謎の古墳時代を読み解く その10 新唐書の日本国 前編 歴代天皇について
今回は、以前の『旧唐書』の解説につづいて、ここでは『新唐書』について解説したいと思います。『新唐書の東夷日本伝』には、日本国の歴代天皇についての記載があります。
(ここでは、「天皇」という呼び名で統一していますが、天皇は7世紀から8世紀前半に作られたと考えられる称号のため、それ以前は、スメラミコトやオオキミなど、違う呼称であったと思います。)
□新唐書とは
1060年に成立した中国の二十四正史の中の一書です。北宋の第4代皇帝の仁宗の命により、北宋の欧陽脩、宗祁、宋敏求、曾公亮らによる選定で、『旧唐書(くとうじょ)』を改訂、増補したものとされています。旧唐書と区別するため、新唐書と呼んでいますが、単に唐書と呼ぶこともあるようです。日本については、東夷日本伝としての記載があります。原文は漢文で2頁に収まるくらいの短い文章です。
『旧唐書』は、唐末五代の戦乱の影響で史料不足による内容の不足、不備が大きかったようで、宋代になって資料を集めて不足分を補って加筆されています。ただし、選定や加筆時に、簡略化され過ぎたり、文章を改変していたり、解釈に誤解があったり、また宋代に盛んとなった中華思想や儒教の価値観によって書かれた記述があり、資料的な価値では『旧唐書』に及ばないとされています。
□新唐書による日本の主
原文では、以下のように、日本国の歴代の王(スメラミコト、オオキミ、大王、大君、尊、天皇)の名前が記載されている。以下の太字が歴代天皇名となる。
なぜこんなに詳しく中国側で日本の歴代天皇が分かるのかというと、出典は示されていないものの、『宋史の日本伝』の記載内容から、東大寺の僧侶奝然が宋の太宗に献上した『王年代紀』の記載内容を参照したと考えられているそうだ。
以下のような内容となっている。
・王の姓は、阿毎氏
・最初の主は、天御中主
・彥瀲に至るまでが32世(おそらく23世が正しい)
・皆が、尊と号し、築紫城に居した
・彥瀲の息子の神武が立ち、天皇と号し、
大和州に統治を移した
・次は、綏靖で、以下歴代天皇が記載されている
・仲哀が死んで、開化の曾孫娘の神功が王となる
・次は、應神で、以下歴代天皇が記載されている
・欽明の11年(550年)は、
梁の承聖元年(552年)にあたる(2年のズレあり)
・次は、海達で、次は、用明で、またの名を、
目多利思比孤と言い、随の開皇末にあたる
・随の開皇(581年〜600年)末に、始めて中国と
国交を通じる
・次は、崇峻で、崇峻が死んで、欽明の孫娘の
雄古が立った。
・次が、舒明、次が、皇極
この『新唐書』には、天御中主のあと彥瀲に至るまで、凡そ三十二世との記載があり、その間は省略されているが、後の『宗史』には、この間の尊の名前が列挙されている。また、『新唐書』では、「三十二世」との記載があるが、『宗史』では、「二十三世」と書かれていて、丁度23代の名前が記載されている。このため、三十二世は書き間違いや写本時の転写間違いで、二十三世が正しいと思う。
宗史に記載されている歴代の尊は以下となる。ここでは、省略された尊達は、この23代のことだとして考察したい。この最初に記載されている天御中主は、実は、日本側の神話でも、一番最初に登場する神であり、最初に出てくる3柱で『造化の三神』や、この次に出てくる2柱んと合わせた5柱で、『別天津神(ことあまつかみ』とも呼ばれている。以下が、とても有名な『古事記』に書かれている冒頭の「天地開闢の時」の一文となる。高天原に住まう神々の話しだ。なお、2人目以降の神の名は、新唐書とは一致していない。
「天地初發之時 於高天原成神名 天之御中主神 次高産巣日神 次神産巣日神 此三柱神者 並獨神成坐而隠身也」
また、新唐書では、この後にも、皇極天皇以降の天皇についても、記載がされている。以下の内容となる。(以下、西暦年が分かるものには、西暦年を補足しています。原文には西暦年の記載はありません。)
一方で、『新唐書』に記載されていた光考天皇まで『日本書紀』に記載されている日本の歴代天皇を並べてみると以下となる。
