自分の考えと合う人、合わない人
人間は、独りでは生きてゆけない。
ゆえに、集団生活が大事だ。
しかし、誰とでも、意見、つまり、考えが合う、という人は、
どれだけ、いるのだろうか。
遺憾ながら、私は、そのような人間ではないし、
反対に、他者に、そのような人を見た事もない。
以下は、そのような事について、述べたものだ。
01.『星矢』が好きな人
たとえば、私は、『聖闘士星矢』、通称『星矢』が好きだが、
私以外で、『星矢』が好きな人と、誰でも、意見が合うかというと、それは、また違う。
一般に、『星矢』に対して、
タイアップの玩具商品の視点で見ている人とか、
キラキラの絵の視点で見ている人とか、
頽廃的な、Boys love、通称、BLの視点で見ている人が多い。
しかし、『星矢』の原作は、漫画だ。
なぜ、それなら、漫画として、『星矢』を、ストーリーから理解しようとしないのだろうか。
『星矢』の、特定のキャラクターが好きなら、
ストーリー上で、そのキャラクターが、どのような設定で、
どのような役割を果たしているかに目が行く筈だが、
そうならない人が多い。
漫画である以上、仕方がないが、
『星矢』の視覚的な、派手な所だけに目が行ってしまう人が多い。
私は、そのような人とは、意見が合わない事が多い。
02.本が好きな人
私は、漫画以外に、活字の本を読むが、
(そうしないと、学校の教師から、馬鹿にされる事があったからである)
読書が好きな人と、例外なく、相性がいいか、というと、そうはならない。
今、ライトノベル、通称、ラノベが流行りだが、
基本的に、私は、そのようなものは読まない。
ラノベは、一見、小説の体裁を取りながら、
表紙イラストなどが、萌えキャラだったりして、どこか、漫画的である。
更に、作品自体が、どこかのクリエイターや、メーカーなどに、
漫画化、アニメ化、ゲーム化を、暗に、おもねっている、という、軟派な印象がある。
(このような流れを二次作品化というが、
ラノベの表紙や挿絵が、既に、その志向がある)
他に、ラノベは、ストーリーや設定に、一種の定型のようなものがある。
大抵、主人公が、思春期、真っ盛りの少年で、
そこに、近所の幼馴染の美少女だとか、
自分と同棲している妹だとかが登場し、
なぜか、主人公と、女達が仲良くなる展開が多い。
更に、なぜか、女の下着や、水着姿が出て来たり、
最終的に、主人公が、多くの美少女に囲まれるハーレムになったりする。
これらは、男が、汗だくで、じめじめした、閉鎖的な空間の中でいると、
自然と浮かんで来る、女への、明らかな空想の産物だ。
このような、現実離れしたストーリーは、男は、興味本位に読みはしても、
おそらく、女は、侮蔑的に、一笑に付すか、
嫌悪感を示して、白けるかして、
一頁も読まないだろう…。
このような点を顧みず、男の本能だけを描く作品は、
偏りが大きく、独り善がりであり、軽薄、滑稽と言わざるを得ない。
そのため、私は、ラノベ好きとは、意見が合わない事が多い。
03.ゲームが好きな人
私は、ゲームが好きだが、
ゲームが好きな人と、皆、仲良くなれる訳ではない。
かなり前からだが、
ゲーム業界は、名作ゲームのリメイクが流行りだ。
(これは、ゲームの主な購買層が、今では、かなり高齢化して来ている事を意味する)
音楽で言えば、
ヒットソングに対する、様々なアーティストからのカバーソングの隆盛に近いものがある。
いきおい、オリジナル作よりも先に、リメイク作から入ったというユーザーが増えている。
この、リメイク作から入ったユーザーというのが、
ゲームメーカーにとっては、
飽和状態にある市場での、久方ぶりの恩恵と映っても、
実は、ユーザーの間では、却って、問題となる。
私は、そのようなユーザーとは、意見が合わない事が多い。
たとえば、『ドラゴンクエストIII』というゲームがある。
