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解読 ボウヤ書店の使命 ㉚-3

長編小説『ポワゾン☆アフロディテ№X』の読み直し続き。

《第一章 

3 さやか伝説

 バランタインに酔ってベッドに入ったせいか、一之介はいつもより早く目が覚めた。喉が渇いている。点いたままになっているテレビを消し、作りかけのプラモデルをそっと棚に片付け、軽くシャワーを浴びて着替えたら、すぐに一階の事務所に降りた。早く終わらせたい通常業務がいくつかある。PCの電源を入れて、その画面が立ち上がるのを待つ間、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して飲んでいると、二階の玄関の呼び鈴が鳴った。時計を見ると、午前八時。
 ――朝飯の到着か。
 八田一之介は事務所の外に出て裏口に回り、二階に続く細い外階段を見上げた。雲のない青空。屋根の横を渡っている数本の電線には、雀が数羽止まって、小刻みに首を動かしながら囀っている。
 階段の踊り場に立っているのはタクヤだった。片方の手で弁当箱の包んである風呂敷を抱え、もう一方の手で呼び鈴を何度もしつこく押している。一之介が出てくる様子がないとわかると、マチ子から預かっている鍵で開けようとしていた。
「こっちだよ」
 一之介は下から声を掛けた。「今朝は早起きでね。もう事務所の方で仕事をしていました」
 声に驚いたのか、雀たちが一斉に飛び立って、歩道横の緑地に消えて行った。
 タクヤは鍵を開けるのをやめて、階段を下りてきた。
「いつも悪いね。コンビニでも買えるから朝食配達はもういいよと、マチ子には言っているんだけど」
 にこりともしないタクヤの顔を見ていると、つい言い訳がましく説明したくなる。
「マチ子さんもそう仰っていました。断られているけど、配達するのよ、と」
 タクヤはしらけた様子で、斜め横に目を逸らした。
「よかったら、中に入ってお茶でもどう?」
 さやか伝説について聞きたかった。
「そう言われるだろうと、マチ子さんが仰っていました。さやか伝説のことを聞きたいんでしょ?」
 なるほど、マチ子が気を利かせたらしい。
「急がなければ、頼むよ」
「マチ子さんが、店に来てまでさやか伝説の取材をされたら迷惑だからと仰って。店にはちゃんと、プライベートで来てほしいそうですよ」
 タクヤはため息混じりに言う。
「タクヤさん、だったね。時間があればでいいが、まさにそのさやか伝説のことを聞きたくてね。頼むよ、中に入って、話してくれないか」
 一之介は事務所の扉を開けた。もう逃がさないつもりだった。しかしタクヤは返事をしないで、じっとこちらを見た。
「帰り、急ぐの?」
 ずいぶん迷っているのか、口を一文字に結んだまま動かなくなった。
 ――さやか伝説について、何か言いたくない理由でもあるのだろうか。
「名前、憶えていたんですね。僕の名前」
 ようやく、口を開いた。
「当たり前だろう。前に来てくれた時、聞いたから」
「随分前ですよ。僕が朝食を届けるためにここに来たのは。ほとんどマー君が来るから」
 意外そうだったが、一之介は一度聞いた名前は決して忘れない。
「もしよければ、中に入って、さやか伝説について、教えてよ」
 タクヤは、「いいですよ」と頷いた。
 タクヤの話は以下のようなものだった。

 さやか伝説は五年以上前から徐々に知られるようになった都市伝説で、サブカルチャー愛好家たちの集まるネットカフェからじわじわと広がった。
 ごく初期の「さやか」はアニメーションで制作された架空の人物であるものの、昭和世代で言うところの聖子ちゃんや明菜ちゃんみたいな存在。つまり、現代の多人数でチームを作るアイドルではなく、一人で歌うアイドル歌手だった。
 アングラ世界での有名音楽家が「さやか」の為にポップソングを制作し、ネット上にある演奏会場でコンサートが行われる。人気が出るに従い「さやか」が出演している映画やバラエティ番組もアニメーションで制作され、ネットであるにも関わらず入場者数を制限し、チケットは高額で取引された。
 どうしてそんなに熱狂したのか。「さやか」は歌が驚くほど上手い。上手いだけではなく、あらゆるものをデジタルで制作しているにも関わらず、歌だけは覆面歌手が常にライブで歌ったので超臨場感が得られたのだ。ライブ肉声というのが味噌で、聞いていると、むしろ絶対に触れることができない憧れに胸が張り裂けそうになって、涙が零れ落ちさえしたと言う。実在のアイドルへの心酔そのものだとも考えられるが、それだけではなく、バーチャル世界に観客自身の存在さえも吸い込まれてしまって、何かふわふわしたような、奇妙な身体感覚がするほどだった。
 その覆面歌手がとある理由で活動を続けられなくなって、代役の歌手が歌い始めた途端に熱狂は終わった。似ているが違うとわかってしまったらしい。慌てて当初の覆面歌手の声をデジタルで再現したけれど、ファンたちは突然夢から覚めたように「さやか」の下を去って行った。当たり前だけど「所詮あれは偽物だから」ということで。
