの男が買い取った。よくやるなあと不動産屋も呆れていたとか」
「曰くつきを買ったというのは彼から聞きましたよ。彼は平気みたいだが、僕には少し気味が悪かった」
 海沿いの道では暗闇の中で黄色信号が点滅している。
「出たんですか? これ」
 左手を幽霊の形にして、ちらっとミラーを見る。
「いや、見なかった」
「幽霊は死なないからね。それがやはり怖い」
 方向指示器がカチカチと鳴る。ゆっくりと左折し、海沿いを離れる。
「見るんですか? 夜、車を流していると」
「そりゃあ、もう。たくさん」
「たとえば?」
「客を乗せてドアを閉め、ミラーに向かって『お客さん、どちらへ行きますか?』と言っても答えない。振り返って、『お客さん!』と声を掛けると、いない。え? となって、ミラーを見ると、居る。とかね」
「まずいでしょう、それは。どうするの? そういう時」
「最初は車を降りて、出たー出たー、と大騒ぎしてガタガタ震えた。すると自転車に乗った人が近付いてきて、『ああ、ここ出るのよ。塩やるよ』と言って、鞄から塩出して車に振りかけてくれた。そこを通るから、いつでも塩を持っているんだそうで。まあ、それで、幽霊はいなくなった。それ以来、塩をいつでも持っている」
「幽霊は死なないから怖い、と仰ったのは?」
「轢いてしまったことがあってね、びっくりして、車を停めて外に出たら、轢いたはずの人がいない。どこかに飛ばしたか? と思って探し回っても死体はない。おかしいな、気のせいかな、と思って運転席に戻ってミラーを見たら、いる。後部座席に座っている。血を流してね、『痛いじゃないですか』と笑う。『ああ、大丈夫ですか? すぐに救急車を呼びます』と言うと、パッと消えて跡形もない。ぎゃあ、と叫び声をあげて、また出たーってなもんですよ。慌てて車を発進する。すると路肩でそいつがバイバイと手を振って笑っている。とかね」
「ぞっとしますね」
「そう。死なないんですよ、幽霊は。もう死んだ後のものですからね。あの無敵な感じが怖すぎる。生きている奴は、どんな悪人だっていつかは死ぬと思うから、大したことないのだけどね」
 ドライバーはそう言った後、カーラジオを着けて、「すみません、これ毎日楽しみにしてるんで」とミラー越しにウィンクした後、黙り込んだ。ラジオを聞きたいから話はここまで、と言いたいのだろう。番組はクロスオーバーイレブン。
 太一はぼんやりと車窓を見る。窓明かりも少ない。美弥子はもう寝ただろうか――。
「着きましたよ、太一さん」
 ドライバーに呼び掛けられてハッとする。うとうとしていたらしい。タクシーで寝るなどということは滅多にないのだが、眠っていた。疲れていたのだろうか。「お支払いは後日、タクシー会社の方にしてください。社長にそう言われていますから」
 太一はチップを払おうとしたが、「さきほど頂きましたし、ここは日本ですよ」と笑って断られ、礼だけ言って降りた。
 翌朝、タクシー会社の社長に連絡を入れて、
「これから昨夜のタクシー料金を支払いに行く」
 と言うと
「何それ?」
 と言う。
「何それって、昨夜、社長さんの会社のタクシーで――」
 社長が知っているはずのことをかいつまんで話す。
「何のこと? うちの車がどこまで太一さんを迎えに?」
 それで吉川の家のことを言うと、
「ああ、あそこは出る」と言う。
「太一さん、幽霊ドライバーに運んでもらったんでしょ」
「そんなはずないでしょう。行きは連れの人も一緒に乗ったんだから」
「帰りは?」
「一人だけど――」
 社長は、少し黙り込んだ後、「前にもそんなことがありました。他の知り合いでね。悪いけど、こちらは覚えのない仕事だ。だから料金のことは気にしないで」
「それじゃあ気がすまないですよ」
「そう言われてもねえ。やっていない仕事の代金を請求するわけにはいきませんから。そう言えば、ひょっとして、タクシーの中でクロスオーバーイレブンを聞かなかった?」
「ああ、聞いたような――」
「ほお、その後、家に着くまでの間、眠っちゃった?」
「その通り。なんで?」
「なるほど。よく考えてみて。今、クロスオーバーイレブンってやっているか? 昔の人気番組だろ? 今では特別番組ではやることがあるとしても、昨日の新聞のラジオ番組表を探すといい、たぶん、やってない」
 太一は唖然とする。
「同じパターンだ。まあ、いずれにしても、気にしないで。他言無用ということで。むしろこちらが口止め料支払いたいくらい。うちの会社のタク捕まえたら幽霊ドライバーだったなんて噂は困りますからね。じゃあ、忙しいんで。塩撒いておきなさいよ。よろしくどうぞ」
 電話は切れた。
 酒屋の定休日である水曜日、太一は恵三の店を訪れた。ちょうど店が閉まる直前の時刻を見計らい、吉川劉星から預かったノートと手紙を持って扉を開ける。ドアベルが鳴り、長年かけて飴色に変化した珈琲の香が押し寄せる。空気まで琥珀色に見える。
「あれえ、太一さん、珍しいね」
 恵三が素っ頓狂な声を上げた。
「突然来るようなことをして、すまないね」
「いいんだよ。店なんだし、むしろその方が嬉しいんだから」
 恵三はグラスに水を入れてテーブルに置く。
「神隠し事件のことで相談したいことがあってね」
「なに? 長くなる?」
「少し。無理強いはしないつもりだけど」
 そう言いつつ、太一は煙草に火を点けた。少なくとも煙草の火が消えるまでは時間が持つだろう。
「じゃあ、看板下げてくるよ」
 恵三は店先の看板のライトを消して室内に入れ、扉にクローズドのドアプレートを掛けたようだった。「相談って? というか、本来は僕の方が太一さんに相談を持ち掛けていたのだったね」サイフォンで珈琲を淹れる準備をしている。
 太一は吉川から聞いた話を恵三に告げた後、預かって来た小野山総一郎の研究ノートを見せた。
「この字、恵三さんから預かったあの手紙の字と似ていないかな。山岸君の奥さんからの手紙の字」
「そう言われてみたら、そんな気もするなあ」
 恵三は珈琲をカップに注ぎながら、ノートの字を横目で睨んでいた。
「山岸君の奥さんからの手紙は、実は小野山総一郎が書いて送り付けてきたものなのだろうか、でも、だとしたら、どうしてその手紙の中に恵三さんと山岸めぐみしか知り得ないこと、つまり紫のテントウムシのことが書かれているのだろうか」
 太一は恵三の淹れてくれた珈琲を一口すする。
「わからない。それにしても、小野山総一郎が言ったという『珈琲を飲んでいたからこそ戻って来られたのではないか』って、珈琲屋の僕からしたら喜んでいいのか、そうでもないのか」
 恵三は自分で淹れた珈琲をうまそうに啜る。「こんなの嗜好品だからいいのであって、効果があるとかないとかの話になると、げんなりするけど」
「吉川の話では、小野山総一郎のことを細谷たま子は先生と呼んでいたらしいから、小野山総一郎は研究者肌だったのでしょう。だから、神隠し事件の根拠を解き明かそうとした。そうでなければ、珈琲との因果関係なんて誰も思いつかないでしょうよ。写真を見たら、なんだか生真面目そうな男だったよ」
「小野山の写真あるの?」
 ありますよと言い、太一はノートのページをめくり、挟んであった写真を取り出した。「吉川は『自分の写真を栞にする人はあまりいないだろう』と言っていたけれども」
 恵三は写真をじっと見る。
「あれ? この人、どこかで見たことあるな」
「吉川もそう言っていたよ。文学青年風だけれど、どこにでもいそうな顔つきだって」
「そうじゃなくて、僕はこの人を知っている気がする。ひょっとすると客じゃないかな、ずっと前にはよく来ていた。母がやっていた頃の客かもしれない」
「そんな昔、恵三さんはまだ子供じゃないですか」
「前にも話したと思うけど、僕は店で見た客の顔はなかなか忘れないんだ。今は商売だからという理由もあるけど、子供の頃は母と親しそうに話す客がいたら警戒していたよ。僕のことを父がいないからかわいそうだと言う人もいるけれど、実は気楽な面もあって、再婚してほしくないと思っていたから、店で見かけた男には睨みを利かしていたんだ」
 太一は二本目の煙草に火を点けた。
「吉川が言うことには、小野山総一郎は恵三さんの珈琲豆を購入して飲んでいたらしい。袋にキリマンジャロならばKと書いて日付を書き入れるのは、恵三さんのやり方なんでしょう?」
「違う。キリマンジャロのKじゃないよ」
「そうなの? Kと書いた茶封筒に入れられた珈琲豆が、小野山総一郎の居住空間にはたくさんあったそうだよ。吉川は、きっとこれは、キリマンジャロだろうと――」
「違う。この店にキリマンジャロという珈琲はない。タンザニアしかない。僕は『キリマンジャロの雪』という話が大嫌い。珈琲屋を継ぐ前に映画を観て怖くなった。だからタンザニアと呼ぶことにしたの。そういう店はいっぱいあるよ。ブルーマウンテンだってジャマイカのことなんだ」
