愛という霧
愛。
それは人類の永遠の命題かもしれない。
世間と繋がっていると、常に人々は愛について語り、疑問を持ち、説き、悩み、泣いて、笑っているなと感じる。
それはそれぞれ形や質の違うもので、一括りに愛と呼ぶにはあまりにも広義だ。
家族愛、というものは分かる。
私には父と母ときょうだいとペットがいて、わたしは人並みに彼らのことを愛していると思う。
大事だし笑顔でいて欲しい。健やかで幸せであって欲しいなと心から願っている。そのための努力は惜しまないし、そこに嘘偽りは無い。
わたしが問題だと感じているのは、わたしには恋が出来ないということだ。
老若男女問わず、わたしが他人に向ける好意というものは、家族への愛情やペットへの愛と変わりがないのだ。
恋人がいたこともある。しかし、恋愛漫画に出てくるような、浮ついた気持ちというものが分からない。友達とお茶を飲んでいる時に浮つくことがないのと同じで、恋人という肩書きの人物とお茶をしようが映画を見ようが、夜景を見に行こうが、胸がドキドキしてたまらない…!なんて気持ちになることは無い。
待ち合わせて楽しみだなあと感じるのも全く変わらないし、お茶もご飯も一緒に食べて美味しいし、映画は面白くともそうでなくとも感想を言い合って、綺麗な景色には普通に感動する。それが恋人でも家族でも友達でも、質が全く変わらないのだ。
LINEの返事が遅くても「忙しいのかな」くらいしか感じないし、急を要するときは早くしてくれとは思えど、度を越えなければ催促もしない。そもそも本当に急ぎなら電話をすれば良いのであって、相手からの返事を待ち続けて悶々として枕を濡らす夜など過ごしたことがない。する必要が無いのだ。
浮気にあったことも数回あるが、他人に奪われたという気持ちよりは、守って欲しいと伝えた約束を破り、嘘をつかれた方がわたしを傷つけたくらいだ。
恋人という肩書きによる上向きの補正、つまりはバフがかからない。
これが人とお付き合いをするにあたり、非常〜〜〜に厄介だった。
相手はそういった意味の、恋という意味の浮つく気持ちを持ってわたしに接してくるので、漫画で読むようなあれこれを見事に披露してみせる。駆け引きもしかけてくるし、試すような行為もしてくる。他とは違う特別を表現したがり、私に対しても似たような対応を求めてくる。
わたしにはそれが非常につらかった。同じ気持ちで返すことが出来ないことが心苦しく、またそれはわたしに重くのしかかるプレッシャーだった。
相手の好きとは違うということが、次第に相手にとって棘に変わる。「冷たい」「いつもどこか冷めてるよね」といわれ、私たちが向く方向がほんの少しの角度としてズレる。それは次第に時間が経つほどに、距離がどんどんと開いてしまう。
それらは取り返しがつかない。
そして相手は自分と同じ質の好きを持てる相手と知らないうちにことを済ませていて、わたしは相手へ嘘をついたことを咎める。
浮気をされたことがショックでは無いことに気づき、改めてわたしの異質さを自覚し、わたしは口を噤む。
そうやって我慢して、限界を迎えて、終わりを迎えてしまったお付き合いがあった。
懲りて疲れて、わたしは人とのお付き合いを諦めたのだが、今日ふとどうしてわたしがこうなったのか思い当たるものを思い出した。
多分、元凶はわたしの祖母なのではないか。
わたしは物心着く前から祖母に悪態をつかれ、叱られながら育ってきたらしい。
相当に大きくなってからも「アンタはあたしがいくらあやしても泣き止まなかった!電話ができないくらい大泣きしていたのよ!」と言われ続けるほどに、彼女はわたしのことが嫌いなようだった。
わたしは小さい頃ごめんなさいを言えないタイプの、頑固で意固地で負けず嫌いな非常に扱いにくい子どもだった。
その場でわがままを言い続けて駄々をこねることはなく、諦めたように見せかけて、裏ではコツコツと密かに自分の目標を達成させようとするタイプだった。
そしてそんなわたしとは対極に、さらりとわがままを言って、人に甘えることが得意だったのが、わたしの上のきょうだいだった。
きょうだいは小さい頃から人に取り入るのが上手く、器用な子どもだった。
その証拠に、気難しく面倒な祖母に取り入って、一人だけ小遣いを貰い続けていたくらいだ。
そしてわたしはその頃からアラサー前後まで、器用なきょうだいのことがずっと嫌いで仕方がなかった。要は自分に無いものを持っているのが羨ましかったのだ。
祖母は甘え上手なきょうだいをよく可愛がり、わたしのことは「可愛くない子ども」と言って眉をひそめた。
わたしは小学生高学年の頃、試しに祖母の言葉に全て頷き祖母を讃え、余計なことには何も言わないように接したことがあった。
祖母は「あなたもようやく可愛げが出てきたわね」と言い放ち、母を褒めた。
その日からいい子を辞めた。
何をしようと気分次第の祖母からも好かれたいと思っていたことに驚いた。
無理に機嫌を取ってまで、こいつに好かれようとしなくていいじゃないかと思い、二十一歳の時の喧嘩を機に彼女とは縁を切り、それから一切会っていない。死した場合でも会うつもりはない。
愛などという掴めもしない存在するかも分からず、遠くに色を確認できるだけのものに縋ることがどれだけ無駄なことかと気付かされ、そこからわたしはまた根本的に壊れて歪んでしまったのだ。
きょうだいに、「結婚や出産を考えているか」と尋ねたところ、「過程で有り得ても今のところはゴールや目標では無い」というなんともドライな回答を得た。
きょうだいはそうだろうなと思い、わたしはそういったことを出来る人であるきょうだいに全て任せることにした。
出来る人がすればいいのだ。その役割は私でなくとも構わない。
きょうだいとはそんな話ができるほど、今では仲がいい。きょうだいのことは特別愛を注ぐ必要も好かれたいと思う必要も無いからだ。
ないものを欲しがって落胆して妬むよりはずっといい。
わたしの愛は全て同じ質のもの。
愛すること、愛されることに努力は必要ない。
何も無くたっていいということ。
そのことに気がついたただけでも、機能不全のわたしにとっては十分幸いなことなのである。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?