 ところが、その後、「さやか」の声に似た人物が路上で歌っていると噂になり、どうやら例の覆面歌手だというから、消えかけた伝説が再燃した。姿かたちもアニメーションで制作されたものに遠からず。昨日、公園で歌っているのを見たとか、音楽祭で歌っていた無名に近い子はさやかに違いないとか、確かめようのない噂が生まれては消え、消えては生まれした。それがだんだんとエスカレートし、あんなに歌が上手いのに表舞台に立てないのは業界の重要人物との間でいざこざを起こしたせいだとか、いつ発作が起きるかわからないような心の病を持っているからだとか、ありとあらゆる邪推が留まることなく拡がって、理由はどうあれ、不憫な歌手なのだとまことしやかに語られる物語に変化した。どこかで見たとの噂が流れない時には、きっと不幸を苦に自死したのに違いないと言ったり、悪いプロデューサーに騙され別世界に閉じ込められて高級娼婦になって歌っているに違いないと言ったり。そもそも不確実な存在なのに、さらに背びれ尾ひれが付け加えられて、何が真実なのかはわからないまま、ただおもしろがって語り継がれた。

「そして、それがとうとう、亡霊化した」
 タクヤが遠い目をして言う。
「亡霊化したって、どういうこと?」
「集団妄想は霊を視覚化させる」
 タクヤは細い指を絡めながら神経症的に眼を細かく左右に動かし続け、そわそわして見えるものの、慎重に言葉を選んでいる。
「霊の視覚化?」
「たとえばカッパとか、ドワーフとか。昔から、その地域の人たちだけには見える霊ってあるでしょう」
「妖怪のこと?」
「まあ、それに近いかな。生きていた人が死んで肉体を失い霊になったものは幽霊。亡霊には幽霊と同じ意味もあるけれど、それ以外に、もともと想像上のものが視覚化した霊のことも言います。たとえば、愛国主義の亡霊とか。さやかも想像上のものだったから、亡霊になった」
 タクヤは唇が渇くのか、ポケットからリップクリームを出してつるりと塗った。
「アニメだとしてもさやかの姿はあったのでしょう? 想像上の人物と言っても」
「妖怪だって、誰かが最初に、こんなやつと言って、絵を描いたのだと思う。それがみんなの共通のイメージになって、そうすると河原でカッパを見てしまうやつが出てくる」
 タクヤはリップクリームに蓋をした。「さやか伝説もそう。そもそも生声を聴いて共に感動した聴衆というのは、一時的にでも互いに電流が開通して無意識がひとつになる。それが繰り返されたら強固になり、同じ妄想を持つことができる。絵で描いた餅のような人物を、空間にぼおっと立ち上げることができるんだ。第一、僕たちが見ている世界だって、僕たちの意識が作り出している映像でしょう? 実在はあるのだとしても、見ていると信じているものは脳内映像で、全て妄想。その妄想を集団的なものにすると、みんなで同じ亡霊を見ることができる。それが亡霊化ということ」
 そうやって、一度亡霊化してしまった「さやか」は徐々に悪霊化し、「さやかと遭遇すると神隠しに遭う」という都市伝説へと進化したらしい。
 タクヤはリップクリームをポケットに仕舞った。
「どうして神隠しに遭うという話に発展したのかな」
「さやかに遭ったとツイートしたり、ラインやフェイスブックに書き込んだりした人が、直後に行方不明になった件がいくつかあったから。ひょっとしたら、それも誰かのいたずらというか、そういうことにしてデマを流しただけかもしれないけど」
「タクヤさんはどう思うの? 神隠しはデマだと思うか、事実だと思うか。関係者が起こした事件の可能性もあるのでは?」
 タクヤはじっと一之介の眼を見たまま、問いには答えたくないのか、やや戸惑うほどの沈黙を保った。一之介は急かさずに待った。こういう時、沈黙もひとつの言葉だから。
「もちろん、デマ。それ以外にあり得ないでしょう?」
 タクヤは自分自身に納得させるかのように何度も首を縦に振って、指を組み直す。
「言い切れる?」
 一之介は足を組み替えて、ソファの背もたれにゆったりともたれた。
「そうでなくっちゃ、困ります」
「どうして?」
 背もたれから再び身を起こし、タクヤに顔を近づける。
「さやか伝説の仕掛けを最初に考案したのは――」
 タクヤは大きく息を吸い込み、背筋を伸ばした。「この僕だから」
「さやかの姿かたちをデジタルにして、声だけを生にすることや、ネット配信を限定的にしてチケットを高額にするなどの仕掛けは僕が考えました」
 タクヤの言葉に、一之介は少なからず驚いた。細い指にはオニキスの指輪。ピアス。風貌は繊細なキレイ目のちょい悪程度だが、大掛かりな仕掛けまで考えるなら、メディアアーティストを越えてプロデューサーじゃないか。
「また行方不明者が出たぞと関係者が言いに来るたびに、そんなのデマだと突き返すようにしてきたのだけど、どうなのかな、八田さん、デマじゃないのかな」
「その関係者って、マチ子の店に来るの?」
 タクヤは頷く。
「マチ子はなんて言ってるの?」
「特に何も。マチ子さんには何度か見られたと思うけど、関係者が頻繁に来るとは言ってません。来たとしても、ほどんどはそっと僕に声を掛けてくるだけだし、忙しいマチ子さんに迷惑をかけられないから」
「ひょっとして、玄人筋の人たち?」
「微妙ですね。サブ玄人みたいな感じかな。所詮サブカルですから」
