⚫️ジョン・レノン『失われた週末』をなんで今さら見に行くんだろう?
気になっていた映画。今、予約しました。
普通映画見てから感想を書くでしょう。
でも、見る前から書きたいモヤモヤが出てきているので素直に書き留めたい。
率直に書くと、僕はビートルズ・ファンであって、レノンのファンではない。
ビートルズは「現象」であったが、4人がセパレートしてしまえば、それぞれが一人の音楽家に過ぎない。
最初から1人であれば何の琴線にも触れなかっただろう。
ソロになってからの4人はぼやっと見ているだけだ。
解散といえば、とくに解散の引き金とも言われたオノヨーコは、今でこそアーティストとしての尊敬を集めているが、出てきたときは「なんだこのおばさんは?」という感じであった。
ビートルズといえば、舶来品(死語?)のスタイルとかっこよさであったのに、なんか真っ黒い忌まわしい日本の影がよぎるようだった。
日本の薄暗い家屋や、ちゃぶ台や、何かもったりと湿ったすべてのダサさから遠ざかろうと思っていたのに。
オノ・ヨーコはこの時点ですでに立派なコスモポリタンであって、僕が偏見を持つ意味での日本人ではなかったろう。
その存在感は今見ても強すぎる。
パティとか、シンシアとか、他のメンバーの奥さんと比べるとわかる。
オノ・ヨーコは最初からビートルズ・メンバーと対等の存在感でそこにいた。
その肚の座り具合は大したものだが、当時の僕のようなビートルズ・ファンにとっては災難であった。
そんなふうにジョンの「転落」(←必ずしも悪い意味ではなく)は始まった。
つまり、この原稿はジョン・レノンのファンではないのになぜこの映画を見に行くか、という話になる。
ジョンの写真を初めて見たのは小学生高学年のとき、シングル盤のレコードジャケット。
今から60年近く前である。
それからずっとジョンのイメージは虚像・偶像だったと言ってよい。
大スターの実像などわかるはずもないし、わかる必要もないのだけれど。
西洋の2枚目だと思っていたのに、インドに行ったり、丸メガネをかけたり、後期から解散以後に向けて顔の印象も変わった。
マッシュルーム・カットとスーツや制服で武装していたのに、髪型を変えるとやや間延びした白人顔と言えなくもない。
「マザー! 行かないで! ダディ帰ってきて!」という歌を叫ぶし。
プライマルスクリーム療法というのをやるし。
ヨーコとの出会いによって、皮が剥けて赤裸々な悩める人になっちゃった。
バギズムといって、ヨーコといっしょに白い大きな袋に裸で入るアート、主張をしたり。
いちばん強烈だったのが、ヨーコといっしょのヌード写真だ。
この写真がベッドの上でジョンがヨーコに抱きついている。
二人とも裸だと思っていたが、ヨーコは黒づくめの服を着ている。
ジョンはヨーコの頬に熱いキスをしている。
ヨーコは薄目を開けている。
顔も目もジョンに向かっていない。
ジョンは樹液をすする昆虫のようにヨーコにしがみついている。
ヨーコが幹で、ジョンは昆虫。あるいはからみつく蔦のような植物。
母猿と子猿のようでもある。
僕の友人は、愛情と皮肉の入り混じったような調子で、「こういうことするから、暗殺されるんだよ」と言った。
暗殺と直接は関係ないだろう。しかし、象徴的にはわかる。
「出る杭は打たれる」的にいえば、「宙空に浮かぶ星は叩き落とされる」ともいえよう。
たしかに男権主義のかけらもない。
人はこんなにも無防備で、裸で誰かに依存している姿を見せていいの?
という突出した衝撃がある。
今調べると、ジョンが射殺されたのは、この写真を撮ったまさにその日だったようだ。
このようにヨーコにべたべただったジョンが、1年半、メイ・パンという中国系女性と暮らした時期があるという。
メイはジョンとヨーコの個人秘書で、ヨーコが「ジョンとつきあえ」と指示したらしい。
そこらへんのことに庶民的に驚く必要もないんだろうが、細かいいきさつは興味がある。
なお、このメイ・パンはのちにトニー・ヴィスコンティと結婚している。
トニー・ヴィスコンティはボウイやT.REXのプロデューサーとして僕には懐かしすぎる名前だ。
ジョンのファンは僕のように「ビートルズ時代がよかった」なんて言わない。
個人になったジョンが骨の髄まで好きなようだ。
そういう人たちはメイ・パンとのことも先刻ご承知だ。
しかし、そういうマニアな方々にも衝撃的な内容がこの映画には満載されているようだ。
サエキけんぞう氏のコメントによれば
「こんなことがあったのか!
歴史を塗り替える新事実の数々!
メイ・パンの著書には書かれていなかった衝撃の状況が、
鮮烈な映像の数々を伴って貴方の脳を撃つ!
ビートルズ・ファン、ジョン・ファン、
そして全ての音楽ファンは必見だ!」
僕の中にジョン・レノンのイメージはたくさんある。
ジョンについての知識を増やすのが目的ではない。
僕の中に生きているイメージが修正されたり、有機的なつながりを持ったり、再び息を吹き込まれて元気になることがあれば、僕自身の精神も元気になるだろう。
僕がジョン・レノン『失われた週末』を見に行くのはそういうわけ。
ほら見る前から十分に長い文章になったでしょう。