寛容のジレンマを辞める時
近頃の日本は不謹慎だという言葉が多すぎる。10年前はこんな言葉葬式くらいでしか使わなかったんじゃねぇのかなと思っている。10年前はまだ小学生だったので、ただただ僕の世界が狭かっただけかもしれないが。
僕はおそらく寛容な人間である。芸能人が不倫してようが知ったこっちゃないし、営業自粛の中やってる店があっても、この辛い中大変かもしれないけれども頑張れ、としか思わない。どこかのプロレスラーの死でどこかのyoutuberが炎上商法しようが、どうも思わない。人の死で金を稼ぐなというのであれば、母の死を嘆く歌も、天国に向けた友に何かを誓う少年漫画も、死んでしまった恋人が忘れられない純愛映画も、一緒になくなってしまえばいい。自分に影響のない行為など所詮はその程度でしかない。
世の中には、「自分は何も関係がないのに、他の人が不快に思うかもしれない」事で、まるで自分の事のように怒ることができる人がいる。とても共感能力が高い優しい方々なんだろうなと思う。(これを皮肉と感じたひとは僕と同じ感性を持っているので、安心して欲しい。)
僕は、世界にいる全員が寛容になればいいと思う。勿論、自身が不利を被る行為以外は見て見ぬ振りをしようということではない。道にポイ捨てをする奴を見て見ぬ振りしろと言ってるわけではない。警察官が休憩中にジュースを飲んだっていいじゃないか。歌手が不倫したって良い歌歌うなら良いじゃないか。変なyoutuberが変な動画出したって見なきゃ良いじゃないか。金で女を買うことしかできない芸人が、少しでも若くて擦れてない女を抱きたいと発言したって良いじゃないか。
少し話が逸れてしまったので、さっさと纏めてしまおうと思います。
寛容な人間は、寛容故に押し付けない。他人の行為に対して不寛容な人間に対しても寛容になれと押し付ける行為は、自身が寛容であることを否定する行為になってしまうことを知っているからである。(僕はこれを寛容のジレンマ読んでいます。)対して、不寛容な人間は声を荒げて、「問題っぽいこと」に対して大きく気持ちを表明する。これが大きく問題なのである。
インターネットがない時代は、「あぁなんか一部の人間がなんか言ってるな」で終わったのかもしれない。しかし、snsでこれをすると「あぁなんかある人がなんか言ってるな」に変わってしまう。この『一部』と『ある人』の似て非なる言葉に大きな差異がある。捉える側は、この意見が全体のどのくらいの割合の人間が言ってるのかわからないのだ。SNSによって個人にスポットが当たりやすくなったことにより、ただただ声のでかい一部の人間の意見が、まるでこの社会全体の総意であるかのように捉えられてしまう。
寛容な世界になればいいと思っているが、それを押し付けてはこなかったお前ら。そろそろ動かないと不謹慎警察の方々がどんどん増えて、生きづらくなってしまうぞ。「寛容を押し付けるなんて寛容ではないではないか」とか言ってる場合ではない。不寛容に対して不寛容になろうな。