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感動する心から未来へ

コロナ禍になってから急にと言うわけではありませんが、特に感じるようになったこと…いろんな物事への『感謝』の気持ちが薄れている…何でも在って当たり前、して貰って当たり前、無ければ憤慨する!人生50年も生きてくればこの世の中に『当たり前』なんてひとつも存在しない事ぐらい分かります。そう思うだけの経験が在るからです。何も人生経験が少なくても幼い子どもだって子どもなりにそんな経験をしてしまう事だって在ります。不幸な生い立ちだけがそうである訳では無く、震災や事故などで思わぬ経験を強いられる事さえありますから。

人は経験でしか物事を理解出来ないワケでは無いと思います。人間には「想像力」と云うものがありますから他人の気持ちを予測する事が出来ます。それが相手の気持ちを思いやる…気持ちに寄り添うと言う事だと考えます。コロナ禍で行動を制限されて溜まったストレスの捌け口がどこにもやりようが無くなって、あちらこちらに散らばってしまっている様に感じます。その一つにSNS が挙げられると思います。匿名性が保たれる一般人に対して有名人は情報発信のツールとして利用していることも在って、格好の餌食になってしまっているみたいです。ちょっとした価値観の違いや言葉の選択間違いなど、日常のどこにでもある出来事だと思います。それが、こと有名人になると鬼の首を取ったかのが如く攻め立てられてしまいます。日常の会話の様な気軽さで書いたことで大きなトラブルに見舞われてしまう方もいるようです。例え削除してもネット上のどこかに残るらしいです💦一度出した言葉は二度と取り消せないのです。話しが横道にそれてしまいました!すみませんf(^_^)
『感謝』と言う言葉を辞書には何と書いてあるのだろう?と国語辞書が無かったのでググりました。

感謝(かんしゃ、英:Gratitude,thankfulness, gratefulness)とは、優しさ、贈り物、手助け、好意、その他の厚情を受けた人物がそれらを施してくれた贈り主に向けて示す、ありがたいという気持ちやその感情を表すポジティブな反応である 。
謝の漢字の成り立ちを調べてみると、謝は「言」と「射」でできています。 「射」は矢を放つことであり、その結果、弓の緊張が解けることを意味するのですね。 言葉に出すことにより、心の緊張が解けること。 ということは、「感謝」とは、物事に接して、深く心が動いたことに対して、言葉を射る=発するということです。
*日蓮宗 ポータルサイトより一部引用
知恩【ちおん】“恩を知る”と書いて知恩と呼びますが、自分の幸福度を底上げする大切な行動です。
簡単にいうと、私たちは日常の中で様々なモノゴトから恩恵を頂き生きています。
その事を意識して感謝する事です。
感謝する言葉「ありがたい」の逆は何でしょうか?それは「当たり前」です。私たちが日常の中で、家族や職場の人から頂いている「恩」は、最初「ありがたいな〜」と感じていても、無意識にそれは「当たり前」になり、次第に「恩」に気がつかなくなるものです。ともすると、より多くを求めたり、感謝の気持ちを伝える事をしなくなってしまいます。
これでは周りとの関係が上手くいかなくなるばかりか、自分自信の幸せも逃してしまっていると思いませんか?大切な事は、周りに多くを求める前に、一度、自分がどれくらい周りの人に支えられているか、どれくらい多くの「恩」を頂いているかと、気がつく事が大切です。
報恩【ほうおん】
         ※“報恩”とは知恩と対になる言葉です。
周りから何かしてもらったら、その方へ「ありがとう」と感謝して恩返しする事は大切ですが、仏教ではさらに一歩先へ進めます。
「頂いている恩に気づく事(知恩)」が出来たら、今度は「自分も誰かに恩を送ること(報恩)」をします。つまり自分も誰かに自分の出来る事で「恩を送る」という行為が大切です。
「恩」を自覚したら、今度は「恩」を送って「恩の循環」をしてあげましょう。
それは巡り巡って自分を幸せにする行為です。
「ありがとう、と言おう」「ありがとう、と言われよう」と意識して行動する事が大切です。

「当たり前」では無いことに気付き、「ありがとう」と言う気持ち(感動)を伝える…それが『感謝』なのですね。「当たり前では無い気付き」何でも手に入るいまの時代にはともすれば忘れてしまいそうな感情かもしれません。ひとは「ありがとう」と感謝を伝える時に無意識に手を合わせて拝む様な仕草をします。手を合わせる…合掌とは自分の心に向き合う事だと聞いた様な気がします。「感謝」を伝えると同時に自分の心にも向き合って居るのかもしれませんね。それは敷いては自分を知り相手を敬う心なのかもしれません。コロナは大変恐ろしい病気です。しかし医学は日々進歩していますから数年後には予防が出来る病になっている事だと思います。しかし罹患していない人間にとって現在の状況は我慢を強いられて苦痛の連続です。のみならず…あらゆる業種や業界が苦境に立たされて『不要不急』が合言葉の如く叫ばれています。共存出来る環境を模索しなければ、数年後までの間ずっと自粛を続ける事になってしまいます。お互いが歩み寄らなければ解決策は見つからないのでは無いでしょうか?ワクチン接種が進んでいる今はもう「アフターコロナ」へと踏み出しているはずです。時代が動いているのに、各々は止まったまま動き出す事を禁じられている様に感じているのは気のせいでしょうか?歩み寄り、寄り添わなければ話し合いは出来ないと思います。片方は席に着いて居るのに…一方的に上からものだけを言うのは土俵が違うと思います。
特にエンタメ界と飲食店に関しては早急な対応の必要性を感じています。たかが娯楽では無くて…必要な娯楽なのです。飲食も観劇も生活を楽しむ為に必要なビタミン剤だと思います。娯楽を楽しむ為に働く…生活の為以外を目的に働ける事は素晴らしい事だと思います。

飲食やエンタメは私たちに感動を与えてくれます。感動する心は豊かになります。豊かな心は余裕を生みます。余裕のある生活はゆとりがもたらされます。ゆとりのある生活は豊かな未来を育みます。豊かな未来は子ども達の未来へと続きます。子ども達の未来こそが世界の未来なのだと思います。全ては繋がっていて、無駄なものなど何も無いのです。今一度立ち止まって考えなおして頂きたいものです。

そして…与えられることに当たり前になったわたしたちは、それが与えられない…受け取れなくなった時に戸惑ってしまう。あまりにもそれが当たり前だったから…まさか突然それが失くなるとは思いもしないから…

あの日、突然失われたひとつの命。
あの日を境に見失われた、たくさんの心。
まだ心はさ迷って居ます…
たった1年で納得出来るハズでもなく…
何処に向かい、何処を目指して行けば良いのかすら分からない程に…

彼女たちの傷付いた心が癒される事は無いのかもしれません。でも眼を開ければ、そこには彼が愛したエンターテイメントの中にたくさんの魅力的な人達がコロナに向き合いながら頑張っている。今は彼への喪失感から哀しくて見る事がツラいかもしれないけれど…当たり前では無いことに立ち向かってる人々へも眼を向けてみて欲しい。彼らこそ三浦春馬を継承してくれる人々なのだから。彼と知り合い…彼とふれあい…彼と共に舞台や仕事をした人たちの心の中に息づいている『三浦春馬の欠片』を感じて欲しい。そんな影響力の在った素敵な俳優が存在した日本のエンターテイメント業界の未来の為に…闘うエンタメにエールを贈りたい。


#三浦春馬  

拙い文章への共感やサポートありがとうございますm(_ _)m