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解読 ボウヤ書店の使命 ㉙-8

長編小説『無人島の二人称』読み直し続き。

《第六章

 敏樹は壊された人形を夢中になって撮影しながら、腕や足が千切られて剥き出しになった内側が空洞であることにむしろ感動していた。人間の死体のように内臓が溢れ出てきたりはしない。血も流れない。意識も存在していない。
 制作者たちの願望としては、恐らく人形の中に「真美子」がいる。しかし、こうして物理的に破壊されてみると内側がからっぽであるように、彼女の意識はそこにない。いるはずだと想定されている「真美子」の魂はどこにいってしまったのだろう。神隠し事件に遭遇してしまって以降、肉体を持つ真美子の中からも出て行ってしまった。
 部屋の中に転がる破壊された人形の塊をファインダーから覗く。
 生々しさがある。肉眼で見たとしても当然嘘だらけの室内だが、レンズを通して見ればむしろ反転して実像に思える。壊された人形たちの一部がうめき声を上げて助けてくれと言い出しそうだ。
 シャッターを切る。
 実像に見えても、やはり人形は死体のように反応しない。埋め込まれたガラス玉の目は天井の向こうをぼんやりと見ている。確かに人形は壊れる前にも、まるで孤独のうちにあって遠く想像している人の表情をしていたが、今では、自身の表面に絡みついてくる視線の網の中で、容れ物である人形本体が他者のものとなってしまったことを他人事のように反芻しているかに見えた。最初から思い通りにはならなかったが、壊れる時も製作者たちの思うままだった。作られて、壊された。
 もちろん、人形だから皮膚感覚もない。寒さも暑さも、向けられる好奇心のことも知りはしない。ただ自身の運命を沈黙のまま受け入れるかの如く存在を放り出し、生きたまま死体になっている。
 仕事で出会うファッションモデルも、シャッターを切る瞬間にこんな表情をすることがあった。優秀なモデルであればあるほど、瞬間的に肉体は物質化して本人からは手放されている。レンズを通して見ていると人形が生きたモデルだと錯覚されて、どきっとする。
 疎ましがられたのか、本来の真美子は人形たちから追い出された。その魂は人間である肉体の方にも戻らず、そのままこの空間に居て、ぽっかりと浮き上がり、かつての自身を象った人形たちと、その人形製作者たちを見下ろしている。いっそ、せせら笑いながら。私はそこにはいないのにいると思っている憐れな人々よと、見下している。そのうち呑気に居眠りをするに違いない。
 敏樹はファインダーを覗く。
 人形自体はほぼ間違いなく、製作者でもある吉川の手によって破壊された。真美子がここにいないとやっと気付いたのだろうか。気付いたのならむしろ、どうしてこんなにめちゃくちゃにしなければならなかったのか。吉川自身や小野山総一郎の暴力的とも言える愛着的視線を八つ裂きにして解き放ちたかったのかもしれない。切り離されたものの、ぐるぐると巻き付いている視線の糸はまだそこに残っているようだった。切れ切れになった細く漂う視線の断片は、もう像を統合させることもできなくなった人形を受け入れ難くも眺めている。そこに敏樹の視線も重なる。レンズを回転させてどこか一か所にピントを合わせる。
 シャッターを切ると、残存し浮遊していた眼差しの糸たちが、改めてカシャンと切断される。この壊れた人形は真美子じゃない。中庭で撮影した、白いワンピースを着た彼女のように息をしていない。