ここで、上記の『日本書紀』に書かれている歴代天皇と、『新唐書』での日本の歴代天皇を並べて比較してみると、以下のような差がある。ただし、重祚(天皇を退位した後に、再び天皇になること)についてや、孫娘や娘、子供や弟などの血の繋がり等に関する差異がある点、西暦で確認した際の数年の違いも複数の箇所で違いがある点などは、ここでは真偽の考察も難しいため、差違の対象から除いている。
日本では天皇は初代の神武天皇から始まるが、新唐書では、神武天皇の前に23世が存在し、神武天皇は第24代の天皇となる。
神武天皇の前の23世のほとんどは日本神話に出てくる神々であり、実際に神武天皇の父や祖父や先祖とされている神である。ただし、23人しかいないので当然だが、全ての神々が登場するわけではない。
神功皇后が天皇になっている。新唐書では、仲哀天皇の次は、神功が王となっている。(ここでの王は、天皇を意味することだと思う。冒頭の出だしが、日本の王は阿每氏で、初代が天御中主という記載から始まり、桓武天皇が王とも書かれているため。)また、次の時代の『宋史』では、『仲哀天皇』の次は、神功天皇と記載されている。
敏達天皇が、おそらく海達になっている。次の時代の『宋史』では、正しく敏達天皇となっている。
新唐書では、用明の別名が、目多利思比孤になっている。日本書紀には記載されていない名前。次の時代の『宋史』では、用明天皇の別名は記載されておらず、用明天皇の子供の聖徳太子についての説明が記載されている。
随の開皇(581年〜600年)末に始めて国交を通じている。奴国や倭国の時代から捉えれば、古くから朝貢をしている。遣隋使としては、600年〜618年の間に行われた。おそらく、『旧唐書』で倭国と日本国が並んで書かれていたように、倭国と日本国の国名の変化による混乱や、隋としては始めて国交を交わしたような意味合いなのかと思う。もしも、この一文に深い意味があるとすれば、これまでは倭国と、今回は始めて日本国とという意味で書かれていて、倭国と日本国は明確に異なる国(勢力)であり、中国側もそれを正しく識別し認識出来ていたという解釈があると思う。
推古天皇が、おそらく雄古になっている。次の時代の『宗史』では、正しく「推古天皇」と記載されている。
持統天皇が、おそらく総持になっている。次の時代の『宋史』では、今度は、持総天皇となっている。
阿用という名前は、日本書紀には登場しない。元明天皇の諱が「阿閇」なので、元明天皇が、おそらく阿用になっている。そのため、次の天皇の元正天皇が、天皇として記載されていない。ただし、次の時代の『宗史』では、阿閇天皇の次が帰依天皇で次が聖武天皇とあり、並び的にも、おそらく帰依天皇が元正天皇だと思われる。そのため、たまたま一代が記載から抜けてしまっていただけで、深い意味は無いと思う。
聖武天皇の時代の年号に、白亀は無い。神亀が、おそらく白亀になっている。ただし、白亀は、『旧唐書』にも、「白亀元年の調布」が登場している。また、中国の次の時代の『宗史』では、「聖武天皇が宝亀二年(宝亀二年だと聖武天皇の時代より後の光仁天皇の時代の771年になる。もし、神亀二年だと聖武天皇の725年。もし、霊亀二年だと前の元正天皇の時代で715年。)に僧正の玄昉を唐の開元四年(716年)に入朝させた。」という記載がある。こちらも、年号の二文字目に同じ亀の字がついた年号の記載誤りだと考えられる。僧正の玄昉は、日本の初期の仏教世界では功労者として有名な人物であり、日本側の記録では、元正天皇の養老元年(717年)の遣唐使に学問層として随行して入朝となっている。
※白亀元年の調布については以下にも記載あり
その7 旧唐書にある日本国 後編
https://note.com/ram3838/n/n90c5c8d8af13
孝謙天皇が、おそらく孝明になっている。次の時代の『宋史』でも、引き続き孝明天皇と記載されている。