 タクヤは初めて表情を緩めた。それから、スマートフォンを胸ポケットから取り出して時刻を確認し、「もういいかな、帰っても」と言った。
 一之介は「長い時間付き合ってもらって悪かったね」と言って、昼食代程度の金を渡そうとしたが、断られた。
「それよりも、本気でやばくなったら相談に乗ってもらえますか」
 思いの外しおらしいことを言って、タクヤは帰って行った。

 さやか伝説。
 バーチャルのアイドルじゃなかったとしても、テレビタレントや映画俳優に対して、真剣に恋焦がれて追っかけと呼ばれる人種になっていく人もいるのだから、対象がバーチャルであろうが生身の人間であろうが、憧れの暴走が生じる心の手続きは同じなのだろう。外側にある対象がなんであれ、人間の内側の心のメカニズムとしてのスイッチがあり、手順通りに仕掛けることができれば、センサーの壊れてしまった電気製品のごとく憧れの暴走は止まらない。本物の梅干しであろうが、よくできた蝋細工の梅干しであろうが、一度でも食べたことのある人であれば酸っぱさをイメージすることができ、眼に入ると口の中に唾液があふれ出てくるのと同じように、ツボさえ押さえればきっと、熱狂させる脳内ホルモンが爛々と光るようにあふれ出てくるのだ。
 金指まるみはさやか伝説のことを知らなかったのだろうか。そんなはずはない。彼女の話をそのまま信じるとしたら、彼女はサブカルチャー界隈の住人で、それもアニメーション好きの集まるレアマと呼ばれる場所に通い続けているのだから、さやか伝説の中心地のようなものではないか。実際、そのレアマのカフェエリアで「さやか」と遭遇したのだ。
 タクヤが届けてくれた朝食を食べ終わると、一之介は浅田欣二の携帯に電話をした。
「張り込み捜査からやっと帰ってきて、少しでも寝ようとしたところなのに」
 だるそうな声を返したが、タクヤから聞いたさやか伝説の話を少しだけすると、「大した手柄ですよ、八田さん」と生き生きした調子に変わり、「仮眠を取ったら事務所に寄るから、後でじっくりと聞かせてくれ」と電話を切った。
 午後二時前に事務所に現れた浅田刑事は、見事な寝癖がついたままの頭で、いつものグレーのスーツ姿だった。恐らく、スーツのまま寝て、そのまま来たということだろう。
「着替えてないが、すみません」
「そのまま布団に入ったのですか」
 頭には派手な寝癖が付いているが、スーツに皺がない。スーツのまま布団に入って寝たと言うのなら矛盾している。
「机につっぷして寝た」
「じゃあ、どうやったらそういう頭になるのですか」
 寝癖を指すと、どれ、と言って事務所の鏡に顔を映し、なんだこりゃ、と甲高い声を出し、慌てて掌で撫でつけ直そうとしている。
「おそらく、奴のいたずらだ」
「奴って?」
 浅田欣二はそれには返事をせず、寝癖を直そうとするのも諦めて、
「ところで、八田さんの聞いたさやか伝説について、初めからちゃんと説明してください」
 早々に話を切り替え、一之介が勧めるのを待たずに、どっかりとソファに座った。「ちなみに、コンビニのバイトの後、まるみさんもここに来ることになっているから、どうぞよろしく」
 どうやら、こちらの都合を確認する前に決めたらしい。浅田刑事も金指まるみも、段々と図々しくなってきた。
 一之介がタクヤから聞いたさやか伝説の詳細を告げると、
「そう言えば、まるみさんがさやか伝説について知っていたとは聞いてないなあ」
 浅田も一之介と同じところに違和感を覚えたらしい。「でも考えてみればそれは不自然。彼女はそっち系統のマニアなのだから」
「ちなみに、浅田刑事はご存知でしたか。そういうものがアングラのサブカル領域で流行っていたこと」
 浅田は首を横に振る。
「初音ミクとやらが出てきて、イベント会場でも歌ったり踊ったりするのを若者が見に行くのは知っていたが、さやか伝説は知らないね。似たようなものだと思うけれど、さやかは完全にネット世界だけのバーチャルで、しかし声だけは生で放送するらしいから、初音ミクと同じとは言えないし」
「ネット上に痕跡がまだ残っているか、調べてみましょうか」
 二人でノートパソコンを開き、「さやか伝説」を特定できそうなページや書き込みを探したが、似たようなものはあるものの、「さやか」を明確に名乗るものは見つからなかった。
「全部消去したのか」
「金をかければネット上の書き込みを消すことはできるけど、もっと深いエリアを調べてみないと断定はできない。ところで、八田さんが言っているタクヤって実在? それこそ幽霊みたいな風来坊じゃないの?」
 浅田はタクヤを疑い始めている。
「何事も直ちには断定できないけれど、実在のはず。今朝会ったし、長年仲良くしている友人の店で働いている従業員でもあるから、それこそ幽霊ではないと思いますよ。彼の言動を必ず隅から隅まで信用できるかどうかまでは保証できませんが」
「一人の人間の言動が保証できるかどうかと言うと、結局、本質的にはどういう場合でもできないけどね。本人の思い込みの可能性まで含めると、我々自身、自主的に生きていること自体が思い込みかもしれないから」
