SとM

Sadism とmasochismについて、最近シンプルで新しめな言い回しが見つかったのではないかと思って書いてみました。

S 物事の処理の向上へのベクトル
M 感覚の向上へのベクトル

乱暴かもしれないんですけど、Sな人って「俺Sだぜ」と自己申告する人も含め、悪い時は暴力的な態度に走る要素があるかもしれないですが、良い場合、仕事ができる人が多いと思うんです。

逆にMはS感覚重視の人からすると、理解しがたい部分があると思います。受け身というか、何を考えてるかあまりはっきり言わないとか、色々あると思います。
でもMの人本人が気づいてるいるかわからない

ですが、Mって広義で無意識に感覚を先鋭化させる態度なのでは?と思ったのでした

僕は結果的にSM両方重要な部分があるなと考えていて、それは最近読んだある本がきっかけでした。

その本によると、AIをはじめとするロボット技術発展で最も可能性がありそうなのは、情報集積や処理、そこから導き出される決断まで、簡単に言えばインテリジェンスの部分の向上だそうで、一方で近未来を映す映画に見られるロボットが意思を持ち人間に反逆するシュワちゃん的?なシナリオというのは、完全にないとは言えないものの、インテリジェンスの向上の上では起こりえないだろうという事らしいです。

それによれば、なぜかというと、Intelligence とconsciousness (意識)というものが全く違う要素なんだそうです。

その違いの説明がSとMっぽかったんです。

だからここでいうと

S 物事の処理の向上へのベクトル→intelligence の追求

M 感覚の向上へのベクトル→consciousnessの追求

という感じで繋がってるんじゃないかと思って。

でMについて掘り下げたいのですが、consciousness というのは物事を”感じる”能力で、動物や哺乳類が生きる基盤になっているもので、未だにわからない部分が大きい。それと我々現代人は例えば、ご飯を美味しいと感じる事を情報処理の時間(仕事)を優先してしまって、無視してしまうことがありますよね(コンビニ弁当を短時間で口に放り込むイメージ)。

狩猟採集時代では感覚が先鋭でないと様々な種類のキノコから視覚や匂いで毒ではないものを見極めたり、優れた視力で、長距離の獲物を察知できなかったと思います。

なので現代の生活では、ややもすると元から備わっているポテンシャルの感覚を使わないで退化させ、どんどん処理する能力だけを優先させてしまっているということなのです。

でもインテリジェンス(情報処理)の部分は人間を上回るだろうけど。それをコントロールしたり共同で活用していく(バイオニックハンドに見られるような)のは意識を持った人間であり、要は能力も大事だけど感覚も鍛えないと間違った選択を、それを扱う人間が下してしまう可能性があるからなんです。

それが格差とか差別をはじめとする社会で問題とされている事にリンクするような危険になる可能性があるんですね。

では、Mになることが大事だ!とここで締めくくると不本意というか変になるんですけど、そういうことでなくその態度が盲目的に向かっているところは何なのか、もしや、と思った次第でまとめてみました。

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