 シャッターを切る。あたかも、潔く手術するように。
 これも真美子じゃない。モデルをしたいと言い出した時の真美子は、「姉にはモデルになる才能がなかった」と小悪魔のような笑顔を見せたのだから。この人形たちにはそんな生の匂いがしない。鬱陶しい理想像の押し付けを裁いていく。
 再びファインダーから目を離して肉眼に戻る。
 それにしても、この破壊された人形たちからあふれ出ている怒りのエネルギーはなんだろう。壊されたことを怒っているわけではないだろう。それ以前から、ずっと抱いていた怒りだ。何に対して? 勝手な思いを押し付けてくる製作者たちに。
 あるいは、人形の怒りというよりも吉川の怒りだろうか。
 なぜ吉川の怒り? 人形とそれに絡みつくものを吉川が自ら破壊する前に、彼らの執着そのものをぶち壊したものがいるのだろうか。
 ファインダーを覗く。誰が吉川の理想をぶち壊したの? 囚われの儚い人形という吉川や小野山の理想を。
「そろそろ帰りましょうか」
 太一の声がした。
 敏樹は撮影に没頭していて、すっかり状況を忘れ去っていた。太一の声で我に返る。
 二人に時間を忘れて撮影していたことを謝り、機材を片付けて帰り支度を始めた。太一と恵三にも手伝って貰いつつ必要なものを車に乗せると、吉川の家の灯りを全て消して玄関のドアを閉めた。
 車に乗り込んで発進させる。
 国道を走る車はほとんどない。
「吉川さんはどこに行ったのでしょうね。連絡も取れないのでしょう?」
 太一がミラー越しに敏樹の方を見ている。
「電話もつながりませんね。あれだけの破壊をしたということは、吉川はもうあの家に戻ってこないように思います」
 敏樹は意味もなく確信していた。「もう吉川とは会えないかもしれない」
「真美子さんを預かっているそうですけど、どうするのですか」
「どうしましょうね」
 本来ならば困ったことになったはずなのに、そうでもない気がしていた。「このまま僕が預かっていても構わないと言えば構わない。お姉さんから仕送りがあるようですから、彼女は住むところさえあればどうにか生きてはいけます。いずれ、お姉さんが迎えにくるのかもしれないし」
「他人事、ですか」
 そう呟いた太一は無表情のまま窓の外を見ている。「でも人を一人預かるなんて大変なことですよ。彼女の人生をそのまま放置していいのかと思わないでもありません」
 他人事か。それもそうだと敏樹は思った。いつもファインダーを覗き、レンズを通して世界を観てきたから、あらゆるものが被写体でしかなく、自分の責任の外側にあるのかもしれない。うっすらと気になっていたことだけれど、太一の言葉によってそのことが明確に浮き彫りにされる。ファッション誌以外の人物撮影をなるべく避けてきたのもそのためであり、自然現象と抽象表現だけを味方につけてきた。人間を人間として撮影したのは真美子が初めてだった。
「だけどしょうがないよね」
 今度は恵三がミラー越しにこちらを見ている。「そもそも敏樹さんは巻き込まれただけなのだし、何もしない人よりはずっとこの事件に関与しているよ」
 太一と恵三の言葉にどう返事をすればいいか迷った。どちらも間違ってはいない。
「真美子が今の調子で回復していくのなら、事件の真相がわかってくるかもしれない」