 浅田刑事は現実世界のリアル過ぎるリアルを裏の裏まで見続けてきたはずの人間だが、時々オカルトめいたことを言う。証拠探しや証言集めをやり続けた結果、物事にはぴったりと一致する事実などないことを、むしろ誰よりも知っているのかもしれない。世間というものはまるで生理現象のようになんでも多数決に従う。人数の多い方が信じていることを「事実」として認定するものなのだ。認定し終わった後は、「絶対にそうだ」と言い切ってしまう人が多発する。
 一之介と浅田欣二の探索がなんとなく行き詰った頃、まるみがいつも通りのリュックを背負った姿でドアを開けた。やはりコンビニの袋を下げていて、
「内緒ですけど、お弁当の残りです。よかったら食べてください」
 テーブルの上に置いた。
 コンビニ弁当には、消費期限の時間が登録されたバーコードのシールが貼り付けてあり、期限を一分でも過ぎるとレジが拒否する。購買データをもとに、なるべく廃棄しないように製造するのがコンビニの戦略ではあるが、どうしても売切れなかった場合には廃棄処分となるらしい。配属されている店舗によっても違うけれど、店長が許せばバイトがこっそり持ち帰ることもあるのだとか。
 一之介にしてみたら、朝も弁当、昼も弁当。なんだか侘しく思えなくもないが、むしろそんなことはない。栄養のバランス面から考えると実は贅沢だ。ありがたく受け取る。
 
 金指まるみは「さやか伝説」については知らないと言った。数年前から、レアマの若い子たちとは距離を置いたから気付かなかっただけかもしれないが、いくらなんでも全く知り合いがいないわけでもなく、伝説と言うほどに有名な話であれば耳にする機会くらいあるはずだ。でも、聞いたことがないと言う。
「だけど、そんなもんですよ。現実世界とは違って、意外とくっきりと棲み分けされているから」
 まるみにはそれほど違和感がないようだった。「マニアの世界には時間がないでしょう?」
 マニアの世界では過去から未来へと向かって蓄積される時間が存在しないのだと言う。たった今、これを好きな人が、好きだという気持ちだけで集まっている。解散した後はそれぞれの時間が流れていて、互いに介入し合わない。だから、現実ならばあり得る「小学校時代の同級生」のような、もはや住む世界は全く異なっているが、ひょんなことから出くわしてしまう知人などは極めて少なく、情報が混ざり合わないらしい。
「近頃の新聞もそうでしょう? 私がまだ子供の頃は紙新聞が主流で、興味もない地域ボランティアの功績をちらっと見て、へえ、立派な人がいる、たまには私もゴミ拾いくらいするかと思えたのかもしれないけど、近頃の電子新聞では、スポーツが読みたい人はスポーツのコーナーをクリックするし、政治が好きな人は政治をクリックする。だんだんと現実世界の方だって、個人的に興味がなかったことに出会う可能性が本当に少なくなっている。マニアな世界はもともとそう」
 まるみはそう言うと、残念そうに肩をすくめて見せた。
「だけど、それなのに、その知らない伝説のさやかが、どうして私と接触したのかな」
 確かにそうだ。噂としてのさやか伝説を知っている人が、脳の誤作動なのか「さやか」を幻のように見て、ついつい後を着いて行ってしまって行方不明になったというのなら話はわかる。実際、そうやって行方不明になった人物がいるのだとタクヤは言っていた。だけど、まるみは「さやか」について何も知らなかったのだ。その「さやか」の亡霊がまるみに接近するなんて、いわばくっきりと棲み分けているはずのマニア世界における領海侵犯のようなものだろう。
「これから、レアマに行ってみましょうか。いい大人が三人で行くのも変だけど」
 まるみが提案する。「知り合いが居たらさやか伝説のことを聞いてみたり、私がどの場所で異世界に行ってしまったのかを見てみたりした方がいいのかも。浅田刑事も行ったこと、ないでしょう?」
「浅田刑事、まだレアマには行っていなかったのですか?」
 一之介はむしろ驚く。捜査と言えばそれくらい直ちにやるだろう。
「部下たちには行かせたが、直接的にはそうですね」
 浅田は背中を丸くして、例の反省する姿になった。寝癖がセットしてあるために、いつもより何かおかしみに強度がある。
「浅田刑事は他にもいろいろと仕事が多すぎて混乱していらっしゃるだけです」
 見かねたのか、被害者のまるみが慰めることになっていた。
 金指まるみの通うレアマは、古着屋の地下二階に存在する。
 その古着屋では、一枚のTシャツにプレミアムが付いて数万円もすることがあるという。客たちはそれこそレアなものを手に入れようとして集まるらしく、時には中堅のアーティストたちも足を運ぶことから、店そのものがブランド化し、営業年数からしても老舗の格付けにあるそうだ。
「レアマだけではなくて、古着屋の方にもけっこう人が集まっています」
 三人でレアマに向かう道中、まるみが言った。
「我々の世代では、兄や姉のお下がりで育った人ばっかりだよ。子供が多くて、半分以上の人間は二番目か三番目で新品なんか着られなかった。大人になれば新品を着るのが嬉しいものだと思っていたけど」
 一之介自身、着る物と言えば兄のお古ばっかりだった。今では、仕事までもお下がりを頂戴している。すっかり飽き飽きしているので、わざわざ誰かが使った後のものを買おうとは思えない。