「じゃあ、何にKと書くの?」
「恵三のKだよ」
なるほどねえ、と太一は感心し、煙草を深く吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
「気付かなかった。Kブレンドだ」
「通常のブレンドはただのブレンド。それ以外に特別なブレンドを作って、それを知っている人だけにKブレンドとして売っている。だけど、妙な薬が入っているとか、そういうのじゃない」
 恵三は気を悪くしたのか顔を横に向けている。
「だけど、特別なブレンドって、気になる言葉ですね。どういうブレンド?」
「教えない」
「教えないって、水臭いじゃありませんか。教えて下さいよ」
「いやだ」
「なんで」
「だめ」
 恵三はカウンターの奥にある狭い部屋に入って行き、しばらくすると、珈琲豆の入った瓶をひとつ持って現れた。
「見せるだけならいいよ」
 受け取って瓶の外から眺める。艶々としたチョコレート色に焙煎された珈琲豆が行儀よく積み重なっている。
「豆を取り出してみてもいいかな」
「どうぞ」
 太一は瓶の蓋を開ける。開けただけでも強い香りがする。
「これはすごい香りだ。なんだろうこれは」
「別に。普通の珈琲豆」
 恵三は腕を組んだまま天井を見上げ、太一の顔も見ないで淡々と答える。
 太一は三十粒ほど取り出して、ソーサーに乗せる。
「ほお、これはすごい」
「何が?」
 わかりもしないくせに、と言いたそうに太一が黒目だけこちらに向ける。
「普通の豆とは色艶が違うんでしょう?」
 太一がどうにか答えると、じゃあ、ちょっと待って、と言って、普通のブレンドの豆をやはり三十粒ほど取り出してソーサーに乗せ、Kブレンドの豆が乗ったソーサーの横に置いた。
 太一はまじまじと眺める。それほど変わりはない。どちらのソーサーにも、いわゆる欠損豆と呼ばれる豆の混入も見当たらない。
「だったら、本当は同じなんでしょう。Kブレンドとか言って、何も知らないもの好きに高く売っているんじゃないんですか? 恵三さんも商売人だなあ」
「そんなわけないでしょっ」
 恵三は立ち上がった。「なんにもわかっていないんだなあ、もう」
「一度、このKブレンド、淹れて貰えますか。ちゃんとお支払いしますから」
「一杯、二千五百円ですけど」
「そんなにするの?」
「そうじゃなきゃ、やってられないってほど、貴重なブレンドだから」
 太一はもう一度ソーサーを鼻頭に近付けて香りを嗅いでみる。確かに芳醇な香りがする。まだ挽いてもいない豆から、これほど強い果物やチョコレートの香りがするなんて信じられない。
「まあ、払いますよ。二千五百円。淹れてみて」
「かしこまりました」
 ふざけて慇懃な言い方をする恵三の顔は輝いていた。
 白いホーローのポットにお湯を沸かし、Kブレンドの豆を少しずつ計量器に乗せて計りミルに入れて挽く。より一層強い香りが部屋中に充満する。これだけ強い香りがすれば煙草の匂いなんて一瞬にして吹き消されるだろう。
「これはサイフォンではなく、ネルドリップで淹れる」
 恵三は分量を計るための鍋と、針金を通したドリップ用のネルを取り出した。
「何が違うの? 」
「徹底的に雑味を抜く。サイフォンはそもそも雑味の少ない豆や焙煎方法のものを用意するか、ハードボイルド的な味わいこそを特徴として、わざと雑味を濃くして仕上げるのだけれど、このKブレンドは違う。灰汁のある状態のブレンド豆を作って、そして淹れる時に徹底的に灰汁を抜く。すると不思議に、もともと雑味のない豆を使うよりも透明感が出る。淹れてみるよ」
 ネルに挽いた豆を入れ、沸騰したお湯を一滴ずつ垂らしていく。全体に湿ったら、豆がふわっと膨らんだ。
「こうして膨らむと、豆の粒同士が灰汁を取り除くためのフィルターみたいになる。そして、ここから丁寧に灰汁を抜いていく。砂浜でアサリが潮を吹くみたいに」
 恵三は集中している。「灰汁が抜けたら、その灰汁を下に落とさないように、お湯を足していく。慎重に、でもスムーズに」
 お湯が全部落ち切らないうちにネルを流し台の方に放り込む。灰汁を混入させないためらしい。鍋から白いデミタスカップに珈琲を注ぎ入れ、太一の目の前に置いてくれた。
 濃い茶色の液体の表面は艶やかで、ゼリーのように透き通っていた。
「飲んでみて。一気に飲まずに、半分は冷めてから、飲んで」
 恵三は自分用にもデミタスカップに注ぎ、まずは香りを嗅いでいる。太一も真似をし、まずは香から入る。
「これぞ珈琲という香ですね」
 嘘ではなかった。これぞ珈琲。何か、ずっと子どもの頃に舐めた珈琲飴のような、珈琲に関する記憶の真ん中を素直に刺激する、いわば、癖のない香りだった。
 恐る恐る啜ってみる。「ほお、これは旨いな」
「でしょ。それそれ。美味しい、じゃなくて、旨いなんだ」
「香は、珈琲らしい香りだと思ったが、味は、珈琲じゃないみたいだ。深い甘味や苦み、酸味が融け合ってしまって、わざとらしく聞こえるかもしれないけれど、音楽のような味がする。恵三さんのオーディオで聴いたことのある、いい弦楽器の、一本で鳴らしている、だけど倍音のような、あれみたいな味だ」
「さすが、本好きの太一さん。いい表現してくれる」
 恵三は素直に嬉しそうだった。「これを買うお客さんの中には、悪の後の聖、と言った人もいるよ」
「あくのあとのせい?」
「そう、悪は善悪の悪だけど、灰汁のある豆を使うことをひっかけている。そして、その後の聖はサンクチュアリの聖。その人曰く、悪は善ではなく聖に憧れるのだとか」
「この液体は、じゃあ、もともとの豆の憧れってことですか」
「さすが、太一さん、文学を嗜まれるから表現が素敵だ」
「どうやって、作るんですか。このKブレンド。少し教えてくださいよ」
「じゃあ、少しだけ。ある貴重な豆を生豆の状態で保存しておいて、それを数パーセントだけある豆に混ぜて焙煎する。この保存した生豆は、母親の時代から受け継いでいるものだから売っているものではない。保存する豆は毎年調達して、奥で少しずつ増やしているけれど、それ以上のことは企業秘密」
 小さな場末の喫茶店だと思っていたけれど、なんだか世界の真ん中にある重要な実験室のようにも思えてくる。気のいい友人だと思ってきた恵三の顔が、なんだか立派な化学者のように見えた。
 太一が香りに驚嘆しつつ珈琲を味わっている横で、恵三がノートを眺め始めていた。
 ノートのフェルト地を思わせるグレーの表紙は無題のままで、名前を書くべきラインの上にも「小野山総一郎」の文字はない。ただナンバーだけが大きく真ん中に書き込まれている。中のページはフールスと呼ばれるクリーム色の紙に、淡いグレーの横罫線が引かれたものであり、左横三センチほどの位置に同じグレー色で縦線が一本引き下ろしてある。小野山総一郎はその縦長で横書き用のノートを九十度回転して縦書きにし、万年筆のブルーブラックインクを縦に走らせていた
「太一さんが吉川くんから借りてきた小野山総一郎のノートはツバメノートと言って、ずっとデザインを変えずに作り続けているブランドだよ。記述によると一九七〇年四月二十二日から書き始めているようだけど、左肩に一本罫線のあるバージョンのツバメノートが出てきたのは、一九七〇年よりもずっと後のような気がする」
 Kブレンドを飲み干した恵三がノートのページをパラパラと開けながら言う。そう言えばそうだな、と太一はうなずく。「こういうデザインは最近のものかもしれない。昔は自分で赤いボールペンを使ってソロバンの縁なんかでラインを引いたものだったからね」
「だとすると、やっぱり、それは、小野山総一郎が書いたのではなくて、他の人が書いたものじゃないかな。たとえば、細谷たま子という人が書いたもの。紙もやたらと新しいし、近頃まとめて書かれたもののような気がする」
「細川たま子が? 何のために?」
「たとえばの話だけど、実際の小野山のノートやメモのようなものは別に存在していて、それを小野山総一郎に成りすましてツバメノートに書き写した。それは保存のためといってもいいけど、だとしたらコピーを取ればいいよね。だから考えられるなかでも最悪なのは――」
 恵三が言葉を詰まらせる。
「なんですか? 最悪なのは?」
「小野山総一郎は既に死んでいるとか。というのもね、さっきも話した通り、このノートの筆跡が、僕のところに届いている山岸の奥さんからの手紙の筆跡とそっくりだから」
「だけど、それでどうして小野山総一郎が死んでいることになるのでしょうか」
 恵三は恥ずかしそうに鼻の下をこする。