平城天皇が、諾楽(なら)になっている。次の時代の『宋史』でも、引き続き諾楽天皇と記載されている。平城天皇は、わすか3年で退位して上皇になり旧都の平城京(奈良市)に移り住んで平城京への遷都を宣言し嵯峨天皇と権力争いで対立したため、別名が奈良帝(ならみかど)のため、こちらの通称が記録されている。
淳和天皇が、おそらく浮和になっている。次の時代の『宋史』では、正しく淳和天皇と記載されている。
おそらく誤字や誤植と思われる漢字の違いは除き、ここまでに見つけた差異を踏まえて、これからいくつか点について、考察していきたい。
□神武天皇より前の王
『古事記』や『日本書紀』では、九州より近畿に移動し、日本の初代天皇になったのが神武天皇で、神武天皇は、天照大御神の五世の孫、高御産巣日神の五世の外孫となっている。『古事記』や『日本書紀』でも、最初は天之御中主から始まり、次々に神様が産まれ、やがて大地がうまれという流れでスタートしている。この新唐書も、代々の王が記載されており、神様と王様という違いはあれど、神武天皇までの歴代が記載されていることには、違いがないと思う。
よって、私自身は、実態としては神武天皇が初代というわけではなく、実は先代もいて、その時代の中で神武天皇という人物が登場し、また新しい国の流れを生み出したのだと思っている。なお、神武天皇は、架空の神話上だけの人物ではなく、古代において全くの無からこれだけの具体的な有は生み出せないと思うため、実在のモデルがいたや、なん世代で行われたのかはわからないが、そういうことを行った一族または、王族グループがいたのだと思っている。
詳しい考察は、いずれ、『古事記』や『日本書紀』を読み解くシリーズで神代についても考察したいと思っていますので、ここでは、このくらいにします。
□神功皇后の扱いについて
実は神功皇后は、明治時代までは日本でも天皇だったと考えられていた時代もありました。『常陸国風土記』、『扶桑略記』、『神皇正統記』などでは、神功皇后は天皇として記載されているようです。代15代天皇であり、女性としての初代天皇、初の女帝とされていました。
『古事記』や『日本書紀』では、天皇としては記載されていませんが、天皇と同等かそれ以上の扱いでの活躍が記載がされています。全三十巻ある日本書紀の第八巻が14代仲哀天皇、第九巻が神功皇后、第十巻が15代応神天皇のことを記載しており、ここからも天皇相当の扱いであることがみてとれます。
天皇ではない扱いをしている有名な書は、江戸時代に徳川御三家の当時の藩主である水戸光圀の命により作成が始まり、水戸藩にて水戸学者達(儒教の影響を受けた朱子学がベース)により二百数十年継続して完成された『大日本史』です。こちらでは、神功皇后は、皇后伝の中に列記されています。
明治時代に歴代の正式な天皇を決める議論がなされ、約60年という長い期間をかけた検討の結果により、大正15年(1926年)の皇統譜令に基づく皇統譜より正式に歴代天皇から外されています。
神功皇后の父は、開化天皇の玄孫の息長宿禰王で、神功皇后は、開化天皇の5世の孫娘となります。また、神功皇后の母親は、新羅の王子である天之日矛(アメノヒボコ)の子孫である葛城高顙媛であり、朝鮮半島、新羅系血が入っています。神功皇后は、夫の仲哀天皇の死後、約69年間摂政として天皇に変わって政務を行い、神功皇后が百歳になって亡くなった後、翌年にやっと皇太子だった自分の息子の応神天皇が即位しています。神功皇后は、応神天皇を筑紫の地で産み、その後、継承問題で自分の息子を継がせるためにも、応神天皇の異母兄に当たる仲哀天皇の長男や次男を近畿地方でやぶり、大和入をしています。神功皇后は、熊襲征伐にや3韓征伐など武功を挙げています。
□神功皇后は天皇なのか
神功皇后の業績を踏まえると、九州の地から大和入りをした神武天皇の神武東征を彷彿させたり、熊襲征伐や東国征伐を果たしたヤマトタケル(倭建命/日本武尊)を彷彿させるような人物だと思う。過去の伝説的な人物と比肩されるくらい、それくらいの偉大な業績を残している。