「お下がりじゃないんですよ」
 まるみは微笑みを見せた。「ファッションとして買う。だって、いつも新品で汚れがないものばかり着ている人って、当たり前に考えて、しょっちゅう捨てているってことだろうなあと思うから、なんとなく人間が安っぽく見えちゃうのです。だから、最初からある程度古くなっているものを買う。貧乏に見られてもいいけど、安っぽい人間には見られたくないから」
 生まれた時から物にあふれ、ごみの山をニュースで見ている世代は、それ以前の物がない世代と意識がずいぶんと違うのだろう。一之介の親の世代は、生ごみを畑に埋め、燃えるゴミは焚火で燃やしてきたものだから、地球は全てのものを土に返してくれる包容力があるのだと信頼し切っていた。どんなにゴミを投げ入れても、地球は必ず咀嚼すると思い込んでいる。一度そう思い込むと、ゴミの山は一時的な仮の姿にしか見えないだろうが、若者はそうじゃない。生まれた時からこれが現実なのだ。
 一之介たちの世代はと言うと、その間にあって、宙ぶらりんの意識しかなかった。ごみを無くそうと口では言いつつ、親から植え付けられた地球への過度な信頼も持ち合わせているために、処分できないほどの大量の製品を、経済のためか、あるいはクリエイティブという片仮名語で酔っ払ったためなのか、善であるかのように生産し続け、購入し続けた。
「でも、若い子も純粋なエコ意識ってのとは少し違う。趣味でフィギュアとかキーホルダーとかをこっそり買い集めたりしているから。物欲はちゃんとあって自分の部屋に持ち帰っている。ただ、それに恥ずかしさや罪悪感はある。ファッションとしては、使い捨て主義が垣間見えるものは、一見綺麗に見えても一昔前の古い思想を感じさせて、どこか年寄り臭いと思うだけ。要は、使い捨て主義はおばさんくさいってこと。男性ならおじさんくさいと言うのかもしれないけど」
「ファッションは、どういう主義かを表明することだからね」
「昔はもったいないとは婆さんの言うことだったが」
 寝癖のひどい浅田刑事が真面目顔で口を挟んだ。「あれは戦争体験をした婆さんたちが心底思っていたことで、使い捨てがかっこ悪いという思想とは全く違ったものだろうけど。あんな風に心底思っていることは、むしろ生きていく上での主義主張になりにくい。ファッション性はなかったな。それとは違い、本人がこうあるべきだと薄々思ってはいるが、確信できてはいないし、そうはしていないこと。それが思想や主義主張なるものの性質だ。ある人物の思想と行動がよく見るとまるで反対になっていることはよくある。他人に見せる服は古着で買うが、フィギュアは新品、とかだろ」
「どっちにしても、物はそんなに簡単に悪くならない。このロンTなんて、五年以上着ているけど、買った時もすでに古着でした。丁寧に扱えばちゃんと長持ちする」
 まるみは歩きながらTシャツの袖を引っ張って見せた。「気に入っているから、手洗いしています。ほんとにダメになったら記念に取っておくか、捨てる場合には切り刻んで、窓ふきをしたり、古くなった油を吸わせたりして使い切ります」
「へえ」
 一之介と浅田は同時に驚嘆の声を漏らした。「立派だね」
 驚きはするけれど、そう言えば、一之介の母親もそんなことをやっていた。古着で自転車を磨いたり、土間を拭いたり。
 その古着屋に辿り着くと、店の前には路上にはみ出しそうなほど、あらゆる服がむき出しの状態で展示されていた。アーミー調のコートとタータンチェックを組み合わせたものや、サテン地とレースを組み合わせた踊り子風のドレスを着たトルソーが並んでいる。まるみは使い捨て主義は一昔前の思想で恥ずかしいと言ったが、デザイン自体は一昔前のレトロなものが多い。一之介にしてみると、むしろ懐かしさを覚えるものばかりだった。
 レジ横に階段があり、降りて行くと地下一階には卓球台とダーツのあるイングリッシュバーがあった。まだ日が暮れる前だったが、髪の色をピンクや緑に染めた若者たちがクラフトビールの瓶を片手に持ち、スタンドテーブルの前で談笑していた。指にはシルバーやターコイズのリング。首筋にタトゥー。男か女か? 問うべきではない。音楽はレゲエ調。英語ではない外国語だから何を歌っているのか、わからない。政治的な何かを訴える詞かもしれないが、こんな風に中身がわからなければ、独特の単調なリズムに任せて体を揺らすことで、現実を忘れて、むしろ朗らかでいられそうな気がする。意味のわからない外国語の持つ音楽のファッション性は、何も知らないくせにと不謹慎を指摘されることもあるだろうが、深刻すぎる日常をよくも悪くも風化させ、どこかに追いやってくれる。
 さらに、そのイングリッシュバーの脇を通り抜けた奥に、改めて階段があり、そこを下るとレアマーケットが存在する。壁に小さなBOZEのスピーカーが仕掛けてあり、音楽は階段の途中で、突如としてアニメソングに切り替わった。
「昔は古着屋とイングリッシュバーの倉庫だったらしいです」
 階段を降り切ったところで、まるみは一之介と浅田刑事の顔を順番に見た。「ここは立地条件がいいから、家賃の安いところに倉庫を移動して、アニメ好きの集まるマーケットを作ったそう」