「単なる推理だけど、たとえば細谷たま子が殺したのかもしれない。愛憎の果てにとか、その邸宅が気に入ってしまって欲しくなったからとか。理由はともかく、吉川の元彼女である真美子さんという人が事件に遭った前後あたり、どのタイミングかはわからないけれど、殺った。そして、その邸宅とやらの奥に死体を隠した。小野山総一郎は年寄りだし、日本ではそれほど著名ではない芸術家だから、そうやって葬っても誰も気付いたりしない。だけど、吉川くんやその周辺だけは、小野山総一郎は姿を消してはいるけれど生きていると思い続けているし、だからいずれ不在に気付く可能性をもっている。たま子は小野山総一郎が僕のKブレンドを愛飲していたことを思い出し、それとなく吉川くんに僕の存在を伝え、前もって送り付けておいた『山岸めぐみ』の手紙の筆跡と一致するようにする。どこかで小野山総一郎は生きているんだろうと思わせる偽の証拠を作り込むために、とか」
「『山岸めぐみ』の手紙を書いたのも小野山だろうと我々が思い込むように、ですか。新田郡といったどこかわからない土地の消印まで押して、なんとかして恵三さんの家のポストに入れるなんてことは、何か手が込み過ぎているようにも思うけれど、一旦その線で考えてみるとすると、小野山総一郎を体裁上、生存させるための偽証作りとしては、まあ、あり得ないことはないですね。もしも、失踪届を出す人がいなければ小野山は書類上生きていることになり、誰かに消息を尋ねられても、管理人のたま子が『おでかけになっております』と言い続ける限り、誰も不思議とも思わないでしょうね。どうしてたま子がそんなことをするのかというのも、邸宅の所有権を次の相続者に渡さなくてすむからという動機ならあり得る。ずっと管理者としてそこに居続けることができますから。ほお、恵三さんは文学嫌いだとか言いながら、けっこういける口じゃないですか? これは文学的推察ですよ、それ。まあ推理に過ぎず、科学的ではないから、科学者なんかからは妄想だと叱られるパターンですけどね」
 太一は笑いながらからかうように言いつつも、本気で驚く。――まさか恵三がこのような鋭い洞察をするとは考えてもみなかった。
「僕はミステリーだけは読むの。推理小説と言うんだっけ? だけど、あれは文学じゃないんでしょ?」
「全ての文学はミステリー、推理小説ですよ。前に小説講座に通っていた時に先生がそう仰っていた。純文学だって、その先が知りたいから読み進めることにはなんら変わりないんだからって」
「だったら僕は、文学が好きということになるけど。シャーロックホームズ、アガサクリスティのもの、松本清張、東野圭吾、夏木静子、西村京太郎、いろいろ読むよ」
「それだけ読めば大したものだ。このKブレンドの制作はどこか化学的だし、事件の推察は文学的だし、はっきり言って恵三さんはインテリですね」
「ミステリーばっかり読んでいる珈琲屋なのにインテリなんて言われたら妙な気分だよ。それに、インテリって頭でっかちで、現場では全く使えない人のことを指すんじゃなかったっけ? 前に母がそう言っていた。僕はちゃんと珈琲を淹れられるからインテリなんかじゃないよ」
 照れながら目を細めて笑う。「いずれにしても、たぶん小野山総一郎は死んでいる。そんな気がする。きっと細谷たま子が殺したんだ。僕のこういう勘はだいたい当たる。だけどこの先随分と長い間死体は発覚もしないだろう。いろんなお客さんとの付き合いの中でわかってきたのだけど、そういう死に方は珍しいミステリー小説の中でなくても、現実的にもけっこうあるものだよ。あるお客さんの件で『近頃、常連のあの人来ないね』と話題になって、心配になって常連仲間たちが揃って家に行ったことがあった。するとよく知らない女が居て『あの人はおでかけです。御用があれば承りますが』と言って取り次いでくれなかったんだ。道を歩いていた近所の人に何気なく尋ねたら、『やっぱりそう言えば近頃見かけないねえ』と言ったそうだよ。その後どうなったのと常連たちに聞いても、関わらない方がよさそうと言って藪の中。家族でもないのに顔見知りだというだけで警察に調べてもらうというのも難しいみたい。だってストーカーみたいでしょ。見かけなくなったお客さんの住んでいた家は小野山総一郎の家と同じで豪邸なんだ。屋敷内のどこかに隠されたら死体になっていたとしても気付かれない可能性もある。そういう話は他にも三つか四つ、実際に聞いたことがあるよ。誰からも捜索願を出してもらえない人間ってのは、この不完全な社会にはいっぱいいるんだ。僕だってどこか知らない土地でひょんなことで死んでいたとしても、もしも太一さんがいなかったら、あの珈琲屋の人最近見ないねえで終わりだよ。太一さんは心配してくれると信じているけど」
「もちろん、恵三さんがいなくなったら探すけど、僕だけじゃなく、山岸くんもいるじゃないか」
 太一が言うと、恵三は首を横に振った。
「今回のめぐみさんの事件に対する山岸の対応を見ていると、どうもそういう人情はない人だという気がする。ちょっと心配しても、まあいいか、触らぬ神に祟りなしといって何も動かないのであれば、珈琲屋の常連客たちと同じだよ」
「それはそうと、どうして、小野山総一郎の家に恵三さんのKブレンドの袋がたくさんあったのかな。Kブレンドの中に含まれている特殊な豆はお母さんの頃から引き継いだものだとしても、ブレンドは恵三さんが始めたものでしょう? 小野山総一郎が買い込んで飲んでいたというのなら、小野山は恵三さんの代になってからもこの喫茶店に足を運んでいることになりますね。あるいは知り合いが買って小野山に渡しているとか。たとえば、細谷たま子が買いに来ているとか?」
「細谷たま子という名前の人は知らないし、年配の女性はほとんどうちには来ない。それに、僕はこれをそんなにたくさん売った覚えはないよ。そもそも大量生産なんて出来ない商品なんだ。たぶん、このKブレンドを入れる紙袋と同じ種類の茶封筒が大量に重ねてあり、その上で手前の辺りにKブレンドのものが五枚も置いてあれば、残りの全部がKブレンドだと思い込むだろうとのトリックじゃないかな。わざわざそんなことをする動機はわからないけれど」
「ここまでの恵三さんの推理を一応正しいものと考えてみると、手紙にしろKブレンドにしろ、細谷たま子は恵三さんのことを強く意識していることになりますね。それはどうしてでしょう」
 太一はぬるくなったグラスの水を飲み干した。すかさず、恵三は空になったグラスに水を注ぎ足す。「ノートに挟んであった小野山総一郎の若い頃の写真を見せた時に、恵三さんは小野山の顔に見覚えがあると言っていたけど、もし恵三さんのお母さんがここでお店をやっていた時に本当に小野山が客として来ていたのだとしたら、何かそのことが関係あるかもしれないですね」
「母と小野山の間に何か関係があったのかもしれないってこと?」
「恋愛沙汰を疑っているわけじゃないですよ。でも、恵三さんがなんとなくでも小野山の顔に見覚えがあるのだったら、今回の件とのつながりをもはや否定はできないでしょう」
 太一が言うと、恵三は目だけを天井に向けて黙り込み、ふーんと唸って考え込んだ。
「太一さん、どっちにしても、Q村神隠し事件の謎を解く鍵は細谷たま子と小野山総一郎にありそうだよ。小野山のノート、じっくりと読んでいくしかない」
「細谷たま子が言う通り、小野山総一郎が書いたのだとしても、ツバメノートの形状や紙の状態からして、最近書かれたものであることは間違いないと思う」
 恵三は小野山総一郎のノートのページを一枚ずつ捲り、「細かなことまで書いてあるなあ」とため息をつき、一冊目の中ほどのページを捲り始めたところで、おや? と手を止めた。「土瓶で珈琲を淹れて飲む人のことが書いてある」
「細谷たま子の祖母さんでしょう? 吉川さんが聞いてきた話では、細谷たま子の祖母さんはQ村神隠し事件の被害者であり、さらに、その後結婚をしているというマレビト。その時代には珍しく自己流の淹れ方でありながらも珈琲を飲んでいた。だから行方不明にならずに助かったのだという話だったよ」
「僕はこの話を聞いたことがある。母から聞いたんだ。どうして珈琲屋をしようと思ったのかと聞いた時、子どもの頃よく尋ねていた家に土瓶で珈琲を飲む女性がいて、その部屋からはとてつもなくいい香りが漂ってきていた。それが忘れられなくて――と」
「それは、もしかして、細谷たま子の祖母さんなんでしょうかね」
「さあ、分からない」
 恵三は腕を組む。「当時、そういうのが流行していただけかもしれないし。だけど、この場所でそれが重なって知らされるということは、何か意味があるのかもしれない」
「じっくりとノートを読んでいくしかないでしょうね」
 目を合わせてうなずいた。
 二人でノートを読むことになった。
 小野山総一郎のノートは草書体ではあるけれど、丁寧に書き込まれているので読みやすく、太一は小説に引き込まれるかのように読み進めていった。