開化天皇の5世の孫娘という血縁関係の遠さや、九州からの大和入りなどは、ここで王朝が交代したと考えてもおかしくないと思う。仲哀天皇が急死したのは、神功皇后が自分の息子に王位を継がせたく、暗殺したと考えてもおかしくない。実際にもし仲哀天皇が熊襲や仮に朝鮮半島に遠征の後、勝利しようが負けようが畿内に戻った場合、仲哀天皇には、妃としていた大中姫命との間に2人の皇子がいた。
私は、わざわざ自分の息子を天皇にしたくて、自分の夫の子供達を殺したにも関わらず、応神天皇が成人した後も天皇にしていない状況から、やはり神功皇后がある時代において天皇だったと考えている。天皇不在のまま継がせたい息子がいる中で、空位のままにするはずが無いと思うからだ。これが、神功皇后が仲哀天皇の死後、天皇に即位していたと考えると、すでに天皇はいるわけで、本人が死んだら、皇太子である応神天皇が天皇になるということで、極めて自然な流れになる。天皇を退位して上皇になり、次の天皇に位を譲るようになるのは、まだ先の時代の話しだ。そのため、新唐書にも神功皇后が王という記載があるのだと思う。少なくとも、当時の人々は、神功皇后が仲哀天皇の次の尊、大君(王、天皇)になったという認識だったと思う。
神功皇后が百歳まで生きたとは思わない。神功皇后のエピソードが全てが全て事実とも思わない。しかし、全くの架空とは思えない。『古事記』にも『日本書紀』や『風土記』にも登場し、九州や畿内を中心に多くの縁の地や伝承が多数残されているからだ。4世紀〜5世紀のある時代において実在した人物なのだろうと思っている。少なくとも、モデルとなりうる実在した人物がいたはずだと思う。
そして、神功皇后が正式な歴代天皇として認められなかった最大の理由は、表向きの正論が日本の正史である『日本書紀』で神功皇后が天皇に即位した記録が記載されていないことと、さらにもう1つのその実態としては天皇としての血縁関係の薄さにあるのではないかと思う。もし、神功皇后が景行天皇や成務天皇の娘や孫娘とかの確かな近い血縁関係だったり(血統主義)、あるいは逆に新羅王家の血を引いていなかったりしたら(純国主義)、または女性でなければ(男尊女卑)、明治大正の激動期での皇室議論において、15代天皇になっていたのではないかと私は感じている。
ここでは、「天皇」と表現していますが、天皇という呼び名は、7世紀から8世紀前半に作られた称号のため、実際の神功皇后の時代では、スメラミコト、オオキミなどと呼ばれる存在だったと思っています。この当時の呼び名には、他にも諸説あります。いわゆる倭国や日本国の政権、祀りの実権を握る代表者である王という存在のイメージでの神功天皇と表現しています。
□用明天皇は目多利思比孤なのか
用明の別名が、目多利思比孤という名前から、連想される名前は、以下の隋書倭国伝の俀国の王の名が「多利思北孤」だ。(俀国(イコク)か倭国(ワコク、イコク)かの違い等はここでは触れず、以下は倭国として扱う。)
開皇二十年(600年)に、倭王の姓は阿毎(アマ、アメ)、字は多利思北孤(タシリヒコ)、号して阿輩雞彌(アワケミ、アホケミ、オオキミ)が使いを遣わした。
王の妻は、号して雞彌(ケミ、キミ)
太子は、利歌彌多弗利(リカミタフリ)
実は31代用明天皇は、在位が約2年しかなく、587年頃には死亡している人物となっている。用明天皇は、聖徳太子の父親である。次が32代の崇峻天皇で、592年に暗殺されている。その次が33代推古天皇の時代(593〜628年)である。隋の時代の開皇20年はちょうど西暦600年で、日本での遣隋使の1回目が実施された年である。
これらを踏まえると、『隋書』に記録があり、随の時代の国交があった倭国王が多利思北孤で利歌彌多弗利という太子がいる状況を踏まえて当てはめて考えて、用明天皇の別名が目多利思比孤(多利思北孤)と推察したのではないかと思う。名前が微妙に異なるのは、誤植や誤認識によるもので、600年という年代がぴったり一致しているので、おそらく同じ名前を示すのではないかと考える。