 敏樹は自分でも考えていなかったことを口にした。ふと、そう思ったのだ。「モデルをしていいと言ってくれた時、小野山総一郎にデッサンのモデルを頼まれていたことなどを少し話してくれました。もし、このまま心を開いてくれたら、真美子が神隠し事件に遭遇したその日、何があったのか、いずれ話してくれるかもしれません。何を見たのか、何が起きたのか」
「真美子さんが話してくれたら、それは前代未聞ということになりますね。UFOでも見たのでしょうか」
「もし話してくれることがあったら、それは研究会に出向いて報告しますよ」
 国道から細い道に入り、恵三の案内で店まで二人を送ることになった。恵三の喫茶店は、知っている道とは違う方角から向かうと、どこか知らない町にでも行くようだった。路地が入り組んでいる。恵三は喫茶店のマスターだというのに、細い裏道をよく知っていた。
「自動販売機の手前で止めてください」
 恵三が後部座席から少し身を乗り出して窓の外を指していた。「僕の店の真ん前まで行くとその先は細くなって大型車は通れないし、そのわりには一方通行になっていて、バックで出て貰うのも悪いから」
 言われた通り、敏樹は路地に入る手前で二人を降ろした。
「じゃあ、ここで」
 恵三と太一が車のドアを閉め、恵三の店に向かう路地の方に渡って歩き始めたのを見届けてから、忘れ物はないだろうかと後部座席を振り返ると、来る時にはなかったはずの紙袋がひとつある。
「なんだ、忘れ物じゃないか」
 敏樹はクラクションを鳴らした。気付いて振り向いてくれるだろうと思ったが、二人はそのまま歩いていく。
 車を降り、「太一さん、恵三さん」と声を掛けようとして、唖然とした。
 太一と恵三が柔らかく黒い膜で作られた穴の中に入って行くのが見えた。
「なんだあれは」
 敏樹は目をこする。
 その膜の向こうに恵三の喫茶店は存在している。しかし、大きな膜の中に入って行った後、二人の姿は溶けてしまったかのように見えなくなって、細い一方通行の路地だけがすっと残されていた。
 まもなく丸い穴も消えてしまった。
 道と店が暗闇に沈み込んで、敏樹の車のエンジン音だけが響いている。
「太一さん、恵三さん、消えてしまった」
 呆然と立ち尽くす。
 やがて、恵三の喫茶店の窓明かりが灯った。窓に人の影が二つ動いているのが見える。
 あの影、彼ら二人だろうか。ブラックホールを通り抜けた後、透明になって、店の中に入って行ったのか。
 後部座席に忘れて行った紙袋を開けてみると、ノートが数冊入っていた。人形の設計を書いたものらしかった。吉川の工房から持ち出したのだろうか。
 敏樹は明かりの点いた喫茶店まで行って届けようかと思ったけれど、一瞬見てしまった大きな黒い膜の印象が脳にこびりついてしまって、恐ろしくて足が向かない。あの路地を通り抜けるということは、膜に入り込んでしまって、敏樹自身も透明になってしまうのではないかと思うとぞっとして、鳥肌が立った。
 向こうへ行くのはやめておこう。恐らく二人は無事だったのだろうから。ノートも別にいらないだろう。そもそも吉川のものだ。
 敏樹は暗い路地と明るい電気の灯された喫茶店の写真を数枚撮り、忘れられたノートはそのまま後部座席に乗せて、車を発進させた。
 もう太一と恵三には会えないだろうと思った。
 存在が消えたのではなく、一時的に接近していた次元の軌道がもう離れてしまった。
 物質としての場所はそこにあったとしても、約束や意図が一致しなければ閉じてしまうものがある。
 会おうとしても、もう会えないだろう。
(第六章 了)