 なるほどうまい構成だ。子供時代に一階で古着を買い、若過ぎるうちは地下二階で集まって、それを卒業したら地下一階で飲酒OKだ。
 レアマの店内にはビニールを膨らませた人形があちこちに置いてあり、天井からはパステルカラーの風船やキラキラ光るテープがぶら下がっている。ガラスケースの中に恭しく収められているフィギュアの中には鉄腕アトムやゲゲゲの鬼太郎といった、この世界における王道、古典と言えるものもあれば、一之介が見てもわからない機動戦士ものなどもある。文房具、書籍、DVD、コスプレ衣装など、あらゆるものがランダムに置かれていて、店というよりは部屋だった。パステルカラーの簡易なテーブルと椅子がところどころにあり、中高生がいくつかの塊を作ってキャッキャと笑い合っている。要は放課後ということだろうか。全体の色調は還暦過ぎには発狂しそうなマシュマロ色尽くしと言えるけれど、それ以外は、これが街中の地下二階ではなく学校の部室だと言ってもそれほどの違和感はない。学校の中に気の合う人がいなくて、放課後の教室で集まる仲間からはみ出してしまった子は、ここへ来れば、新たにその子なりの放課後を再編成することができるのかもしれない。
 一番奥に、カフェエリアがあった。紙コップで提供される自動販売機が何台かあり、その前にやはり簡易テーブルと椅子が置いてある。
「私は、ここで、さやかと遭遇しました」
 まるみが言う。
「どれを飲んだの?」
 浅田刑事が自販機をじろじろと見ている。
「これです」
 たっぷりミルクのカフェオレ、と書いてある。
「その時、さやか以外に誰か居た?」
 刑事らしい口調になっている。
「たぶん。だけど、だいたい私、スマホを見ながら歩いているから、居ても気付かないかもしれない。あ、あの時はスマホを見せに置き忘れていたんだった」
「いつも、同じのを飲んだりする?」
 自販機の取り出し口の扉を開けようとしている。
「だいたいいつも、このたっぷりミルクのカフェオレです。それが何か?」
「たとえば、この抽出口に幻覚剤でも塗れば、まるみさんに幻覚剤を飲ませることはできるかなと考えてしまいました。こういうタイプはカップに注ぎ出す時のノズルが一か所にある。三つある販売機の中で、たっぷりミルクのカフェオレがあるのは、この中央の販売機だけだ。かなり無理があるけれど、やろうと思えばノズルに触れることができるかもしれない。ひとつずつ口の閉じたペットボトルが落ちてくるものとは違って、万人に対して口がオープンな状態になっている。あ、いや、まるみさんの遭ったさやかが、誰かの仕掛けた幻覚剤の結果で見えた幻想だと言っているのではなく、一応、俺は刑事だから、あらゆる可能性について考えなくてはいけないのでね」
 浅田は急に生き生きとして、機械を触ってあちらこちらを調べている。
「さすが。あちこち調べようとするなんて、浅田刑事。本当に刑事さんだったんですね」
 まるみが一之介に小声で言った。
「なんだと思ってたの?」
 一之介はまるみの耳元で小さく囁く。
「別に、何とも思っていなかったというか」
 まるみは浅田刑事の寝癖に目をやった。「だって、あの頭――」
「ひどい寝癖だね」
 浅田刑事は一之介とまるみのひそひそ言う詮索をよそにして、並んでいる自動販売機を順番に隈なく見た後、カフェエリアの外から内側をしゃがんでのぞき込んだり店内をぐるりと歩いたりして、建物の構造やカメラの有無を確認しているようだった。
「トイレはどこ?」
 まるみに聞く。
「このカフェエリアとレジの横の細い隙間を通って行けば、裏側にありますよ」
 まるみは立ち上がった。「こっちです」
 一之介も、二人の後を着いていく。
 店内の非現実的な明るさやノー天気な賑やかさとは打って変わって、トイレ周辺は人気もなく薄暗い。手垢の着いた冷たいコンクリートの壁は飴色に光っていた。
 トイレの先には非常階段があり、少し上ってみると、その階段は一階まで続き、そのまま外に出られることがわかった。二階と三階の間には関係者以外立ち入り禁止の柵が置いてある。つまり、三人が通ってきたルートのように、建前としては古着屋の内部からレゲエの鳴り響くイングリッシュバーに入り、その脇を通って反対側の階段まで行かなければレアマの玄関に辿り着けない仕組みになっているが、実際の構造としては、入り口前の地上路面から、立ち入り禁止の柵を突っ切って非常階段をそのまま下りてくれば、レアマのカフェエリアの裏にあるトイレまで来ることができる。古着屋のトルソーやハンガーラックが連立していたので、非常階段があることには気付かなかった。
「中高生のうちからイングリッシュバーの横を通ることで、酒場に興味を持つように形作られているのでしょうか」
 階段の蛍光灯がやたら白々として見える。わざわざ酒場の横を通らせるなんて、無駄な遠回りのように思えた。
「それもあるのかもしれないけれど、地下二階がもともとは倉庫だったことと関係しているそうです」
 まるみが言った。
「誰から聞いたの?」
「お店の人。私、最初は古着を買いに来て、その頃はまだここにレアマはなかったのだけど、倉庫を改装してオープンした時に、やっぱり階段については変だなと思ったから、聞いてみたの。どうして、イングリッシュバーの中にある階段を使うことにしたのかって」
