広隆寺・弥勒菩薩半跏思惟像
やっと会えた。弥勒は十年前に初めて会った時と同じお姿でそこにおられた。広隆寺の境内にある霊宝殿の広間に入り参拝する人々の列に加わってゆっくりと弥勒に近づいていく。少し目を伏せ、あるかないかの微笑みを浮かべた頬に右手の指を近づけ、右足を半跏にして座っておられる。長い間の念願であった再会を遂に果たすことができたのだ。
静かに弥勒の前に立った。赤松を削ったノミの跡が焦げ茶色の表面に見えるほどの距離だ。じっと見ていると強い想いがこみ上げてくる。何と穏やかな、何と美しい神秘的なお姿だろう。そっと息を吐く。静かな音楽がそこに形をなして存在している。木でできているはずの弥勒が、とめどなく柔らかく見える。まるで体温を持っているかのように。
仏像としてはさほど大きくなく、ほぼ等身大であろうか。私の目よりもほんの少し高い位置にあるお顔をつくづくと眺めから少し後ろに下がり、列を離れて霊宝殿の中央から全体を視野に収めた。自分の身体がみるみる安らぎと幸せに満たされていくのが分かる。弥勒から発せられる音のない声が身の内に広がる。
「それでよい」
弥勒はそこにおわすだけで私を癒しているのだ。少し涙が滲んだ。
しばし弥勒の前に立ち尽くし、穏やかな喜びに存分に浸った後、再び人々の列に戻る。この霊宝殿には弥勒の他にも十二神将、阿弥陀如来座像など、名だたる国宝が壁に沿って所狭しと並べられており、それぞれに強い想いを内側に呼び起こしてくれる。どれも素晴らしい。特に弥勒と対面する壁にそびえ立つ不空不空羂索観音と十一面千手観音は圧巻である。天井近くまでそびえ立つ二つの巨大な仏像の前に立つとその威容に圧倒され自ずから尊崇の念が湧いてくる。
広間を一巡りしてから人の列が切れるのを持ち、再び弥勒の前に立った。やはりこの仏だけは別格だ。再び身体が安らかな心に満たされた。
突然、閃くものがあった。そうか。この弥勒は見上げ崇拝する存在ではないのだ。人の上でも下でもなく、我々と共にありながら罪深き者たちを受け容れ、許し、救いの誓いを成就しようと思惟されている仏なのだ。
外に出る頃には一時間あまりが過ぎていた。妻と十年前にここを訪れたのは夏も盛り。霊宝殿の入り口には美しい花が咲き乱れていた。その時に弥勒の素晴らしさに心を奪われて以来、もう一度、誰に気兼ねすることなく一人、思う存分気が済むまで弥勒の前に立とうと決心していたのだった。あれから私たち夫婦は二人の子どもを授かり新しい住まいを持ちいくつかの職場や役職を経験して、我が身の上には少なからぬ様々な変化があった。しかし、弥勒はやはり、あの時のままだった。
伝によれば弥勒菩薩は兜率天におわし釈迦の入滅後 五十六億七千万年の後、遂に救われなかった一切衆生を救うために来迎するという。千四百年前に刻まれた広隆寺の弥勒も、その永遠とも思われる時間を半跏のまま、仏の前に慌ただしく去来する凡夫たちを救う知恵を練っておられるのである。
また、いつか会いに来よう。太秦の駅に向かう道を歩みながらそう思った。次に再び弥勒に会えるのはいつのことだろう。その頃、私の人生にはどのような変化が訪れているだろうか。そして、その時にもきっと弥勒はそのままのお姿でここに座っておられるに違いない。
(2001.5.26)