〈四月二十二日〉これは僕がここに来た日である。

 一本だけ仕切りのように引かれた罫線の向こう側にまとまるように〈四月二十二日〉とやや縮こまった字で記され、その真下の行に「これは僕がここに来た日である。」と続く。その日の分は、それだけだ。

〈四月二十三日〉ピアノの調律師が来た日。深緑色をしたつなぎの作業着を着て、銀色のアタッシュケースを下げた背の高い男が玄関に立つ。四十代か。よく日に焼けた肌は美しいカフェオレ色に輝いていた。無精髭。ぼさぼさの髪。「モーリス先生からの依頼でピアノの調律に参りました」と言った。青臭い文学青年風の僕に比べて、彼は猛々しい運動選手風だと思った。それでアルバイトのために調律をするのかと勘違いしたのだ。ピアノの部屋に通した後、僕は下の書斎でギリシア彫刻のレプリカに関する論文を書いていた。調律するためのたどたどしい音がしばらく聞こえた後、ショパンのポロネーズ第六番変イ長調「英雄」が鳴り始めた。驚いてピアノの部屋に行き、僕は聴き惚れる。ピアニストなのかと聞くと、いいえ、と否定。「ショパニストです」「それだけでやっていけるの?」「いいえ。だからこのように調律をしております」無粋なことを聞いてしまった。そう言えば、ピアノの調律師の名前を聞くのを忘れた。当面、深緑のショパニストと呼ぶことにした。

〈四月二十四日〉これは僕がここに来てから三日目である。

〈四月二十五日〉モーリスに電話をし、「深緑のショパニストがピアノの調律を致しました。お代金はそちらに請求するとのこと」と言うと、モーリスは頼んだ覚えはない、と言う。調律師の名前は? と聞かれてさらに困惑。聞くのを忘れました。「総一郎はまだ慣れないから仕方がないけれど、これからもそういう輩が次々と訪れる。高い料金を請求しようというのだろう。気を付けて」とモーリスから注意を受ける。気を付けよう。

〈四月二十六日〉モーリスから電話があり「昨日の件は僕の間違いだった」と言う。深緑のショパニストはモーリスの秘書が頼んだピアノ調律師である。モーリスはその秘書と不倫関係にあるが、深緑のショパニストであるピアノ調律師は秘書の恋人だそうだ。「恋人の恋人に仕事を与えるのですか?」と余計な質問をしてしまった。「彼は大事な人だ。僕の妻へのよい言い訳になるからね」とひそやかな声。よくわからない世界である。「いずれにしても、突然誰かが仕事だと訪問してきたら、秘書に連絡をとって、確かなことかどうか聞きなさい」と言う。ピアノ調律師の名前はポール。

〈四月二十七日〉これは僕がここに来てから六日目である。

〈四月二十八日〉これは僕がここに来てから七日目である。

〈四月二十九日〉この辺り、立派なのは建物ばかりでカフェもなければレストランもない。それはそうだろう。普通はお抱えのシェフや運転手が居るはずだ。無駄に大きな台所には、やはり大きな冷蔵庫がひとつ。塩漬け肉とチーズ、トニックウォーター、冷凍のパスタソース数種類が一応入っているだけ。各種乾燥パスタ、玉葱、ジャガイモ、ニンニク、オリーブオイル、林檎、オレンジ、ドライフルーツ、オートミール等が棚に入っていたり、吊るしてあったりするのだが、これで、どうすればいいのか。この一週間、ひたすらパスタとクラッカーとチーズと塩漬け肉である。ワインはある。ワイン用の部屋があって、どれでも飲んでいいそうだが、気軽な様子でロマネコンチィがあって驚いた。飲んだら叱られるだろうか。とりあえず、いかり肩のボルドー赤をひとつ開けた。瓶の底に葡萄の屑が沈殿していて感動もの。今日こそカフェオレが飲みたいがインスタントすらない。

〈四月三十日〉裏庭の林でヴェスパらしき単車発見し、それにて下界へ。やはりカフェは見つからない。しかたがないのでインスタントコーヒーとクリープを購入。稲荷寿司やら蕎麦、米等を買う。夜、モーリスから電話があって、ヴェスパに乗っていいですよと言う。「今日から、もう乗っています」とも言えないが、見られているかのようでそら恐ろしい。燃料は倉庫にあるらしいので、後で継ぎ足そう。

  ……

 〈十二月十五日〉たま子さんのご自宅へ。外から見ると、まるで寺院のような日本家屋だが中に入ると庭の灌木にはクリスマスツリーの飾りがぶら下がっていて、小窓にはステンドグラスが施されていた。玄関にも生々しいキリスト像が掲げられ、かつての隠れキリシタンみたいな風情。問題の祖母さんの部屋は廊下の一番奥にあり、障子を開けると炬燵のある部屋があって、日本人形のような年寄りの女がぽつんと座っていた。強烈な珈琲の匂い。たった今淹れたというだけではなく、長年ここで珈琲を淹れ続けて、琥珀色の匂いがそこら中に染み付いたような部屋だ。たま子さんが「おばあちゃん、お客さん連れて来ましたよ、珈琲の話をして差し上げて」と言い、中に入る。
たま子の祖母さんの名前はフサエだとか。字はわからない。驚いたことにフサエは今でも土瓶で珈琲を淹れて飲む。フサエの従兄がブラジルで珈琲農園をしていて、そこで採れた豆が船便で届いたらフライパンで焙煎し、それを砕いて漢方薬を製造するための碾き(ひき)臼で丁寧に粉にし、備前焼の土瓶に入れてお茶を淹れるようにして抽出し、茶こしで濾して湯呑で飲むという。どうしてそのやり方にこだわるのかと聞いたら、他のやり方を知らないだけと言った。「たま子に連れて行ってもらって喫茶店で珈琲を飲んだこともあるけど、あれはなんだか薄くてお茶みたいなもんだね」と笑う。フサエは九十近いというけれど歯はひとつも抜けていないらしく、珈琲の渋で茶色くなった歯をニッと見せて笑った。フサエの従兄から届く豆は今のところ二か所にしか分配しない豆だと言った。ひとつはフランスのニースにある保養地の薬として、もうひとつはフサエのために。その従兄が経営する農園は広々として、今ではたくさんの樹から珈琲豆が収穫できるけれども、最初はたった五本の樹しかなく、その最初の樹からとれる豆は特別な効力があるとして大切にされていて、むしろそれを引き継ぐために他の樹を植えて農園を経営しているようなものだとか。
どんな効力? と聞くと、また茶色くなった歯をニッと見せて笑う。飲んでみるかい? と言い、土瓶に入っていた珈琲を湯呑に注いでくれた。すっかり冷えている。茶こしの目地から通り抜けてしまった細かな珈琲豆の粉も浮いている。これじゃまるで漢方薬みたいなものじゃないか。しかし、一口飲むと、甘い。お砂糖が入っているのかと聞くと、いいえ、なんにも、と。しかし、ああ、飲むと、くらくら。なんだこれは。子どもが初めて珈琲を飲んだ時のような眩暈。

