違うから楽しめるのか、 同じだから楽しめるのか
そもそも論的な話ですが、クエスチョンは果てしない...
文明というのは認知革命や農業革命以降、大人数による人間同士の協力を可能にしたことによって発展したと思うんです(Yuval Harari)。
個々の人間は性格や好みがバラバラ。
でもそんな風に全然違う考え方でも、そんなものをとっぱらって一緒に何かが出来る。
これが、言ってみれば人間であることの一つの大きな醍醐味なんじゃないだろうか?と思ったのです。
しかし、昔は奴隷性があったし、農業によって変わった生活様式によって疫病も増えて醍醐味なんて言えるのは支配者層だけだったろう。と
時代はかなり飛んで、インターネットの普及後も、要はその流れを受け継いでいるとは思うのだが(私達が今お金を使っている様に)、共通性が多様化したり分散して、貴方はどの様な人で何が好みで、という段階を踏んで、ある特定の分野で共通性を持てる人達と時間を共有することを好む風潮になってきた。
さらに、連絡手段に留まらず、自分の思ったことを文章やヴィジュアルで表現出来るようになった分、以下のことを利用者に突きつける風潮をもたらしたと思うのです。
1、貴方と私は文化的背景や言語、見た目、考え方、感覚が似ているから、好きになれる、
ことと
2、貴方と私は全然違う、だからこそ何かで接点が持てたり共通点があると面白い。
この問いは、要は先程述べた人間の醍醐味からいえば、時代てきに後退したクエスチョンなんじゃないかと。いや、そもそも、みたいな。
この2つのせめぎ合いが、現代の社会の風潮で、インターネットが大きく関係している気がするし、政治家の政策を左右するトピックにもなっているのではないだろうか(US,ヨーロッパの右傾化など) ?
でも、これはインターネットなどの技術の進歩が人間の肉体、フィジカルな進化よりはるかに早いからではないだろうか?
便利になって、好みが細分化し、そのニーズに答える様に技術が進歩したら今度は肉体と精神が追いつかずに分裂が起こってしまった。これはただの通過点における現象なのかもしれないが、こんな感じで技術の進歩の方がどんどん早くなっている。
そんな中で私は後者の方にやはり可能性というか醍醐味を感じるんです。
ポイントは、それが簡単ではないということ。
その違いが大きすぎれば、単に恐怖してしまいます。それを受け入れるのはタフで無くてはならない。
又、要は1も2も最終的には(同じ)ものに帰するので人間が同じものを求めるのは変わらない。
でもそれがすでに存在している「同じ」なのか、違いの中に同じ(っぽい)ものを見いだすのはわけが違うのだ。
ところで例えば、言語の「違い」も翻訳の技術が進んだら、「同じ」人が増えることになる、でもそれだけでは終わりではなくて、どの様な人かという好奇心は続く。
だから「同じ」にする作業だけにフォーカスしても終わりがないのは予想できる。
なんだろう、「同じ」にする作業をおろそかにしてはいけないのだけれど結局それが目的になってはいけないという事だと思うんです。
そうすると、同じ世界を洗練されていって更に小さく濃密な同じ世界の中に閉じこもっていくことになるんです。
そうすると恐怖の対象が増えると思うんです。
だから「違う」存在と、どう関係を築いていくか、みたいな。そこだと
そういうことが弊害も含めて政治の世界やニュースなどで現れている気がするんです。
結局、根本的に人間の人間たる特徴や本当の醍醐味って何なのか?と問われている様な気がするんです。
違うから面白いのね〜、とそういうことを言えるとき、その人は結構かっこいい気がするんです。
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