ある時、この作品のリメイク作しか知らないユーザーに、
私が、オリジナル作の事を語っても、相手は全く理解が出来ない、という事が起きたのである。
(『DQIII』のリメイク作から入ったユーザーに、
『DQIII』のオリジナル作には、
盗賊という職業はなかったとか、
職業別の特技がなかったとか、
小さなメダルとか、すごろく場がなかったとか、
ダーマの神殿では、遊び人に転職が出来ないとか、
そういう話をしても、相手には、理解が出来なかった)
他に、リメイク作は、難易度が調整されていて、
大抵、オリジナル作よりも、易しくなっている。
このような点でも、リメイク作から入ったユーザーと話をしていて、私は、何か、おかしな感じになる。
リメイク作からのユーザーには、オリジナル作をプレイしてみよう、という、気の長い人は、少ないのだろうか。
古くて不便な物よりも、新しくて便利な物の方を選ぶ人が多いのは、よく分かるが、
ゲームにまで、そのような現象が起きている。
オリジナル作も、リメイク作も、どちらのゲームもする人なら、私とも合うのだろうが、
私の周辺には、そのような人は、あまり、見かけない。
04.自分の意見と近い意見をもつ人でも、合うとは限らない
人と仲良くなりたい時、あなたはどんな人を選ぶだろう。
何も考えず、手当たり次第、誰とでも話しかけるだろうか。
それは、寛大な処置に見えるが、大変、危険な処置でもある。
この点で、出来るだけ、自分と考えが近い人を選ぶ、というのは、慎重な人のする事だ。
しかし、自分と似ている人であっても、自分とは合わないという事は起こり得る。
そのような時、一体、どんな人間なら、自分と合うのだろうか、という悲しみが、湧き起こる。
05.明らかに自分の考えとは合わない人
明らかに、自分とは、趣味や、考えが違う人、というのは、
大抵、生活の環境も、違っている。
食生活も違っていれば、外見や体型なども、明らかに差がある。
そのような人とは、やはり、自分とは合わない事が多い。
他に、世の中には、自分の評価を維持するためとか、
相手を自分の思い通りにしようとするためとかで、
人に嘘をついても平気、とか、
卑怯な方法を取ってもいい、とか、そのように開き直って、考える人もいる。
あなたは、このような人を受け入れられるだろうか。
私は、そのような人と話をすると、気分が悪くなってしまう。
世に生きる人は、千差万別だと言えば、仕方がないが、
なぜ、そんな人がいるのか、と、私は思ってしまう。
06.自分の考えと合わない人は避ける
今の日本の若者について、
ネットのつながりはあっても、現実の人間関係が、希薄と言われる。
しかし、仕事などの金銭面、
もしくは、義理や、ボランティアでもない限り、
自分の考えとは合わない人は、無理に付き合う必要はない。
これは、家族や、親戚であっても、同じだ。
要らぬ感情の、もつれを起こしたくなければ、避けるべきである。
自分とは、根本的に違う人とは、距離を取るか、
避けるようにする。
冷たいように見えても、それが、無難に生きてゆく方法なのだろう。
というより、私は、ある時、周りの人間から、そういう態度を取られたのが、きっかけで、そう考えるようになったのだが…。
07.義務教育などで強制されて来た集団生活は何だったのか
以上の事を踏まえると、疑問に感じる事が出て来る。
戦後、日本の、義務教育などで実施されて来た、
集団行動や集団生活などである。
これらは、一体、何だったのか。
私の場合、クラスの同級生や、担任教師など、
自分に合う、合わないなど、お構いなしだった。
それが、社会に出れば、全く、考えが違っている。
人と話をする時、
昔、自分が学校で教わって来た事を当たり前と思っては、おかしな結果になる。
義務教育の内容をはじめ、
今の日本には、見直さないといけない事が、沢山、あるのではないか。
かなり前からだが、
私は、そのように感じている。