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ある大きな木の話(その二)

「震災の後の記録」VI

 西原村の自宅への道は橋の一部が崩落し、ダムが決壊したため、大きな迂回路を経なければなりません。迂回路ですら、ところどころ崖や石垣が崩れ、道を半分近く塞いでいたり、アスファルトがめくれあがり、陥没して地面がなくなっているかに見える箇所すらあります。
 そのようななかで片づけに出かけた自宅の郵便受けに一通の封書が投函されていました。それは、電話が不通になったため郵便で安否を気遣ってくださった、私の恩師の一人であり年長の友人でもあった方の奥様からのお手紙でした。14日の最初の揺れの直後に書いてお手元に留め置かれたお葉書と、16日のさらに切迫した事態が出来した後のお手紙が一通の封筒に収められており、いずれも短い御文章でありながら、当方に負担をかけまいというお心遣いと、いつもの涼しい笑顔と奥ゆかしいお話ぶりとは異なる、逡巡の空気と、私と家族を襲っているかもしれない危機に対するお心の揺れが示されていて、奥様のありがたい真っ直ぐなお気持ちが私の胸に刺さりました。張っていた気が解(ほど)けた私は、思わず軍手やヘルメットを外して座り込み、あらためてその端正なしかし急いで綴られた文字をもう一度読み返しました。
 学生時代に勉強の相談のために掛けたご自宅への電話を恩師へ取り次いで下さったときのやり取り、恩師のお葬式のときの短い会話、その後お悲しみの深さを伝え聞いて思わず掛けた幾度かの電話、そうしたときのお声が蘇り、年少の少しばかりの面識しかない私を真剣に案じてくださった奥様に、山を下りた翌朝に電話にて無事を報告しました。
 無事の知らせ自体は、妻が残した伝言ダイヤルで確認できたとの由。しかし、私には、お手紙へのお礼とさらにもう一つ奥様に申し上げることがありました。
 それは、先に別の投稿にて記した、私たち家族を護ってくれたケヤキの木は、生前恩師が一度だけ私たちの家に遊びに立ち寄って下さったときに、「あの辺りに何か好きな木を植えるといいんじゃない」と仰ったことがきっかけで、少しさびしい空間を満たして庭に彩りを添えるようにして植えた大事な木であった、ということでした。私たちはケヤキの木と、そしてそれを植えるよう促してくださった恩師の言葉によって護られていたのです。  

 母屋に覆うように影を掛けていたこと、私の技術と道具では剪定できない大きさになったこと、訪れる鳥たちと子供たちとが庭で遊ぶことから薬を使わないために幹に虫が入って弱り始めていたこと、隣り合わせたヒメシャラやモミジが十分な木蔭を用意できるようになり、林床の明るさを確保するには、ケヤキの相当量の枝を下ろさなければならなかったことなどを理由に、惜しみつつ伐採したケヤキでしたが、時折切り株から小さい緑の葉が萌え出ており、根の活動はしばらく続くだろうことが見て取れていました。奥様は丁寧な相槌を打ちながら私の話を聞き終えると、「主人の霊前に報告しますね。きっと喜ぶでしょう」、と少し声を震わせながら仰ってくださいました。
 岡部雄三先生。謎に満ちた、霊的な存在でした。柔和な物腰で、笑われるときには少年のように破顔されながら、くっくっくと、いつまでも笑っておられました。自然と音楽と言葉を愛され、それらの深い滋味を呼吸して輝きながら日々生活しておられました。
 触れるものをみな切り刻んでしまうほどの鋭い知性と、弱いものへの溢れる慈しみに、私は生前畏れつつ、甘やかされ、先生と話しているときには、自分自身までもがまるで特別な天分に恵まれているかのように錯覚することができました。しなやかでかつ雄々しい文章で、ご自身の垣間見られた神秘を語ることのできる稀有な、真の学者であられ、先生の遺著を書評することを任ぜられたときは、私の持っているすべてを傾けました。57歳という若さで惜しまれつつ天に召されたことを奥様から電話で聞き、駆けつけた東京の教会で執り行われた御葬儀では、私は立つことができないほどの悲しみをおそらく初めて味わい、人の目を憚ることなく、弔いという以上に無念の涙をとめどなく流しました。
 その後、遣り切れないことがあると、微笑して「うむ、ですね」と仰る、先生の口癖を真似ていた時期があります。小さなことに囚われて迷いが生じそうなときには、岡部先生が傍におられたならきっと明るく笑い飛ばすことじゃないか、と、自分を鼓舞して乗り越えてきたことが幾度もあります。研究上の私の着想のいくつかには岡部先生にしか話が通じなかったものがあり、それらについては先生がお亡くなりになって7年を経た今日まで、他の誰かと共有することを試みる気になれず封印を続けてきました。
 こうしたことは、ごくごく私的な感慨と言えばそれまでで、このような場所にいわば晒してお目に掛けることが正しいのか、わかりません。地震によって様々なものが振い落されなければ、私はこれを胸にしまったままにしていたように思います。ただ、私はこの私淑していた恩師が最期にもう一度だけ私と私の小さな家族を護って下さったように思えてしかたがなく、そして、あとは自分で歩いてごらん、と、あの笑顔で手を振っておられる姿が目に浮かぶのです。

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