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外交僧か?戦国大名か?安国寺恵瓊の生き方

昨日(10/1)は安国寺恵瓊の命日。慶長5(1600)年、享年62か64。
安芸武田家の生まれだが、一族が毛利元就に滅ばされると、出家して難を逃れたとも。京都の東福寺で修行を重ね、安芸の安国寺の住職となる。そこから、毛利家の外交僧として活躍することとなる。

そして大きな転機となったのが、秀吉の備中高松城水攻め。この際には毛利家の代表として秀吉と交渉に臨んでいた。この時起こったのが本能寺の変。安国寺恵瓊は秀吉の和睦の要望を受け入れて「中国大返し」を演出。その後は秀吉にも仕え、6万石の戦国大名にもなっていく。おそらく安国寺恵瓊の中には、「秀吉に天下を取らせたのは自分だ」という思いもあり、豊臣家に肩入れする土壌が形成されていたのではないか。


そのため次の運命となった「関ヶ原の戦い」では終始西軍の陣営にあり、特に本家でもあった毛利家を西軍に引き入れて総大将にかつぐことに成功。この時、これに真っ向から反対して東軍につくことを主張した吉川広家と対立した。
しかしこの外交戦では吉川広家が上手で、吉川は黒田長政を通じて徳川家康に内通。結果的に関ヶ原の戦いでは南宮山の麓で吉川軍が動かなかったので山上にあった毛利家本隊が動けず、毛利家は中立の立場をとってしまうことになる、傍にいた安国寺恵瓊もなすすべがなく、敗走することとなった。戦後は西軍の首謀者として捉えられ、石田三成小西行長らとともに六条河原にて斬首された。

京都との関りとしては、建仁寺の方丈を安国寺から移築。首塚も建仁寺に残る。さらに東福寺の塔頭寺院である同聚院には、石田三成や宇喜多秀家とともに徳川家康をどう倒すか密議をおこなった茶室も残っている

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最後に紹介したいのが、天正元(1573)年の安国寺恵瓊の書状。次のように記されている。「信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候
つまり本能寺の変の9年前にすでに信長の突然の終幕と、秀吉の明るい未来を予言しているということ、人を見る目が凄かったことがわかる。だからこそ、関ヶ原の戦いでは安国寺恵瓊の先見の明をもってすれば、家康有利なのは充分にわかっていたはず。それでも西軍を推したのは、やはり自分が豊臣家の天下を作り上げたという自負と、徳川家康に負けまいとするプライドだったのか。最後は誇り高き精神とも言うべき、安国寺恵瓊の人間らしさが出たのではないか、そういう意味で、とても魅力的な生き方をした人物だと思う。

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