 ここまで読むと、恵三は腹の底から絞り出すような唸り声を上げた。
「まいったなあ。やっぱりKブレンド、大いに関係がありそうだ。この前はKブレンドの詳しい作り方については教えられないと言ったけど、小野山総一郎や細谷たま子と僕のKブレンドには深い関係があって、Q村神隠し事件にも影響しているのだとしたら、太一さんに言わないわけにはいかないなあ」
 恵三の話によると、小野山総一郎のノートに書かれているフサエが飲んでいたという珈琲豆こそは、恐らく恵三の母親が焙煎して特定の客にだけ提供していたものに違いないそうだ。「ある日本人が継承したブラジルの農園にある珈琲の樹木から採れた豆は、日本とフランスのニースの保養地のみに配布されている」との話から、間違いないだろうと言う。今ではその原木たる珈琲の樹は数十本に増やされて、以前よりも配布先が増えているだろうけれど、この樹の実からとれる豆で淹れる珈琲は特別に甘くて美味しいし、覚醒させる力が強いから大手市場に見つかると乱獲されたり、偽物が出回ったりする可能性が高いので、秘密裏かつ限定的な流通が守られていることは今でも変わりはない。様々な人が研究した結果、覚醒させる力に関して言うと、その豆が一粒でも入った珈琲は普通の珈琲よりも数段優れているということで、今ではブレンドに使われるようになり、ある程度、庶民でも手の届くような価格で提供できるようになったのだと恵三は言った。覚醒剤のような習慣性や中毒的な副作用はなく、普通のカフェインと同様に合法的に扱えるので、ごく静かに取引されているのだそうだ。
「合法的とは言え、なんだか怪しい話ですね」
 太一が言うと、恵三は、まあね、と頭を掻いた。
「だけど、どうして、恵三さんのお母さんが、そんな豆と出会ったのでしょうね」
「それに関しては、母もよくわからないと言っていた。こういう豆があるけど、使ってみないかと業者に言われて、やたらと高価だったけれど試しに入荷してみたと。母はそれをオールドにしてみた」
「オールドって?」
「倉庫で数年間保管し、熟成させてから焙煎する方法」
「なんで、そんなこと?」
「たぶん、最初のうちは、こんな特殊な豆がいつまでも手に入るかどうかわからないと考えたんじゃないかな。貴重な豆らしいから保管しようと思って始めたことだろうけど、結果的には意外と定期的に手に入ったんだね。僕の世代になってもまだ手に入るんだから。それでもオールドにする習慣だけは残ってしまったけど。僕も母から引き継いだ通り、オールドにしてから焙煎しKブレンドに混ぜている」
「オールドにすることで、味や効果が変わったりするんですか」
「ストレートで飲んでみる? オールドにしたからかどうかは比較できないからどうとも言えないけれど、でも飲めばなんとなく納得できると思うよ。百聞は一飲にしかず、なんてね」
 返事をする前に、恵三は淹れる準備を始めていた。
 どうぞ、と出された珈琲は、見た目にはいつもの珈琲とそれほどの違いはなく、艶々とした焦げ茶色で透き通っていた。オールドだと言うし、フサエの話からもっとドロドロした液体を想像していたけれど、新鮮な香りを放つ綺麗な液体だった。しかし、一口飲んでみると、これまでに飲んだことのある珈琲という飲み物とは全く違ったものだった。バーボンを初めて飲んだ時のように、まずは脳天にくる。舌の奥に強い酸味の刺激を与えた後は、喉の奥をコクのある甘味でじりじりと塗りつぶしながら胃に落ちていく。二口も飲むと奥歯から耳奥にかけてのラインが一気にじわっと血流の動くような感じがして、ほおと声を出さずにはいられない。
「生き物みたいですね」
 太一は強い衝撃を感じ、目をぎゅっと閉じたり大きく見開いたりせずにはいられなかった。
「その通り」
 恵三は嬉しそうに言い、自分自身も一口飲み、うっわあと声を上げる。「久しぶりにストレートで飲んだけれど、珈琲なんていう生易しいものじゃないなあ。うまく淹れた。入荷してすぐに焙煎しても他の豆との違いはあるけれど、オールドにすることで、むしろこんな風に生き生きとする。古くなるほどに生命力が中心から溢れ出て来て、個性の強い自己主張をするようになるなんて、本来あるべき人間の年の重ね方に似ているでしょ」
 太一はまたあの沖縄で体験した大繩の綱引き祭りを思い出す。熱気と興奮と太いエネルギーが地の底から立ち昇って、どこか別の宇宙に投げ出されそうな気がした。だけど地に足は着いている。着いているどころか大地の中心にがっしりと掴まれて、逃れられないほどのつながりが生まれたのだとさえ思える。体内の細胞や筋肉が窮屈そうに躍動している。
「刺激品だろうけど、酒とは違いますね」
「そう。酔うのではない。むしろ覚醒。深い覚醒って、白けたものじゃなくて、こんな風に生々しい力があるものなんだ」
「危険なのでは?」
 太一はちかちかするほどの力に驚いていた。
 二人はノートの読み込みを再開した。しばらく黙って、それぞれが、それぞれのペースで読む。
 太一は前から順番に目を通していったが、最初から三分の二ほどの位置までくると、おや? と思う。小野山のノートの中にひょっとすると、これが恵三の母親ではないかと思える記述があった。名前はヨウコ。確かに恵三の母親の名前は蓉子だ。

 〈十二月二十三日〉それにしてもこの辺りにはカフェがない。何年もこのままインスタントコーヒーを飲むわけにはいかない。あのフサエの土瓶で抽出した珈琲を飲んでしまったせいで、再び本物の珈琲が飲みたくなってしまった。少し遠出でもすれば見つかるのだろうけれど、日々の細々とした仕事が多くてなかなかそうもいかない。

 〈十二月二十四日〉神隠し事件遭遇者を紹介される。戻って来た人、つまりフランス語の会の人たちが言う「成功した人」だ。年齢は十七歳。若い。家族とクリスマスや年末の準備をするための買い物をしている途中で失踪し、翌日、その百貨店の子供服売り場でうずくまっているところを保護された。かつて僕が教えたことのある美術学校の生徒であるらしく、その経緯で紹介された。どうして紹介されなければいけないのかはわからなかったが、当該百貨店の最上階にある甘味処で短い会話を試みた。しかし、会話にはならなかった。行きたいところはないかと聞くと、隣の店に行きたいと言う。僕は彼女が食べなかったあんみつを代わりに平らげ、隣にある洋食屋に。お腹が空いたのかと聞くと首を横にふり、珈琲が飲みたいと言った。珈琲? あるのか。店員に聞くとサイフォンで淹れると言う。意外だった。喫茶店なんてどこにもないと思っていたけれど、こんな百貨店にはあった。店員に珈琲はよく売れるのかと聞くと、お客様はご婦人が多いので紅茶の方を注文される方が多いけれど珈琲を頼まれる方もいます、と言った。紹介された「成功者」である女性は珈琲を飲み、できれば美術の勉強は続けたいと言った。そのようにご両親に言ってあげると言うと少し微笑んだ。時々会いましょうと提案すると、黙ってうなずく。

〈十二月二十五日〉当館にフランス語の会の人々が集まる。僕自身とは何の関係もないのだが、写生をするように頼まれたり、珍しいブランデーを飲むように勧められたりするので席を外すことはできない。紹介した「成功者」とは話をすることができたのかと聞かれる。ほとんどできなかったと答え、時々会うことにしたとは教えなかった。彼らの内情はよく知らないが、どうやら「成功者」と会員でペアを作ってお付き合いをする仕組みになっているようだ。むろん「成功者」に伴侶がいないことや家族が同意した場合のみ。お付き合いと言っても、「成功者」の性質上、ほとんどの場合は深い肉体関係になったりはしない。建前としては「成功者」が社会生活に戻れるように援助するのだという、精神科医の真似事のようなものだと。しかし、なんの訓練も受けてはいない、ただ知識だけしか持っていない僕たちに、そんなことができるのだろうか。不遇な女性に寄り添う恋人という形を弄んでいるように思えるけれど。

〈十二月三十一日〉「成功者」と会う。例の百貨店の洋食屋へ。前回は母親が付き添っていたが、今日は途中まで送ってもらい一人で来たと言う。事務的な会話はできるようになっていた。「成功者」はハヤシライスと珈琲を注文した。僕はハンバーグと珈琲。この店以外で珈琲を飲める場所を知っているかと聞くと首を横に振る。飲みたい時にはいつでもここに来るらしい。だけど自分でも煎れる人を知っているから、そこで淹れてもらうこともあるとか。フサエ?と聞くと、それも首を横に振る。どんな飲み方? と聞くと、土瓶でお茶のようにして淹れると言うから、それはフサエ流じゃないか。今度紹介してくれる? と聞くとうなずいた。フランス語の会の人たちの話によると、何年も言葉を交わせないことが多いそうだが、この「成功者」は会って二回目にして滑らかに話をする。

〈一月十二日〉「成功者」に連れられて海沿いの一軒家へ。僕のバイクの後ろに彼女を乗せた。木造の一軒家には「成功者」とそれほど年齢の変わらないと思われる女性が居て、やはりフサエ流に珈琲を淹れてくれた。名前はヨウコ。字は不明。ヨウコはかつて踊り子をしていたが妊娠したので辞めて、今ではその一軒家で占い師をしているのだとか。易や占星術などの学術的なものではなく、フサエ流の珈琲を飲み、いくつかの貝殻を麻の布の上にまき散らし、言葉を降ろすだけの簡単なものだとか。いわゆるシャーマンのようなことだろう。僕のことも占ってくれた。
まずは僕が何者か。/異国から助けにきた人。/誰を?/わたしたちを/どのように?/殺してくれる?/まさか/これから僕はどうなるの/教える/何を?/方法を/何の方法を?/いろいろなこと/誰に?/多くの人に/どういう意味?/さあ、わからないけれど、中身ではなく、方法を、教える。

