聖書を読むコツ:いのちの木④ ー 木の役割 ー
ノアと木
創世記には二つの木が見れます。一つ目のいのちの木は、人に与えられた「神の臨在の中にあるいのちのギフト」を表しています。この表現は古代の文化においてありふれたシンボルです。二つ目の木は善悪知識の木であり、私たちすべてが神様のことに聞き従うか、自分たちのために善悪を決めるかと言う選択肢を表しています。
人類がエデンの外から追い出された後も、私たちは人類が続けて同じ間違いを「園」で繰り返していることがわかります。まず、エデンの園から離れた人類が地上でどうなっていったかを見ましょう。
・カインは彼の弟を殺し(Gen 4:8)
・レメクは無垢なものたちを殺した(Gen 4:23)
・その「死の力」が世界とその歴史を支配している(Gen 5)
・また霊的な存在までもが反逆し、
さらなる悲劇を地上にもたらしている(Gen 6)
この、曲がった世界において、世界を元どおりにできるかもしれない人物が生まれます。それが、ノアです。レメクはノアを生んだ時、こう言いました
創世記 5:29
彼はその子をノアと名づけて言った。
「この子は、主がのろわれたこの地での、
私たちの働きと手の労苦から、
私たちを慰めてくれるだろう。」
ノアは、初めてこの曲った世界を元に戻せる可能性を秘めた人物として描かれています。ノアの物語において、神様がノアに「ゴフェルの木」で箱舟を造るように命令する時、新たな「木」というフレーズが登場します。神様はこの「(ゴフェルの)木」と「ノア」を通して人類を救う計画をたてました。
物語は悲劇的に進み、誰も神とノアを信頼せず、箱舟に乗り込む人々はノアの家族だけでした。そして、世界に大洪水が訪れます。ノアとノアの家族は長い間、地上を覆っている水の上ですごすこととなります。
洪水が引いていく時、ノアと木(箱舟)が山の頂上に到着します。
創世記 8:4
箱舟は、第七の月の十七日にアララテの山地にとどまった。
そこでノアは神様に生贄を捧げました。
創世記 8:18-21
そこでノアは、息子たち、彼の妻、息子たちの妻たちとともに外に出た。
すべての獣、すべての這うもの、すべての鳥、すべて地の上を動くものも、種類ごとに箱舟から出て来た。
ノアは主のために祭壇を築き、
すべてのきよい家畜から、また、すべてのきよい鳥からいくつかを取って、
祭壇の上で全焼のささげ物を献げた。
主は、その芳ばしい香りをかがれた。そして、心の中で主はこう言われた。「わたしは、決して再び人のゆえに、大地にのろいをもたらしはしない。
人の心が思い図ることは、幼いときから悪であるからだ。
わたしは、再び、わたしがしたように、
生き物すべてを打ち滅ぼすことは決してしない。
神様が洪水を用いた理由は、神様がもう二度と洪水を用いない理由になりました(もう地上のものを滅ぼさない)。この神様の心の変化の間にノアの生贄の物語があります。ノアは祭司としての役割を山(高きところ)にある木(箱舟)のそばで行いました。これが、初めてのとりなしの行動です。
木の幻
ノアは試練を乗り越えましたが、すぐに堕落が訪れます。彼は「園」で裸になって辱められてしまいました。
Gen 9:20-21
さて、ノアは、ぶどう畑(ぶどうの園)を作り始めた農夫であった。
ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。
さて、「園」と「裸」という単語を聞いて思い起こす聖書の箇所はないでしょうか。そうです、エデンの園で裸だったアダムとイブです。ここで、聖書の著者は、エデンの園での失敗を再現しています。読み手に、新たな園からの堕落を伝えているのです。聖書はこのようなパターンを用いて読み手とコミュニケーションをはかっている書物です。
ノアの一人の孫はアッシリアとバビロン(バベル:同じ単語)の街を建て、全ての人類が集まり、バビロンにおいて自分たちのために「名を上げよう」と言い出します。神は彼らを散らし、物語を白紙に戻し、アブラハムの家族が登場します。神はアブラハムにあなたの「名を大いなるもの」としようと約束するのです。
アブラハムと木
アブラハムは神の声を聞き、彼の父の家を離れる決断をしました。彼がカナンの地着いた時、彼は「モレの木」のところへ行き、幻を見ます。
Gen 12:4-9
アブラムは、主が告げられたとおりに出て行った。
ロトも彼と一緒であった。
ハランを出たとき、アブラムは七十五歳であった。
アブラムは、妻のサライと甥のロト、
また自分たちが蓄えたすべての財産と、ハランで得た人たちを伴って、
カナンの地に向かって出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。
アブラムはその地を通って、シェケムの場所、
モレの樫の木のところ
まで行った。当時、その地にはカナン人がいた。
主はアブラムに現れて(Heb. ヤラァ 「見えるようになって」) 言われた。
「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。」
アブラムは、自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。
彼は、そこからベテルの東にある山の方に移動して、天幕を張った。
西にはベテル、東にはアイがあった。彼は、そこに主のための祭壇を築き、主の御名を呼び求めた。
アブラムはなおも進んで、ネゲブの方へと旅を続けた。
アブラハムの物語は山々と木々で埋め尽くされています。彼がエジプトから戻ってきた時、神はアブラハムとその山々と木々の間を共に歩き、その土地の周りを見せ、彼の子孫にその場所を約束しました。
創世記 13:3-4, 14-15
彼はネゲブから旅を続けて、ベテルまで、すなわち、 ベテルとアイの間で、以前天幕を張った所まで来た。
そこは彼が最初に築いた祭壇の場所である。その所で アブラムは、
主の御名によって祈った。
・・・・主はアブラムに仰せられた。
「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、
永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。
アブラハムの物語において、神様は10の試練を彼に与えました。いくつかは乗り越え、いくつかは失敗します。しかしどんな時においても神様はアブラハムに対して忍耐しておられました。