「そうか、もともとイングリッシュバーでは、地下二階から地下一階の酒場へと酒や食材を運び出す時に、客も使うかもしれない非常階段ではなく、厨房に近い奥の階段を使っていた。要は、イングリッシュバーの勝手口に続く扉だったところを、今はレアマの玄関にしたということだ」
「第一、こっちの非常階段を使ったとして、入り口のすぐ横にトイレというのも、店としては感じ悪いだろうから」
 浅田刑事はトイレのドアを開けて中をのぞいている。「これだと、レアマの玄関先の防犯カメラに映らないでここに入ることができるな。もちろん、初っ端で非常階段辺りのカメラに映るから、この建物自体に入ったことはわかるけれど、レアマそのものに来たかどうかはわからない。店内をうろうろしなければなおのこと、このトイレで少し髪型なんかを変えたりするとわからなくなるだろうなあ。それで映像がなかったのかもしれない」
「誰の事?」
「さやかと名乗った人物ですよ。一応、部下に頼んで、先日のまるみさんの話をもとにレアマの監視カメラの映像を調べてもらったのだけど、その日のその時間帯、さやからしき人物は映っていなかったと結果が返ってきた。しかし、このビルの構造上、さやかと名乗った人物が、レアマの通常入り口ではなく、非常階段を利用し、レアマ内の監視カメラには映ることなく、あの自販機のあるカフェエリアに立っていた可能性がないこともない」
「だけど、どうして私が狙われたの?」
「それはわかりません。まだいろいろと仮説でしかありません。ひとつひとつ、可能性を洗い出すしかないのです」
 浅田は頭を掻こうとして、寝癖を触ってしまい、ああっと声を上げ、はにかんだ顔をした。
「俺、こんな頭だったんだ。すっかり忘れてた」
 トイレ周辺の調査を終えた三人がカフェエリアに戻ると、学生服を着た女の子が二人いて、イベントのパンフレットを見ながら楽し気に話をしていた。一人は髪を左右に分けてリボンで結び、先をくるんとカールさせ、もう一人はポニーテール。
「ああ、ユキちゃん。エレンも」
 知合いであるらしく、まるみが急に華やいだ声で言った。「ちょうどよかった。聞きたいことがあったの」
 ユキとエレンは、「まるみさん、お久しぶりです」と言って、こちらを見る。
「さやか伝説って知っている? さやかに遭遇すると神隠しに遭うっていう。ネット上の都市伝説」
「なんですかあ、それ」
「まるみさんがいなくなってたのも、それに遭っちゃったから?」
 二人は顔を見合わせて言った後、だけど、知らなあい、と首を横に振る。
「じゃあ、ロングヘアを栗色に染めて、すらっと背の高い女性に、ここで声を掛けられたことは?」
「ないです」
「もしかして、それがさやか?」
「まるみさん、遭ったんですか、そのさやかに」
 二人はテンションが上がってきたらしく、頬を紅潮させて言う。
「えっと、遭ったというか、話していいんですか?」
 まるみは一之介と浅田の方を見た。「まだ捜査の途中ですよね」
「ええっ、捜査? 事件なんですか?」
「まるみさん、家出して彼氏のところにでも転がり込んだのかと思ってた」
「どんな事件? さやか伝説って、なになになに?」
 はしゃいでいる二人の前に、浅田刑事がどっかりと座った。一応警察手帳を見せると、
「やだ、本物の刑事さん?」
 さらに二人は、すごい、すごいと足をばたつかせて騒ぎ始めた。結んだ髪が大きく弾む。
「さやか伝説のことはともかくとして、このレアマの仲間で行方不明になっている人っていない?」
 浅田刑事はするりと話に入り込んだ。さすがに上手い。一之介にはとても無理。
「行方不明って? 誘拐とか?」
「そうじゃなくても、しょっちゅう顔を合わせていたのに、急にふっつりと来なくなった人とかはいないかな」
「それだったら、たくさんいるよお」
「たくさんって?」
「だって、知り合いになったけど、特にラインとかメールとかやらない人いっぱいいるもん。そういう人が来なくなったら、ただ飽きて来なくなったのかなって思うだけ」
 二人は、ね、そうだよね、と顔を見合わせて頷き合っている。
「じゃあ、一度はふっつりと来なくなったけど、また来始めた人はいる?」
「いたかなあ」
「ああ、いたいた。マロンちゃん。急に見なくなって、一か月ほどして、また見かけて、どうしていたのって聞いたら、別に、って言って、それでまた来なくなった」
「ルル子もそうじゃない? 約束していたのに来なくて、ラインでも連絡が取れなくなって、だけど、やっぱり一か月くらいでまた現れた。それも、なんで来なかったのって聞いたら、特に理由はないって言ってた。いっぱいいるよね、そんな子」
 ユキとエレンは、あの子もそう、この子もそうと言って、次々と名前を上げ始めた。
「そういう人って、また来るようになってから、前とは何か違うなという感じはない?」
 浅田はメモを取りながら聞いていた。
「特にない」
「特にないっていうか、もともとどんな人だったかも知らない」
「友達だったら、少しはどういう人か知っているでしょう?」
「どうかな、別に、その人たちは友達ってほどじゃないから」
 ね、と言って二人は顔を見合わせる。