〈一月二十日〉「成功者」を連れずに独りで例の海辺の一軒家へ。珈琲が飲みたい。占いはどうだっていい。だけど、占いが付いてくるのもいい。僕は彼女に喫茶店を経営したらどうかと勧めた。子どもが生まれたら、こんなことでは育てられないだろう? 喫茶店なら、子どもを寝かしつけながらでもやろうと思えばやれる。素人の喫茶店に客が来るとは思えないというから、占いをするということで、客を増やせばいいじゃないかと言った。というのも、僕はもっと頻繁に珈琲が飲みたかったのだ。飲みたくなるたびに寒い海辺の一軒家までバイクを走らせるのはきつい。もう少し街中の行きやすい場所に喫茶店があればいいと思うのだから、ヨウコに出資してもいいと思った。

〈一月二十五日〉再び海辺の一軒家へ。少し時間を置いて、喫茶店経営について考えておくと言っていたから、返事を聞こうとして訪れたのだが、驚いたことに、彼女は亡くなっていた。

「ノートにあるヨウコは亡くなっているんですから、このノートのヨウコとお母さんは関係ないでしょうね」
 恵三はそうだとも、そうではないとも言わなかった。「この小野山が『成功者』と書いている人の名前はなんだろうね。この先ずっと、『成功者』と書いてあるだけだなあ」
 そう言われてみるとそうだ。
「途中からは『成功者』の記述もないですね。後は研究のことや、珈琲の話ばかりです。ノートの記載からすると、なんでもやたら細かく書き留めてあるというのに、ヨウコのことも『成功者』のことも出てきませんね。これらに関する記述は一月二十五日でふっつりと消えている。どういうことなんだろう?」
「それに、この海沿いの一軒家って、どこにあるの?」
 恵三のその言葉で、太一は先日訪れた吉川の工房兼住居の一軒家を思い出した。
「吉川の家も海沿いの一軒家ですけど、関係あるのでしょうかね」
「どんな家?」
 がっしりとした立派な木造建築だが、吉川の話によるといわくつきで安く購入したものらしいと説明した。そう言えばと、帰りのタクシーでの不思議体験についても。
「あの日の夜のことを思い出してみる。確かに、なんとなく狐に化かされたような空気だった。ひょっとして、幻の一軒家? ってことかな」
 太一は珍しく妄想めいたことを言ってしまった。

 結局、小野山総一郎のノートに登場するヨウコが、井上恵三の母親ではないと、否定することはできなかった。また、Kブレンドに混ぜている、とある珈琲豆が、神隠し事件に遭遇した人が戻ってくることに関与していないと、否定することもできなかった。
 もちろん、肯定することも。