第七章

 夏の暑さがやっと遠のいた頃、「百年の孤独という酒を知っているか」と恵三から電話があった。
「もちろん知っていますよ、焼酎でしょう? 黒木本店の。店では売り切れましたが、私用には冷凍庫の中にあります」
 太一は店で朝一番の一服を楽しんでいるところだった。自宅で吸っても美弥子には叱られないものの、やはり気は遣う。誰もいない店で楽しむ一本がこの上なくありがたい。
「焼酎を冷凍庫に?」
「百年の孤独をロックで飲むと惜しいですからね」
 太一は百年の孤独の味を思い出しながら、舌の上で再現してみようとする。冷凍庫から取り出して器に注ぐととろりとするのがいい。口に含むと少し煙の味がするのだ。迎合しない辛さもあるけれど、切れ味よくさっと去るのでもなく、ほどよくまとわりつきながら消える。
「昨日、山岸から貰ってね、今度三人で飲み直さないかと」
「めぐみさんは回復しつつあるのですか」
 太一はゆっくりと煙草の煙を吐き出した。
「全くだめらしい。山岸もあきらめたそうで、また三人で何もなかったかのように音楽鑑賞会でもやってくれないかと」
「それで百年の孤独を飲もうだなんて山岸君も考えましたね」
 百年の孤独。ガルシア・マルケスの小説から取った名前だと聞く。それにしても、孤独に百年という時効があるのだろうか。その百年が終わったら、眠り姫の魔法が解けたかのように孤独は終わるのだとすれば、むしろ楽観的な気がする。
「山岸君には人情がないのかと思っていたら、しばらく黙り込んで思案していたのでしょうね。焼酎を全部飲み干したら孤独が解消して、めぐみさんの状態も回復するのだったらいいのですけど」
「それとね」
 恵三はこっちが本題だと言わんばかりに声色をやや鋭いものに変えた。「役場の隣にギャラリーがあるの知っているかな」
 息をのみ込むような間があった。
「知っていますよ」
 村役場の建物に寄り添うようにして小さなギャラリーがあり、村人たちのサークル活動で制作された作品の展示が行われる。展示をしている人同士が鑑賞し合うか、その家族が散歩のついでに立ち寄って眺める程度のささやかなもので、太一も一度だけ足を運んだことがあった。
 もう随分前のことで、正確にいつのことだったか思い出せないが、美弥子が通っている絵手紙の会が展示をした時に誘われて観に行った。美弥子の絵は夏みかんで、他の人たちは西瓜やトウモロコシだったから、いつかの夏だったのだろう。どれも黒い墨で輪郭を取り、内側を淡い水彩絵の具で色を付けた絵だった。壁に無造作に貼られた葉書を見ても、ひとつひとつがあまりに渾身の作風だから、その絵手紙が惜しげなく誰かのところに届く様子を全く想像できなかった。日本画の伝統にあるように、先生の筆運びを生徒たちはしっかりと受け継いでいるらしく、どの生徒の作品もほぼ同じタッチである画風を見ると、会の人たちが賑やかに仲間意識を持って描いている姿は思い浮かべることができた。それが微笑ましくもあるが、美弥子たちと太一の間にきっぱりと線が引かれているようで、ふと疎外感が湧いたことを覚えている。一枚だけ、どうやらうまく描けなかったと思われるモノクロの犬の鉛筆画があって、美弥子が声をひそめて言うには、会にうまく馴染めず先生から言われた通りの絵を描けない生徒の作品であるらしかったが、太一にとってはその絵が救いだった。こいつだけははみ出してしまっていると密かに嬉しい。犬の絵も弱い線でひょろりと描かれて上手くないのがよかった。
「村役場の仕事帰りに立ち寄ったのだけど、あそこで立花敏樹の写真展をやっているんだよ」
 役場のギャラリーはプロの作家が使うようなものではないはずだが――。「あの敏樹君の?」
「プロフィールの写真は確かに彼だった。それに、写真の中にあの日撮影したものが混ざっていた」
「吉川のアトリエで撮った写真ですか」
 壊されていた人形を思い出す。すでにもう夢の中で起きたことのようだったが、人形が壊されている光景だけは今でもありありと目の前に浮かび上がる。
「どうやら真美子と言っていた人の写真もあった。それから、僕の店の写真も。あの日、僕たちを店まで送り届けてくれた後、撮ったのだと思うけど、高感度フィルムだろうか、闇の中にぽつんと僕の店がある写真が一枚あった。役場の担当者に聞くと、敏樹君は今、海外での撮影に出かけてしまったそうで、連絡は取れないそう。時期が来たら役場で写真を片付けて保管するらしい。写真展は太一さんも一度行って見てみるといいよ」 