二つの木とアブラハムの最後の試練
アブラハムの物語において2つの最大の出来事はハガルが消えること、そしてイサクを生贄として捧げることだったと言えます。
創世記16章において、アブラハムとサラは神様との約束において彼らの目にとって良いと思うことを実行うすることを決めます。それは、サラとの子供ができないと諦めたため、奴隷のハガルと子供をつくることです。アブラハムはハガルと子供をつくりました。しかし、それはただただ、サラに嫉妬をさせる物語に終着します。創世記21章において非情にも、アブラハムとサラはハガルとその息子を荒野へ追放しました。
次の章で、神は「測りには測り」の試練をアブラハムに与えます。なぜなら、アブラハムは彼の初めての子供、「イシュマエル」を「生贄」として荒野に追いやったからです。神はアブラハムに約束の子イサクを「山」の上で生贄にするように求めます。この「イシュマエル」と「イサク」の物語は共鳴しているのです。アブラハムの非道な行いによって、起きてしまった出来事の結果として描かれているのです。このアブラハムにとっての究極的な瞬間が「木(やぶ)」と「木(たきぎ)」で印づけられています。イサクは自分の命を神に捧げるために「たきぎ」を運んで来ました、そしてアブラハムはその「たきぎ」の上に、イサクをのせます。アブラハムの最終試練において、「彼の目にとって悪と見える」ことを、神様の知恵に頼り行いました。
しかしアブラハムの決断が命への扉を開いたのです。アブラハムは「やぶ」にツノを引っ掛けている雄羊を見つけます。ノアのように、アブラハムはそれを生贄として捧げ、その場所を「アドナイ・イエル(主が見られる / 主の山には備えがある・主の山で、主が現れてくださる)」と名付けました。この場所が、後に「神殿」となります。
創世記22:6−14
アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎ(木)を取り、
それをその子イサクに負わせ、
火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。
イサクは父アブラハムに話しかけて言った。
「お父さん。」すると彼は、
「何だ。イサク。」と答えた。
イサクは尋ねた。「火とたきぎ(木)はありますが、
全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」
アブラハムは答えた。
「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」
こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。
ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、
アブラハムはその所に祭壇を築いた。
そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、
祭壇の上のたきぎ(木)の上 に置いた。
アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。
そのとき、主の使いが天から彼を呼び、
「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。
彼は答えた。「はい。ここにおります。」
御使いは仰せられた。
「あなたの手を、その子に下してはならない。
その子に何もしてはならない。
今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。
あなたは、自分の子、
自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」
アブラハムが目を上げて見ると、
見よ、
角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。
アブラハムは行って、その雄羊を取り、
それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。
そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。
今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。
木の役割
二つの木はコインの表裏です。良いものを与える神を信頼するかどうかという選択を表しています。高い所にある木という、、私たちが問題を起こした場所で、不信仰の解決は起こります。ノア、アブラハム、そしてイエスキリストの物語からこれを読み取ることができます。
神様はいのちの木を通して、その神のいのちを私たちに提供しました。しかし人類は、自分たちのために知恵を取ろうとすることでそれを逃します。善悪知識の木は何か元に戻さなければならないことを指し示しています。私たちに必要なある人物とは、ただ善悪知識の木から実をとって食べないというだけでなく、善悪知識の木から人類が実をとって食べてしまったがために生じてしまった、人類の悪と痛みを覆い、そして向き合う人のことを指します。そして、私が考える限り、アブラハムが向き合う二つの木は、その道でもあるのです。
アブラハムとノアの物語は、木が「繰り返される堕落」の象徴となるか、「人類の失敗をやり直す」象徴となるかの分岐点となっています。これらの可能性は聖書のいたるところに散りばめられているのです。そして、全ては高きところで捧げられた、キリストの犠牲にまで至ります。
ノアとアブラハムは、二人とも高き所にある木の前で大切な試練に直面しました。彼らの従順と犠牲が慈しみと祝福の扉を開き、それらの物語が、善悪知識の木の試練を乗り越え、人類を回復に導くある一人の人物が未来に起こることを指し示していました。
そして、キリストは高きところで木(十字架)にかかり、神の愛と非暴力を表したのです。私たちが失敗したところ、それは十字架です。私たちを愛しているキリスト(神)を殺すという悲劇を私たちの手で行なったところです。しかし、その場所が世界の回復の始まりとなり、私たちの人生の回復の場所になり得るのです。