 ――数日後。
 太一と恵三は二回目の『標本クラブ』に参加した。

「吉川は急な用事で遅れてくる予定です」
 参加者が訪れるたびに、しんちゃんが申し訳なさそうに伝えている。太一と恵三は会場の隅に置いてあるパイプ椅子に腰かけて、吉川もそのうち来るのだろうと思っていたが、開始時間から随分経っても姿を見せることはなく、標本であるはずの球体関節人形もないままにだらだらと時間が過ぎた。しんちゃんは用意した資料を配った後、特にやることを提案したりせず、
「吉川が来るまではみなさん自由に歓談してください」
 両耳にイヤホンを着けたまま部屋の隅に座ってじっと目を閉じ、ただ時間が過ぎるのを待っているようだった。資料は前回に配られたものとほとんど同じ。被害者がイニシャルで示された名簿で、次の開催予定も記載されていないものだったが、待ちくたびれたのか諦めて帰り支度を始める人も居る。
 太一と恵三も諦めてそろそろ引き上げようかと帰り支度を始めた頃、
「あの人、来ているね」
 恵三が一人の男を指さした。「前の標本クラブの時に、僕の店に来たことがあるはずと思って話し掛けた人。手の甲にほくろがあるので覚えていた人だよ」
「恵三さんが珈琲を零してしまって、それで手を拭こうとしたらほくろがあったので記憶に残っていると言っていた人ですね」
 確認すると、恵三は、そう、と言って頷く。「写真家だと言っていた人」
 二人がちらちらと見ながら話していたので感づいたのか、男は立ち上がってこちらに近付いて来た。
 四十代くらいだろうか。それにしては余分な脂肪もなくすらりとして、ブラックデニムが似合っている。なんということもない白のTシャツと片方の肩にラフにかけた古ぼけた紺のリュック。左腕にはごつごつとしたクロノグラフの腕時計だ。写真家らしくほどよく日焼けしている。野性味のある芸術家といったところか。
「井上恵三さん、でしたよね」
 男は二人の前に立った。「前回、お話をした時、僕は名前を言わなかったかなと思って。写真家です。覚えていらっしゃいますか」太一と恵三のそれぞれに名刺をくれる。『立花敏樹』と書いてあった。
 恵三は、はいはい、覚えてますよ、とにこやかに立ち上がり、近くにあったパイプ椅子を近寄せて、立花敏樹に座るようにと促した。
「実は、恵三さんのお店、行ったことがありました。前は、行ったことがないと言いましたけれど、思い出しました。一度だけ、行った」
「でしょう?」
 恵三は笑顔になり声を高くする。「ほおら、言った通りだ」腕組みをして、得意そうに太一をちらりと見る。
「あの時は恵三さんのお店の近くに雑誌の撮影の仕事があって、取材を終えてライターさんと別れた後、少し休憩したいと思って見渡したら喫茶店があったので入りました。地元の人が大切にしているような、ですよね。それが恵三さんのお店。実を言うと珈琲は大好物で、それも自分で毎朝淹れるほどです。ですから味にこだわりがありすぎて、普段はほとんど喫茶店には行かないのです。行ってもカフェと言われるものくらいで、ジンジャーエールくらいしか飲みません。あの時はサイフォンコーヒーが珍しいから注文したけれど」
 敏樹は恵三に向かってすまなさそうに笑いかける。
「珈琲、家ではどうやって淹れるの?」
「ドリップです。忙しい時はペーパードリップで、時間がある時はネルドリップ」
「それはなかなかのものだね」
 恵三が素っ頓狂な声を出す。「ひょっとして僕の淹れたサイフォンコーヒーは口に合わなかったのでは?」横目で睨む。
 敏樹は軽く否定しつつも、
「実際、ドリップの方が好みなのは好みです」
 はっきりと本音らしきことを言った。「ところで、珈琲と言えば、ですけれども、この神隠し事件と関わりがあるかもしれないと聞いたものですから――」
 敏樹が細谷たま子から聞いた話を始めたが、太一と恵三はもうその話を知っていると伝えた。
「研究会の帰りに待ち伏せされて、タクシーで吉川さんの家まで連れて行かれました。そこで、小野山総一郎さんの書いたノートを見せて頂きました」
「吉川劉星が太一さんを家に誘ったとは珍しい。あの人、あまりこの会の人を自宅に呼んだことはないはず」
「事件と珈琲の関係があったから、その件について話したかったらしい。本当は恵三さんの方に用があったみたいです」
 なるほどそういうことかと敏樹は納得した表情を見せた。
「それにしても、吉川さんは来ないようですね」
 太一は時計を見た。「どうしたのかな」
「吉川は来ないんじゃないかな。実を言うと、細谷たま子の家に二人で行ってから、彼とは電話での連絡も取れなくなっています」
 敏樹も時計を見た。
「吉川さんは電話に出ないだけで家には居るのでしょうか。なんだか、いわくつきの家だとか仰ってましたけど」
「さっき、しんちゃんに聞いても、吉川さんとは連絡がとれなくなっていて、彼がどうしているのか、実際のところよく分からないと言うし」
 敏樹は不安そうに腕時計の表面を撫でている。
「敏樹さんは吉川の家がどこにあるか知ってるの?」
 恵三がきょろりと黒目を動かして敏樹を見る。
「僕は写真家として、長くこの『標本クラブ』に関わってきました。だから、打ち合わせもあり時々吉川家には行っていました。そうだ、もしよかったら、この後、三人で行ってみましょうか。僕は今、撮影の帰りで、機材を積んだ車をコインパーキングに停めてありますから」
 太一と恵三は目を合わせる。どうしようか。
「いいですね。行きましょう」
 太一は同意した。タクシー怪事件のせいでもやもやしていた気持ちも払拭したい。狸に化かされて異次元に迷い込んだわけではないことを、確信したかった。
 駐車してあった敏樹の車は、近頃ではあまり見かけなくなったバックにタイヤを背負っている4WDだった。淡く化学薬品的なコロンの香りがする。気付かなかったけれど敏樹自身が身に着けているものが車内に染み付いているのかもしれないし、車用のコロンかもしれない。ドアを閉めると、鼓膜に軽く圧力がかかって車内の気圧も上がる。敏樹が細く窓を開けると、風が細く車内に入り込んできた。
 車はいくつかの角を折れたり信号を越えたりするうちに海沿いに出た。そこからは国道を延々と直進する。窓から入り込む風にも潮の香りが混ざる。窓に映る黒い海には遠くに島があり、灯台が蛍のように弱く灯っていて、それは曇った夜空にどうにか浮かんでいる名前のわからない星のように、今にも消えてなくなりそうだった。
 海岸沿いにはテトラポットが並んでいる。敏樹は、道路脇の空き地に車を停めた。その対面に吉川の家があると言う。太一はこんなところだったのかと車窓から外を見る。タクシーで辿り着いた時に見たはずの風景をあまり思い出せない。
「やっぱり吉川さん、いないのかなあ。部屋の灯りが着いていない。もう寝ているなんてことはないだろうし」
 敏樹が目を細めて道路の向こうを見ている。
 車の中でずっと黙り込んでいた恵三はやはり何も話さないまま車を降り、太一もその後に続いた。
 生温かい潮風が皮膚の上を渡り、行っては返す静かな波の音が聞こえる。空は海と同じように暗い煙色だった。厚い雲に覆われているらしく、星はほとんど見えない。まっすぐに続く国道に沿って街灯がポツンポツンと並び、遠くの方には点滅している黄色信号が見える。乗用車が一台、目の前を猛スピードで通り過ぎた。
「この辺りの夜は暗いなあ。僕もこんな時間に来たことがなかったので、いつもとは違う場所のように思える」
 敏樹は車のクランクから懐中電灯を二つ取り出してきた。「これ、持って行きましょう」ひとつを恵三に渡した。「表玄関に鍵が掛かっていたとしても、裏庭の勝手口から中に入れるかもしれないから」
 玄関の扉に鍵は掛かっていなかった。
「吉川さん」
 敏樹が声を張り上げる。返事はない。「いないんですか」玄関の灯りを点けた。
「間違いなく、ここだった?」
 恵三がそっと太一に聞く。太一はうなずく。玄関の靴箱の上に飾ってある折り紙細工の毬は覚えている。水色とピンクと白の色紙で折られている。そんなものを吉川が作るとは思えないし、誰かが作って吉川に渡したのだろうけれど、昔ながらの温かさを彼に与える人間がいるのかと思って、なんとなくほっと安心したのだった。しかもそれを与えられるがままに受け入れて玄関に飾っているとは、人間らしいところもあるじゃないかと思ったのだ。
 敏樹が居間の引き戸をがらりと開ける。「いないんですか」
 なんとなく仏壇に供える線香の匂いがした。
「吉川さん、死んでいたりして」
 また、恵三が太一に囁く。まさか、と答えつつも、あり得なくもないと背筋が寒くなった。
 天井からぶら下がっている蛍光灯の紐を引く。居間にはテーブルがあり、その上には湯呑二つと急須が置いたままになっていた。
「いないですね」
 急須の中の茶葉も湯呑の底もからからに乾いていて、誰かがここでお茶を飲んでから長い時間が経っていることを思わせた。
「二階にいらっしゃるのじゃないでしょうか。そう言えば、真美子さんという方の人形が二階に運び込んでありました。細谷たま子に頼まれて、こちらで引き取ったのだと。吉川さんは二階が工房だと仰っていたから、ひょっとしたら今は作業でもされているのでは?」
 太一は階段の下まで行き、灯りを点けた。三人は一列になってぎしぎし鳴る階段を上って、無言のまま二階へと向かう。
 階段を上がってひとつめの部屋には、この前と同じように作りかけの球体関節人形のパーツが作業台の上に並べてある。敏樹が電灯のスイッチを入れると、人形たちの白い手足や胴体がぼおっと明るく浮き上がって見え、どこかの海岸沿いに落ちている貝殻や珊瑚の死骸に見えた。生き物の一部ではあったのだが、血も通わなければ呼吸もしない欠片たち。組み立てれば物質的な形になるけれど、中身はどこかに逃げ出している。
「人形の腕やら足やらと言っても、ひとつずつ生きているみたい」
 珍しそうに恵三が手に取った。「内側は空洞だ」ひっくり返して覗いたりもしている。
 何度も吉川の名を呼んだけれど返事もなく、その部屋にもいないようだった。
「真美子の人形は向こうの部屋ですね」
「前に吉川さんに連れられてきた時にはそうでした」
 三人は吉川のデスクの横を通り抜ける。
 太一は棚にあるコニャックの瓶を見て、吉川と二人でグラスを傾けたことを思い出す。製作する球体関節人形ひとつひとつにスケッチブック一冊分の設計書があるのだった。背景と歴史を創造すると言った。
「吉川さん、いるんですか」
 敏樹が先頭に立って奥の「真美子人形」が陳列されている部屋に入って行き、灯りを点ける。
「なんだ、これは!」
 後から入って行った二人も、あっ、と声を上げる。
 三人ともが身を固くして、数秒間、次の言葉を発することができない。
 部屋の中にはめちゃくちゃに壊された人形がばらまかれていた。手足がもぎ取られているものもあれば、首がぐるりと捻じ曲げられて、背中側に向いているものもある。髪は逆立っていたり、片側だけ引きちぎられていたりする。中には目が取れてしまっているものさえあった。
「ひどすぎるよ」
 やっと恵三がもう一歩部屋の中に入った。「誰がやったんだ」
 太一の瞳には思わず涙が滲んだ。以前、吉川に案内されてここに来て真美子人形を見た日には、生まれ育った時から順番に並べられ静かに眠るように横たわっていた。あの時も死体安置所のように思えなくはなかったが、所詮人形だろうと思えた。皮膚は特殊な粘土であり髪は人工のかつら用のものだ。目は硝子玉だし、赤みは体温で湧き上がってくる血液を透過したものではなく油絵具を薄めて塗ったものだ。生き物ではないことくらいわかった。
 だが、たとえ人形であっても、ハンマーか何かで叩き壊され、力づくで、無理に引き千切られ、こうしてあまりにも無残な姿になってしまうと、まさに暴力を加えられた後の死体そのものだった。こうして死体になったということは、その前は生きていたかのように錯覚される。そもそも真美子が成長するに従って脱ぎ捨て、置き去りにしてきた抜け殻としての痕跡でしかなかった人形たちは、最初から生きてはいなかったのにも関わらず、改めて再確認のように死んだのだった。
 ずっと黙り込んでいた敏樹が、
「きっと、吉川本人がやったんだ」
 腹の底から絞り出すように言った。
「どうしてわかるの?」
 恵三はひとつの人形の横に跪いて、ねじれてしまった腕をもとに戻してやろうとしていた。
「どうか触らないでやってください!」
 敏樹が声を大きくしたので、恵三はびくっとして人形に触れるのやめた。
「だけどこんなこと、狂っているよ」
「恵三さんが仰りたいことはわかります。こんなことをやれるのは吉川しかいない。真美子のことがあってからというもの、淡々としていながらも、ずっと悩んでいたことを僕は見てきたから、この壊し方をするのは吉川だと確信できる。これが彼なりの結論だ。どうしてこんなことをやったのか僕にはわかる」
「どうして、こんなことをやったの?」
 恵三の問いには答えず、敏樹はしばらくじっと下唇を軽く噛んだままでいた。掌で自分の頬を何度も擦っている。「僕の方こそトラウマになりそうだよ、こんなの」恵三は今にも泣き出しそうな声で言った。
「僕は真美子の同級生だったというだけでこの事件に関与することになってしまいましたが、最初は事件そのものにはそれほど興味がなくて、写真家として球体関節人形の撮影をすることにだけ関心がありました。それで吉川さんたちと付き合っていた。どちらかと言うと人物を撮るのが苦手で、光などの抽象ばかり撮影してきたけれど、人形ならうまく撮れるだろうかと考えたりもして。でも正直、僕には人形は物にしか見えませんでした。吉川さんが人形作りを仕事にする意味もよくわからなかった。だけど今、人形が死体みたいに壊されて初めて、何か、こうなる前にはこの人形があたかも生きていたかのように思えてもきます。人形から伝わってくる僕自身の心の痛みのせいで、人形たちにも命があったかのように。吉川さんが求めていた生命のある人形とは、この破壊された姿でしか表現できなかったのかもしれません」
「ということは、彼の球体関節人形としては、これが最高傑作ということですね」
「これがある意味、吉川さんにとっての最後の真美子人形としての作品?」
 恵三はとうとう涙ぐんでいた。
「撮影しておきます」
 敏樹がきっぱりと言う。「不謹慎かもしれないけれど、お二人の言われる通り、これが彼の最高傑作であり、作品だと言うのなら、撮影するのが僕の仕事だ」
 敏樹は海岸沿いに停めた車に戻って、カメラやライトなどの機材を持ち出し、壊された人形一体ずつを丁寧に撮影し始めた。
 人形は叩き壊されただけではなく、衣類の剥ぎ取られたところをよく見ると、肌に傷や血の跡が描き込まれていた。
「この傷はいつ描かれたのでしょう。元からありましたか?」
 太一が敏樹に尋ねると、正確には分からないと言った。
「いつも衣類を着けた状態の撮影を頼まれていましたから。とは言え、顔や腕、足の見える部分は傷のない状態だったと思いますから、これなんかは、後から描いたのではないかと思います」
 人形の頬や足には痣のような薄い桃色の染みがある。わずかに新しい色彩のようにも見えた。
 敏樹は無言のまま、あらゆる角度から壊れた人形たちにレンズを向け、シャッターを切り続けていた。