 じゃあ、またそのうちに連絡する、と言って恵三は電話を切った。
 天気予報では午後から小雨が降ると言う。酒屋の午前中は客も少なくて暇だし、配達の予定もなかったので、太一は店の外に出て、「所用にて午前中臨時休業」のプレートを掛けた。立花敏樹の写真をすぐにでも見てみたい。
 恵三から聞いた通り、ギャラリーでは立花敏樹の写真展が行われていた。三面ある壁に大小の写真がびっしりと百枚ほど貼られている。
 入って左側の壁面にはワンピース姿で舞を踊る幽霊みたいな女性の写真が数十枚と、同じ女性がカメラに向かって笑っている写真が数枚あって、タイトルは全部まとめて「真美子」となっていた。A4の白い用紙に黒のマジックペンで無造作に書いて貼ってある。
 真美子という女性の笑顔は無防備だった。この写真からすると回復しつつあるのだろう。この一か月でのことなのだろうか。何がきっかけでそうなったのか。あの吉川劉星の人形工房で球体関節人形が無残に壊されたことで、まるで呪いが解けたかのように笑顔を見せたのかもしれない。それとも、改めて珈琲でも飲んで目が覚めたか。
 なんとなく真美子の表情が寿司屋のさと子と重なって見える。数日前、さと子はなおやに連れられて店に来た。まだぎこちないながらも笑顔を見せて、昔のように地酒の注文をした。なおやが
「理由はわからないけれど、ここひと月で随分回復した」
 と言った。太一は吉川の人形工房から持ち帰ったさと子の人形を製作するための設計や、作りかけだった人形のパーツのことをなおやに言わなかった。持ち帰ったものは既に恵三の家で整理して、知り合いの神社でお焚き上げにした。全部、秘密だ。
 ギャラリーの正面に展示されているのは、敏樹と恵三と太一の三人で訪れた日の人形工房の写真群。人形だとは言え、憐れなほどに壊されている。改めて写真で眺めると、より一層そこにある狂気が感じられ、敏樹という写真家の才能を確信させるものでもあった。現場以上に写真の方が目を覆いたくなるものがある。
 その中の一枚、右端にそっと貼られた小さなスナップ写真に太一は目を奪われた。吉川が写っている。壊れた人形の中に立っている吉川がいる。ということは、あの後、二人は連絡を取り合って再会したのだ。写真の中の吉川はうっすらと微笑んでいる。まるで逮捕されても反省すらしない犯罪者の表情ではないか。あるいはあまりの惨事に力を無くした被害者なのだろうか。
 壊れた人形たちを撮影した写真群には『無人島の二人称』と書いたタイトルが貼り付けてあった。
 無人島の二人称か。なんと冷酷なタイトルだろう。誰もいない無人島で
「あなたは――」
 と語りかける吉川の声が鳴り響く。
 確かに、吉川以外には人形しかいなかった。
 壁の右上にもう一枚、小さなスナップ。それは、人形たちが片付けられ、まっさらになった畳の部屋。畳の部屋の写真には明るい光が射しこんでいる。
 太一はその畳の部屋の潔さを見て、本当にこの出来事は吉川の無人島での独り舞台、一人語りとしての二人称だったのだろうかと思った。回復した真美子という女性の写真の笑顔が、吉川が出会った頃のものだったかどうかはわからない。ひょっとすると、もっとずっと前、彼女の一番奥に潜んでいた生まれたての笑顔が太陽の下に晒されたのかもしれない。彼女の中に造り込まれていた、ありとあらゆる人形性が、吉川の手によって叩き壊されて。
 だとしたら吉川は無自覚だったとしても、小野山総一郎が真美子に求めていた人形性を破壊しようと、長い間戦っていたのだろう。
 最後の一面には、一メートル四方に引き伸ばした写真が貼り付けられている。恵三の喫茶店を撮ったものだった。あの日、敏樹の車で送り届けられ、太一と恵三が店に帰って行った後撮影したものだろう。闇の中に店の窓がぽっと灯っている。光量が足りないせいで絞りを開放したのか、やや手振れのある仕上がりになっていると思われた。それが却って記憶を念写した風合いを強めている。プロの仕業だから意図的なのだろう。写真全体に滲みなのか、満月にかかる暈のような丸い輪が浮かんで見えた。なんだろう。幻想的に見せるために後で加工したのだろうか。それにしても、もしもその穴に足を踏み出せば、写真の表面が柔らかく溶けてしまって、すっと中に入って行けそうに思えた。