「じゃあ、ユキちゃんとエレンちゃんのどっちかが来なくなったら、その時、それぞれ、どう思うの? 友達でもないしーって、思うだけ?」
「その場合は、ラインする」
「そうそう、私達は友達じゃんね」
「そうだよ、ユキ、私はユキのこと大好きだよ」
「私もエレンのこと大好き」
 そう言って、二人は、ハグしよーと言って抱き合い、にこにこしながら頬をくっつけ合った。
 浅田刑事は二人に名刺を渡し、さやか伝説のことを知っているという人や、一定期間行方不明になっていたけど戻ってきたという人で、話をしてもいいという人がいたら連絡してほしいと言った。

 ユキとエレンが店内のグッズ売り場に行ってしまった後、三人はカフェエリアでたっぷりミルクのカフェオレを購入した。飲み物の注ぎ入れが終わるまでは自販機の扉は閉じたままになっていて、紙コップを取り出す時にはノズルは上部に仕舞い込まれていることを確認し、浅田刑事は「ノズルに幻覚剤を塗るという可能性は低いな」と言った。
「そもそも自販機に仕込まれているとは考えられないかな」
 一之介が言うと、
「店がそんなことをしたら、直ぐに幻覚を見た人が続出して、摘発されるでしょう。さっきの二人の様子から考えると、それはないだろうと思う。まあまあ健全な店。もしもまるみさんだけを狙うのだったら、自販機そのものに薬を混ぜ込むなんてことはしないはずだろうし」
 浅田刑事は言い、カフェオレを飲む。
 まるみは黙ったままカフェオレを飲みながら、スマートフォンに向かってひたすら文字を打っているようだった。しばらくして、
「返信きた」と言う。
「誰と連絡とっているのですか」
「ルル子。さっき、ユキちゃんが言ってた、一か月ほど来なくなって、また来るようになったって子。わりと仲いいの。あ、ラインきた」
「話は出来そうかな」
「えっとねえ」
忙しく指を動かしている。「今日はダメだって」
「いつならいい?」
 まるみは驚くべきスピードで親指を上下左右に移動させながらスマートフォンに文字を打っている。
「あのね、明後日の同じ時間ならいいって」
 一之介と浅田の方を見た。
「よし。じゃあ、そうしよう。ここでいいかどうか、聞いてみて」
「そうねえ――。あ、OKだって」
「じゃあ、明後日の午後五時、ここに集合しよう」
 浅田はメモに書いている。「八田さんも。ね、いいでしょう?」
「僕もですか?」
「どうせ暇なんでしょう?」
「暇じゃないですよ。売れっ子探偵なんだから忙しいですよ」
 一之介が言うと、浅田はまさかと言いたげにふふふと笑い、
「だけど、今はこの事件より大事なものはないでしょう。」と言う。
「僕、来る意味ある? 浅田刑事とまるみさんだけでも充分じゃないですか」
「その時に何もしなかったとしても、後でいろいろと話を聞くためですよ。八田さんの鋭い推理に勝てるものはない」
 まるみもカフェオレを飲みながら、首を縦に振っている。数回しか会ったことがないのにわかるものか。
 浅田刑事はなんだかんだと別の理由を言っているが、こんな若者の集まる店に、中年男が一人で来るのが嫌なのだろう。中年男や初老の人間がうろうろするのは場違いだったとしても、二人一緒ならば痛手が少ないように思うのはわからないでもない。それに何と言っても、浅田欣二からは定額の顧問料を頂戴している。依頼されて、用もないのに断れるわけはない。
「いいですよ。お邪魔でなければ」
 体裁上、快諾した。
(第一章 3 さやか伝説 了)》

※ここまでの解説
 あらすじ。
 一之介の事務所にタクヤが来る。朝食配達だが、マチ子に頼まれたらしく、さやか伝説に関する取材に応じてくれた。
 マチ子が言った通り、さやか伝説は実際に存在し、しかもそれはメディアアートストであるタクヤの仕掛けたものだと言うのだった。
 その後、浅田とまるみが事務所に来て、三人でまるみがさやかと遭遇したレアマの現地調査へと向かう。さやかが実在の人間だったとしても、建物の構造上、防犯カメラに映ることなくレアマの中に入ることができるとわかった。
 まるみの友人であるユキとエレンが居て聞き込み調査をし、その後、二人が言っていた一時期姿を見せなくなったルル子と連絡がついて、後日取材を受けてくれることになった。

 さて。
 まるみが「異世界に行っていた」と証言していた事に関して、実際には誰かが仕組んだ「仕掛け」のようなものではないかとの視点で調査が行われている。妄想と、妄想を作り出す仕掛けの構造。
 それは執筆当時の意図だったが、今、こうして読み直してみると、一之介の事務所もマチ子の従業員が気軽に出入りできる仕組みになっているし、レアマにも防犯カメラを潜り抜ける隙間のあることが描かれていて、「隙だらけ」を暗示しているようだ。
 執筆当時、新型コロナウイルスの蔓延問題で、ワクチンのブレイクスルー感染や、マスクをしても意味がない件の話題が多く、その影響もあるのかもしれない。実際、ウイルスからすると人間は隙間だらけなのであり、侵入された時の撃退力や、ある程度共存していく忍耐力も話題だった。

小説はまだまだ続く。

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