しかしながら、そもそも600年という年代では、年代が合っていないため、用明天皇が多利思北孤にはなり得ないし(死亡してから13年も経過している)、また600年という年代に合わせると、今度は、女帝の推古天皇となり、性別が合わない問題が生じてしまう。
このように、辻褄が合わずに無理やりこじつけているだけの気がするため、用明天皇は、多利思北孤ではないと思う。
※隋書倭国伝については、以下に考察しています。
その4 隋書の倭国 前編と後編
□白亀の年号
白亀は、日本の正式な年号の記録には無い。中国側には、『新唐書』に、「聖武が立つ、改元して白亀(聖武天皇の即位は724年)」とあり、『旧唐書』にも、「開元(713年-741年)の始めに朝貢してきた際、学問を教えて貰ったお礼に渡した『白亀元年の調布』」として、二度登場する。
この年代の遣唐使では、日本側の記録では、702年、717年、733年、746年が存在している。開元の始めといえば、717年の遣唐使になると思う。この717年の遣唐使は、第九期となる遣唐使で、あの非常に有名な安倍仲麻呂、吉備真備や、玄昉(日本への法相宗を伝えた第4祖とされる仏教界に貢献した人物)等が留学生として入唐している。
白亀があったとするならば、717年の遣唐使に持っていけるように、715年や716年には少なくとも存在していたことになる。しかし、そうすると、聖武天皇が724年に即位して改元した事との辻褄が合わなくなる。そのため、旧唐書の「白亀元年の調布」は、霊亀(715〜717年)元年(715年)の誤字で、新唐書の「神武即位での改元」は、神亀(724〜729年)の誤字というのが一般的な解釈となっている。
たまたま二度とも漢字を間違い、どちらも白亀と同じ漢字に間違えたという偶然はなかなか無いのではないかと思う。また、そのときに、丁度、霊亀と神亀という2文字目に亀がある元号というのもすごい偶然、そうそうない確率だと思う。一応、いくつかの解釈があるため、以下に並べてみる。
霊や神と白では全く漢字が似ておらず、発音も異なるため、誤字ではない。
白亀(びゃくき)は、もう少し前の時代の白雉(びゃくち)(西暦650年〜654年。九州年号では652年〜661年)の間違いで誤字。「白雉元年の調布」を、持って来ていたので、返礼品に用いた。
神武天皇の即位の改元は、最初は白亀だったが、直ぐに神亀に更新されたため、日本側に白亀の記録が残っていない。
白亀の調布は、中国故事の『白亀の恩(亀の恩返しの話)』の故事にちなんで、わざわざありもしない年号の「白亀元年の調布」を作成し用意した。教えて貰った恩はずっと忘れない、日本は中国にずっと従いますのような意図の意思表示を中国側に伝えるため。
当時、白亀を元号(私年号)として用いていた国や地域が、倭国や日本国に存在していた。(ただし、私年号では最も有名な九州倭国で用いていたとされる現存する九州年号には、白亀は存在していない状況)
「白亀元年の調布」の白亀は、かつて鮮半島にあった国で用いていた年号で、そのときの調布としての品で、滅亡した国のため記録が残っていない。
漢字も音も似ていない中で、2回も同様に間違うのは不思議だし、単純な間違いだけで説明出来るわけではないと思う。白亀の恩の話も最もらしいが、わざわざ存在しないものを作成し、遣唐使団が直接中国の皇帝や朝廷に納めた品ではなく、随行して入唐した留学生が寺院で教えて貰った返礼の御礼品として納めた品であること等、仮に日本が中国に対する忠誠を伝えたいならば、もっと他に伝わりやすく工夫したやり方がありと思うので、私は違う気がする。白雉元年の調布というのも、あってもおかしくはないと思うが、それにしては、少し年代が空き過ぎているのが気になる。
このように、単純な話しから深い話しまでがあり、なかなか結論を出すのは難しい状況だ。
※白雉元年の調布については、以下にて記載
その7 旧唐書にある日本国 後編 日本人の活躍
『新唐書』には、もう少し興味深い内容があるため、後編にてご紹介したい。
■次回は、新唐書の後編 白村江の戦いについて
次回に続く
最後までお読み頂きありがとうございました。😊