 その写真の右下にも小さなスナップ写真があり、しゃがんで見ると、写っているのは数冊のノートだった。ああ、これは、さと子さんの設計が書かれたノートの一部だ。車のバックシートに忘れてしまったのか。どうしてそんな大事なものを置いてきてしまったのだろう。もしもさと子の回復が不完全なものになってしまったとしたら、このノートがまだ立花敏樹の下に存在してしまうからかもしれない。いつか敏樹と再会して、返してもらえるだろうか。
 この最後の壁に貼られた二枚の写真のタイトルは「忘れ物」だった。
 太一はもう『Q村神隠し事件研究会』に足を運ぶことはない。当然、どこかで吉川やしんちゃんが待ち伏せすることもない。『標本クラブ』は今でもどこかで行われているのかもしれないけれど、こちらからは情報を得ることもできなくなった。
 気付いたら全ては元通りだ。
 太一と恵三と山岸の三人で百年の孤独を飲み直している時を最後に、誰もめぐみの話をしなくなり、思えばそれも昔からそうだった。三人で飲んでいる時にはそれぞれの妻の話などしない。だから、今まで通りに戻ったのだ。
 さと子も太一と恵三が敏樹の車に置き忘れてしまったノート数冊分の憂いを残してはいるものの、ほとんど回復して、かつてのように太一の店に買い付けに来ている。
 変わったことと言えば、太一が恵三のKブレンドに惚れこんで店に通うようになり、それだけに収まらず、豆を買って家で淹れてみるまでになったこと。それくらいだった。
 休日の午前中、ダイニングテーブルで太一が淹れた珈琲を美弥子と飲む。穏やかな時間だ。頂き物のクッキーを美弥子が皿に並べてくれる。
「十五夜をテーマにして書いたの」
 素直に作品を見せてくれるようになった。Kブレンドの効果だろうか。
「月見団子の絵を描いたり、月に兎の絵を描いたりする人もいるのよ」
 美弥子の絵は満月にススキ。敏樹が撮った恵三の店の写真を思い出した。あの月の暈みたいに吸い込まれそうな黒い縁。よく見ると、絵手紙の満月には小さな虫が飛んでいる。
「これは満月を電灯と間違えて近寄って来た虫の絵ですか」
 太一は茶化すように言ってから目を凝らして葉書を見つめた。
 紫色の虫だ。テントウムシだろうか。
 ふと「山岸めぐみの手紙」を思い出す。吉川の家で捏造された消印を見つけたのだから、きっとあの手紙は吉川が捏造して書いたものだったのだろう。だけど恵三がめぐみから直接聞いた話でも、実際に紫の虫は山岸の家に侵入し、夫婦の間で飛んでいるとかいないとかでもめて喧嘩になった。吉川はそのことをなぜか知っていて、めぐみに成りすまして手紙を書き、恵三に送り付けてきたのだろう。山岸めぐみが神隠しに遭った後に、手紙によれば脱魂状態で訪れたという「新田郡」では虫はごく当たり前に飛んで、美術館に飾られている絵画にも昔から描かれているらしかった。今でもめぐみの魂は「新田郡」を彷徨っているのだろうか。そこでは地下にある演奏会に行き、誰とも話をしないままに強い一体感を得ている。そのうち、また恵三の家に「新田郡」から手紙が届くかもしれない。誰かが新しく作り直した消印を押して、夜のうちにそっとポストに入れるかもしれない。
「虫なんて描いていないわよ」
 美弥子は絵手紙を太一の手から取り戻し、目を近付けて眺めていた。「珈琲の染みが着いたのかしら。描いたつもりはないんだけど」
「よく見てみなさい。テントウムシのようなのが満月の中にいるでしょう」
「ないわよ。あなた飛蚊症じゃないの。検査してもらった方がいいわよ」
 絵手紙を太一に押し戻し、美弥子は不貞腐れるような表情をして珈琲をすすった。
 太一は目をこすってからもう一度絵葉書に見入った。
 確かに、ない。テントウムシ、いない。
 あったはずだが。
 美弥子の言うように飛蚊症なのだろうか。
 柔らかく立ち昇る珈琲の湯気の中に、どこからともなく紫のテントウムシが飛び出してきて、二人の間をふわりと舞ったような気がした。
(第七章 了)