「太一さん、こっち来て」
 恵三がひそやかな声で呼ぶ。隣の部屋を探索していたらしい。
「見てこれ、例の新田郡だよ」
 恵三が頬を紅潮させて太一に差し出す。「新田郡」の消印を偽造したと思われるハンコが見つかったのだった。横にあったインクで紙に試してみたらしく、確かに「新田郡」と押されて、中央は空いている。日付は後から内側に押すように出来ているのだろう。
「ということは、吉川が恵三さんに手紙を送り付けていたのですか? 細谷たま子じゃなくて」
 太一はハンコをしみじみと眺める。「ブルーインクの小野山のノートも全部そう?」
「そこまではわからないけど、そいつら全部グルなんじゃないか」
 太一と恵三は人形のパーツが置いてある部屋の中を歩き始めた。部屋の隅に設置してあるテーブルには使用後のマグカップや、コンビニで買って食べたと思われる弁当の容器やカフェオレの紙パック、煙草の吸殻が数本入った灰皿がある。テーブルの足下には人形の材料であるらしいドール用粘土の入った段ボール箱、金属製のヤスリや絵筆、ハサミ、接着剤、ミシン、裁縫道具、絵の具、鉛筆が所狭しと並んでいる。
 作業机の上には描きかけの設計用紙があり、太一は、おや? と目を凝らして見た。5ミリ方眼のプロジェクトペーパーに薄い鉛筆で胸から上の女性が描かれている。手に取ると、その下にはもう一枚、スカートを履いた下半身のスケッチだ。なんとなく見たことのある女性のように思う。積んである用紙の横には写真立てがあり、一枚のポートレートが入っていた。
 これは一体? ひょっとして、さとこさん?
「さと子さん!」
 思わず声を出してしまった。「すっかり全部、バレているじゃないですか。どうにか隠したままで被害者登録されずに治ってしまえばいいと考えていたのに」
「太一さんの気持ちはわかるよ。『標本クラブ』の人形にされるのは、痛々しいからね」
 恵三が静かに言う。「そのメモの番号は被害者番号だね」メモの上に書いてある番号を指さした。Q7S0h021と記されている。「さっき、本棚に、その番号のシールが貼ってあるファイルがあったよ」
 製作中と仕切られたエリアに数冊のファイルがあり、そのうちのひとつがさと子のものだった。開くと、細かなサイズや肌の色の他に、成育歴や何枚もの写真、指紋を写し取ったもの、髪の毛の一部が収めてあった。
「これも吉川の作品だとしたら、太一さんの知り合いのさと子さんという人の、あたかも真実であるかのように仕組んだフェイク資料なのかもしれないよ」
 本棚の下には、やはりさと子のものと思われる被害者番号の記された箱があって、発泡スチロールを削った頭部があった。
「これに粘土を被せて型を取るのかもしれません」
 発砲スチロールの頭部にはマジックペンで被害者番号Q7S0h021と書き込まれていた。
 太一はその発泡スチロールを両手で包み込むようにして持った。軽い。実際にはこれに粘土や髪が乗せられるのだから、もう少し大きく、重くなるのだろうけれど、芯材となる発泡スチロールはあまりにも軽く、きゅきゅと鳴る素材の軽薄さが悲しかった。
 太一は父親が亡くなった時のことを思い出した。息を引き取った後の肉体は人形のように動かなくなって、お通夜で見守っていると徐々にぬくもりは消えていった。話しかけても当然口を開いて返事はしない。霊がいたとして心は通じていたとしても、目の前の肉体が言葉を聞いているわけではなかった。お葬式の後、火葬場から取り出された骨を骨壺に移す作業をした時にも、箸でつまんだ骨は異様に軽く、何十年と人生の荒波を潜り抜けてきた存在だとはとても思えなかった。肉体は内側にいた意識が離れてしまうと、まるで道に落ちている石ころや、今目にしている人形のパーツとそれほど変わりはなかった。もとから肉体は人間を乗せて淡々と仕事をしているだけなのだろうか。人間の肉体と人形の間にはそれほどの違いがないかのように思えて来て、その軽さに泣けてきそうだった。
 これが、いずれさと子の人形になる。その芯。軽々しく経歴や事件のことをプロファイリングされて、写真と共に保管されているさと子。なおやが見るとどんな気持ちになるだろう。ひょっとして、美弥子のファイルだって、事件を操作している者たちの保管庫の中に仕舞われていて、いつかの出番を待機させられているのかもしれないとさえ思う。
「せめて、そのさと子さんの分だけは、こっそり持って帰ろうか。パーツも設計も、写真もファイルも」
 恵三が耳元で言う。「敏樹くんが必死で真美子さんの人形の撮影している間に、こっちは部屋に落ちている紙袋かなんかに、さと子さんの人形になる可能性をひとつ残らず詰め込んで。そして、持って帰って焼き捨ててしまえばいいじゃない。誰かの思い通りに、人形なんかにされてたまるか」
 発泡スチロールの頭部を持ったまま暗い気持ちになりかけた太一だったが、恵三の咄嗟の機転が一筋の明るい光となって射し込んだ。

(第五章 了)》

※ここまでの解説
 あらすじ。
 山岸の妻からの手紙を読み終えた太一は用事を済ませた後、珍しく夕方に自宅に戻った。妻が居て珈琲を淹れてくれる。それは恵三の焙煎した豆だと言った。
 その後、Q村神隠し事件研究会に出席し、帰り道で吉川に呼び止められた。自宅に来て欲しいと言う。恵三の珈琲と神隠し事件の関係について話したいと言うのだった。太一はそこで細谷たま子がした話を聞き、小野山総一郎のが書いたというノートを預かり、真美子という神隠し遭遇者を象った球体関節人形を見た。(帰りに幽霊タクシーに乗る。)
 後日、恵三と小野山総一郎のが書いたというノートを読む。ツバメノートの形状から、これはのちに誰かが複製したか、あるいは捏造したものだろうと考えられた。ノートには珈琲のことや、恵三の母親を思わせる人物のことが書かれていた。
 次に太一と恵三が『標本クラブ』に参加した時、吉川は来なかった。それでお開きとなった後、敏樹が太一と恵三を吉川の自宅に誘う。吉川と連絡が取れなくなっているから一緒に見に行きたいと言う。
 三人が行くと、吉川は不在で、真美子を象った球体関節人形は破壊されていた。敏樹がそれを吉川なりの結論、人形作家としての最高傑作と言い撮影を始める。その間に別部屋にて、太一はさとこの人形を作る前の設計やパーツと思われるものを発見し激怒する。恵三の発案で、それらを紙袋に入れて持ち去ることにした。

 さて解説だが、やはりなかなか濃い。
 これまで、新型コロナウイルスのパンデミックの予知の部分もあるだろうと考えてきたのだが、それ以外にも、吉川の行った「人形の破壊」からは様々なことが考えられる。
 新型コロナウイルスや、その他のニュースとの関連以外に、私個人的なこととの関連もあったのだ。
 2017年ころから書き始めた小説だが、私自身がなにか悪魔的なものの存在を内奥の眼で見据えていたのだと気付く。2020年に起きたとある出来事、その悪魔的なものに対するフォーカスがこの小説なのだと、ここまで読み直したらわかった。具体的に書くことは避けるが、この熱量たっぷりの小説を書くことで、私は悪魔を退治し、大事な人を救い出し、奇跡的に平安を与えることができたのだとわかった。
 改めて、この小説を書き切る為にお世話になった新潮講座には感謝したいと思う。また、これはブログだけではなく、改めてnoteに出力するのがよいだろうとの暗示も受け取ったと感じている。

つづく。

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