エピローグ

 お久しぶりでございます。手相を拝見いたしましょうか。やり方はいたって簡単、モルモットを掌に乗せて頂き、その時の様子から、ささやかながら感じるところを申し上げます。
 と言っても、あなた、ご存知でしょうね。以前、来られたことがある。道に迷われて、ここに来られた。お名前は仰らなくてもよろしいですよ。お名前は最初の一回目しかお伺いしない決まりになっております。
 そう言えば、前にいらっしゃったあの時、ちゃんと元の所に帰って行かれましたか。大丈夫だった。そう。近くの鉄道に乗って? それならよかった。あの時は申し上げませんでしたが、実のところ、迷子になった方が私を道先案内人と見間違えてここまで来られて、どうすればよいかと道をお尋ねになることが頻繁にございます。そういう場合にも、あの時と同じように手相占いをするものの、結局は帰り道がわからずじまい、それならいっそ、この辺りで住むところを見繕ってくれないかと頼まれることがございます。わたくしの方ではそんな大それたことまで出来ませんとお断りしますが、なかなかお引き取りになられないことも多い。あんまりしつこく仰る場合には、それではモルモットにして差し上げますから、この籠にお入りになりますかとお勧めしたりして。
 そちらの男性、ああ、あなた。あなたは今日で三回目。さきほども申し上げましたが、お名前は仰らないでよろしい。あなたが子供の頃にお母さまとお二人で来られた際、お伺いしております。ですからもう言わなくてもよろしいのですよ。
 今日、お二人、お揃いでいらっしゃいましたか。それはおめでとうございます。だけど、もう、あなたたち、手相鑑定はよろしいでしょう? そちらの人も見覚えがある。二回目だ。そうじゃなくて、お二人の相性ですか? これからの二人の道行をお知りになりたいと。どうした方がよいかということですね。
 さて、どうか。
 そちらの方、赤いコートがとってもお似合いですけれども、それはともかく、あなたには前にも申し上げた通り、あなたの手は白いモルモットのように動物的な勘があります。手を使うお仕事などされているのでは? それはいいとして、そして、そちらの男性、あなた、前にも申し上げましたが、お母さまと連絡を取るといいですよ。子供の頃、どうして、そんなことお母さまが――、とわたくしにもわかりませんでしたけれど、子供の頃にお母さまが仰ったことを思い出して、今それを口に出して言わなくてもよろしい、ただ思い出して、ああ、そうか、そういうことかと、納得されたらどうでしょう。
 忘れたならそれもよし。
 相性というか、あなた方お二人のこの先の道行なんて、はっきりわかるものですか。そんなのいい加減なものでしょう。相性なんて意味の分からない断片の組み合わせで、ご自身たちでエイヤと、よいか悪いか決めるのでしょう。お好きにしなさい。
 それよりも。
 御二方、帰り道はおわかりでしょうか。今日も鉄道で? それはよろしい。それがよろしい。
 でも、もしも、駅まで歩いて行ったにも関わらず、あの鉄道が消えて無くなっていたなら、ここに戻っていらっしゃい。その際にはわたくし、迷うことなくこのモルモットの籠の蓋をあけて差し上げましょう。
 御気兼ねなくどうぞ。
 冗談ではなく、いつでもここでお待ち申し上げてしております。

(無人島の二人称 完)

参考文献

創造への飛躍 湯川秀樹著 講談社文庫
機械=身体のポリティーク 中山昭彦/吉田司雄 編著 青弓社
秘密結社の手帖 澁澤龍彦著 河出文庫
村のなりたち 宮本常一著 未来社刊
生業の歴史 宮本常一著 未来社刊
遠野物語remix 京極夏彦/柳田國男著 角川ソフィア文庫
異界歴程 前田速夫著 河出書房新社
望みのときに モーリス・ブランショ著/谷口博史訳 未来社
日本人の魂のゆくえ 谷川健一著 富山房インターナショナル
動きすぎてはいけない 千葉雅也著 河出書房新社
午前四時のブルー 小林康夫責任編集 株式会社水声社
米ソのテレパシー戦略 市村俊彦著 大陸書院
ヱクリヲ8 佐久間義貴編集
コーヒーが廻り世界史が廻る 臼井隆一郎著 中央公論新社刊
夜想bis ドールという身体
イブの肋骨 中川多理人形作品集
エクリヲ8 狂気の球体 山下研
エクリヲ8 暗黒機械と天使の歌 後藤護

 後で関連を発見したものも含めました。まだまだあるとは思います。》

※ここまでの解説
 あらすじ。
 壊された人形の写真を敏樹が撮り終えた後、敏樹の車で太一と恵三は恵三の店に送り届けられた。
 敏樹は二人の忘れ物を届けようとしたが、車を停めている場所と恵三の店の間に黒い輪郭が見え、恐ろしくなってそのまま持ち帰った。もう会えないだろうと敏樹は思う。
 太一は恵三からの電話で、敏樹が役場横のギャラリーで写真展をしていることを聞く。見に行くと、壊れた人形の写真や、真美子が白いワンピースを着ている写真や、その真美子が取り戻した笑顔の写真があった。そして、吉川が壊れた人形の真ん中で立ち尽くす写真と、人形を片付けた後の写真。それらには《無人島の二人称》とタイトルが付けてあった。他にも《忘れ物》として、ノート数冊分が撮影されている。太一たちが持ち帰ろうとして忘れたさとこの設計ノートの半分だ。
 神隠し事件に遭遇した女性たちは、少しずつ回復する者もあれば、そうでない者もいる。
 太一は妻の描いた満月の中に一瞬紫の虫が飛んでいるのを見た。
 エピローグとして、プロローグにも出てきた「モルモット占い」の占い師が登場する。おそらく敏樹とその恋人である亜由美を占っている。その亜由美は赤いコートを着ている。

さて。
 結局、犯人はいないミステリーとなった。神隠し事件はなにによってもたらされているのかわからない。吉川の作る人形や設計図と相関がないこともないといったエンドだ。そもそも犯人捜しではなかったのだ。「女性を人形のように見る視線とその視線が作り上げる魂の抜けたもの」を描いていたのだと思う。その中で、新型コロナウイルスのパンデミックの予言と一致する符号や、私自身の個人的な出来事の予感と一致するものがあった。
 エピローグで描かれている亜由美と思われる人の赤いコートはなにか。確か、第零章で敏樹が考案から撮影を頼まれていた女性も赤いコートを着ていた。
 ひょっとして、亜由美は公安から目を付けられている女性なのか。あるいは公安そのものなのか。または、神隠し事件を起こしている人間なのか。第零章で公安勤務の友人が敏樹に赤いコートの女性を撮影をさせ、その後、真美子の神隠し事件について調べるようにと促したのだ。
 今、私の中でつながったことがある。それは亜由美の職業であるネイルアートで思い出した。私もネイルアートをしてもらっていたことがあった。家でマニキュアを着けていたこともあった。しかし、特にリムーバーの成分が私に合わないのか、どうも体調がよくないと思って止めた。そして、『21番街の幻燈屋』の初回辺りで起きたビンドヴィサルガ開通時のトリガーも、油絵具の溶剤を喚起していない部屋で吸ったことだった。
 個人的すぐる解説だが、好きなマニキュアの色は深紅だったので、「赤いマニキュア、ベースコート、トップコート」と考えてもいい。エピローグで占い師が最後に言う「子供の頃にお母さまが仰ったことを思い出して、今それを口に出して言わなくてもよろしい、ただ思い出して、ああ、そうか、そういうことかと、納得されたらどうでしょう」と言ったことから考えると、手を洗う、つまり、私にとってはマニキュアをしないことが重要なのかもしれない。
 ちなみに、「忘れ物」の暗示として思い当たるのは、吉川が『標本クラブ』で真美子の人形を太一と恵三の二人に見せた時の言葉だ。
 
――「恵三さんが繊細な感覚をお持ちの方なのはよくわかりました。ただしこの二つの人形の違いは、他にもあります」
 吉川は事件後の人形の頭部に手のひらを当てた。
「でも、今は言わないでおきましょう」――

 この箇所だ。結局、それははっきりされなかった。それがこの物語にとっての「忘れ物」であり、何によって神隠しが起きたかの「答」の可能性がある。それについては物語に書かれていないが、身体の中に答があると暗示されていると考えられるだろう。

これで長編小説『無人島の二人称』の解読を終わります。

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